−18年 -8-/13
お久しぶりです。燃料もらったのと、回復してきたのでちょっとだけ。
キリエはぴっ、と小姓の服の袖を伸ばした。今日はライヒャルトとしての業務の期間で、ルイーゼは帰りを待っている、という設定だ。まあ、城の方では同行しているということになっているのだが。
行き先は、ロランディとの国境に近い街のひとつ、ヴェーレシュタイン。業務内容は、アルノルトの見聞を広げるための視察とエリオ・ロヴァッティ伯とその家族の出迎えだ。
アルノルトの影武者として、また護衛としても毒味役としても仕事ができるキリエは、今回はこの計画が持ち上がった当初から同行が決定していた。
何にでもそれなりに使える、生きた盾。
キリエはそうであることを自負している。
ゆえに、この役目も喜びとともに受けたくらいだ。
国境沿いまで、馬車を使って二日。キリエはライヒャルトとしてアルノルトの馬車に同乗し、身の回りの世話と護衛を引き受けていた。
とはいえ、帝室の使う馬車ともなれば、音がだだ漏れるような作りでもなく、また車輪と馬の足音で大概のことは隠れる。また防犯のため外からの人目もない。
「叔父上はね、面白い人だよ。変な人と言ってもいいが」
「私もすこし教えてもらったけれど、あれだよね、わりと家族と画材さえあればいいや、みたいなところない?」
「まさにそれ。正解。でもって描きがいのある人が好きだ」
その点、キリエは好かれると思うよ、とアルノルトは言った。
果たして本当にそうだろうか?と思ったが、キリエは口にせず、微笑んだだけだった。
家族を守る。それ以外にはそれなりに塩対応というやつらしいという情報は、隠密のほうから入手している。
キリエが家族と見做されることはことは、本来ありえない。キリエはただの影武者で、隠密で、アルノルトの盾の一つとしてはまだまだ未熟なものでしかない。
武器は容姿だけ。小姓としても侍女としてもまだ一流には遠く、毒耐性も、毒を嗅ぎ分ける技も、戦う力も何もかもが要求されるレベルには達していない。
アルノルトとマルガレーテとヴィルヘルムがおかしいのだ。キリエは本来、いつでも使い捨てられる道具の一つでしかないはずなのに。
「……キリエ。また余計なことを考えているね」
キリエは目を伏せた。
「お見通しってこと? 恥ずかしい」
「いいかいキリエ。お前はそれでいい。いつだって僕が思考を汲み取りやすいお前でいてくれ、そうすると僕もお前といるときに気を張ったり、物事を深く考えなくて済む」
アルノルトはそう言ってキリエに向けて微笑んだ。このうえなく綺麗に。
「キリエ。アドルフィーネからすこしだけ話を聞いた。
……これだけは覚えていてくれ、エルゼの言葉が、意見が、すべてではない。エルゼの求める『影武者』と、僕が求める『影武者』には必ず齟齬がある。
なぜなら、エルゼは僕の乳母であり教育係のひとりであっても、僕ではないのだから」
ぱちり、とキリエは瞬いた。
目から鱗が落ちたとはまさにこのことだった。
そうだ。そうなのだ。そのはずなのに、それをさっぱり忘れていた。
普段から、彼の好みのお茶を淹れる技術は磨き上げてきたし、彼の服の好みも食事の好みも何もかも把握して、彼に良いように己を動かしてきたはずだ。
それなのに、肝心の理念が彼に沿っていないというのは、たしかに、ひどくおかしなこと。
「……そういえば、確認したことがなかったわ」
「そうだね」
アルノルトはふふっと笑った。その笑顔はいくぶん崩れたもので、年相応とまでは行かずとも、まだ十代半ばにもならぬ少年の幼さが垣間見えた。
キリエはそのことが嬉しくて、つられて微笑む。
「我が主アルノルト。あなたは、私にどんな影になってほしいの?」
「僕の鏡」
端的なアルノルトの言葉を聞いて、キリエは眉を上げた。アルノルトは微笑んでいる。
「鏡、というと、行いを写すもの、ということでいい?」
「そう。僕がなにかをする、そうするとキリエも僕と同じように動くでしょう?そういう、僕が自分を客観的に見るための鏡。僕が進む道を間違えればすぐにわかるし、僕が良き者であればお前もそうなる。そういうもの」
「忠言は不要なのね」
キリエが言えば、アルノルトはおかしそうに言った。
「お前は僕の影、それは仕事に含まれてないじゃないか。そんな、業務外のことまでさせようとは思わないよ」
「その代わり、どこまでも一心同体ということね」
キリエがそう言うと、アルノルトはすこしはにかんだような笑みをみせた。
「アル、私の命はあなたのもの。どこまでもついて行くよ、地獄であっても」
あなたが救い、あなたが購ったこの命。
どう使うかも、生かすも殺すも、すべてあなたのもの。
キリエにとってそれは至極当然のことであったけれど、こういうときは言葉にすべきだと思ったので。
しかしアルノルトは眉尻を下げた。
「いや、地獄までついてきてくれなくてもいいんだけど……?」
「そうよ、あなたが先に死ぬとしたらそれは病か寿命だものね。そうすると道案内の方が近いのかも」
「…………そう、だなぁ」
アルノルトはすこし複雑そうだった。キリエにはその機微のうちまでは読み取れなかったが、なにぶんそういうものはそういうもの。
キリエはアルノルトの生きた盾だ、基本的にアルノルトより後まで生き延びるものではない。
「変な顔するのね。私を影武者にしてくれたのはアルなのに」
「……うん。そうだな……ごめん」
「謝られる理由がないよ」
「それでも。……僕はいま、お前の矜持を傷つけるようなことを考えたから」
「それなら受け取るわ」
キリエはにこりと微笑んだ。
馬車の歩みはすこしゆっくりになっている。そろそろ目的地だろう。
「さて、おしゃべりはおしまいだ。ライヒャルト」
「は」
ライヒャルト。そう呼ばれたキリエの眼光が、声音が、すべてが変わる。
「叔父上はお元気かな」
「そのようにお聞きしておりますが……」
「うん」
キリエ自身の服の裾を伸ばして整える。その仕草はすでに少年のもの。
馬車が停止するのを待って、彼は馬車の中で立ち上がったアルノルトの着衣をすばやく整えた。馬車の扉が開くまでの短い時間だったが、訓練を修めているキリエにとっては造作もない。
開かれた扉から、まずキリエが足早に、それからアルノルトが降りた。
白髪混じりの紳士が、馬車のタラップのすぐ下で出迎えた。
そのつむじを見つめ、アルノルトは悠然と微笑む。
目下は、許されない限りは目上に話しかけない。
「出迎えご苦労。久しいな、クヴァンツ辺境伯」
「老骨を覚えていてくださいましたか」
マインラート・アドルフ・クヴァンツ辺境伯爵。代々ロランディとの国境にあるアーレンス地方を治めるクヴァンツ家の当代当主だ。何代目だったかが一瞬思い出せずにキリエは瞬いた。
「アルノルト皇子殿下。ヴェーレシュタインは蘭城へようこそお越しくださいました」
蘭城、というのは、ヴェーレンシュタインにある古城のことだ。もとは要塞としての機能を備えた城塞だが、この二百年はロランディとの戦もないため、その機能が実戦に使われなくなって久しい。
ローゼ帝国という名のこの国の城は、多くは花の名前をつけられている。
たとえば、この城もそうだが、帝城のことは薔薇城と呼び習わす。帝国の名はローゼ、帝室の姓がローゼンハイム。それが由来の、安直だが馴染みやすい名前である。あの、庭の美しい薔薇は後付けのものだ。
なお、直系皇族が『ローゼンハイム』であるだけでなく、臣籍にある皇弟公が『ローゼンミュラー』の姓を取るのはそういう理由である。
ついでにいえば、帝室の人間の紋章には必ず薔薇の意匠があるし、帝室の人間には象徴となる薔薇が決められる。
たとえば今上帝ヴィルヘルムなら深い紅色に三重の花弁が特徴の『ヴァレンティン』、皇后マルガレーテは淡いピンクとその芳香と丸みのある形の『アデライーデ』。アルノルトは八重の白薔薇『ルーカス』だ。
「叔父上の出迎えついでの視察になったことは済まないと思っているが、回れるだけ回ってみたい」
「お心遣い、ありがたく存じます」
アルノルトはそれに微笑みで答えた。歩き出すアルノルトにキリエも追従する。
「殿下、馬車に同乗させていたそれは?」
「側近の一、小姓だ。姉共々よく働いてくれている」
「左様でございますか。このマインラート、殿下のご健勝とご成長、心よりお喜び申し上げます」
キリエが目礼するとクヴァンツ伯はすこし微笑んだ。
「姉、というと、似ておるのでしょうか?」
「そうだな、よく似ている。生真面目なあたりもそっくりだ」
「それはそれは」
「おかげでおちおち抜け出せぬぞ」
アルノルトはいたずらっぽく言ってみせる。
嘘つけ、おとといもキリエを巻き込んで城下に降りたくせに。いや、別にキリエとてそれが嫌だということはないのだが。
「殿下、あまり危ないことはなさいませぬよう」
「わかっている」
まあ、そこらのごろつきなどよりよっぽど強いのだが、アルノルト殿下。
キリエは表情を変えることなく思う。
なにせ剣術指南役のオスカーに教えられ、新米騎士のヴァルター相手なら一本取れるようになってきているので。ヴァルターも自分よりも背丈のよほど小さい子供相手だ、手加減することもあるが本気になることも多くなってきたし、なにより彼も叙勲される程度には強い。
なお、キリエもおおよそは同じくらいの腕前だ。
剣はよくある獲物なので、扱えるに越したことはないからと仕込まれた。
その後、アルノルトはまず部屋、最上級の客間に案内され、クヴァンツ伯の気遣いでキリエにもすぐ近くの部屋が貸し与えられた。
「これがそばにいるのは心強い」
直截的な感謝は述べなかったが、アルノルトはその気遣いを許す、と言外に告げた。
「もったいないお言葉」
クヴァンツ伯は微笑んで頭を垂れた。
アルノルトの立太子も数年以内というこの段階で、この幼さの残る皇子にそう言わせたのは今後彼の立ち位置を左右しうる。また、そもそもここはロランディ───皇后マルガレーテの故郷に近い土地だ。
ロランディの物や習俗、そして交易による利益が多く入る土地でもあるので、彼の立場がそうそうゆらぐとも思えない。
どちらかといえば、才女と名高いアドルフィーネを担ぎ出そうとする相手を抑えるための要になるはずだ。……そんな話を、キリエはアルノルトと車中でしていた。
クヴァンツ伯は、アルノルトに侍女を二人つけて去って行った。今日はもう午後なので、このあと晩餐があり、城内の案内は明日という予定になっている。
「殿下。お召替えを」
「わかっている。選出は……そうだな、蘭というからにはそれらしいものを。細かいことはライが決めろ」
「御意」
ライヒャルトとして、キリエは微笑した。
侍女の仕事や小姓の仕事、案外楽しいのはこういうところかもしれない。
自慢の主人を、状況の許す範囲で好き勝手に飾ることができるのだから。
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