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−19年 -5-/12




 ───足音は最小限に。


 気配をゆるゆると周囲に溶かし、気づかれないように背後に忍びよる。

 床に自分の影が映っていないことを確認し、そのままナイフを構えた。

 もちろん、どこの国で使われているとか、そういうことがわからないものだ。王都なら色々なところで買えるような普通のナイフを、色々なところから、色々な作者のものを買い、暗殺用にしっかりと研ぎあげ、石さえ切り裂くほどに仕立て上げた代物である。

 全力で四本、撃ち込む。

 これならいけるか、と思った。が、ナイフは男に刺さる前に、すべてがフッと蹴り落とされた。まるで冗談のような光景だが、現実である。


 深追い厳禁。その教えに倣い、キリエは即座に撤退した。そのまま後退し、追いつかれる前に窓の外へ飛び出す。ここは二階、上手くやれば着地は可能だ。

 ロープを使いつつ、しゅたっ、と着地し、キリエはそのままロープを回収して走った。目指すは庭の林の中の、ある一点だ。

 後ろから追い立てて来る男が怖い。怖いが逃げ切らねばならない。小細工とは百も承知で、小回りを生かして林の中をジグザグに逃げてはみるが、あの男、恐ろしいばかりの俊足なので大した効果はない。

 それでも、あるポイントに駆け込み、そしてキリエは倒れ込んだ。


「んのアホ!!逃げ切ったくらいで安心するやつがあるか!!」

「……わかってます、わかってます、けど、木の上に登る間に、捕まりますよね、私……」


 切れ切れの息でそう言うと、男の声とは逆側から声がした。


「何にせよ、ちゃんと逃げ切ったんだから、試験自体は合格です。そうですよね、筆頭?」


 つん、とそう言ったあと、彼女はキリエの顔をのぞきこんだ。


「お疲れさま、キリエちゃん。大丈夫じゃなさそうね」

「ぜっんぜんだめです……」


 疲れ切ったキリエのぼやきを聞いて、彼女──ゾフィーアは笑った。


「その歳でそれだけできたら上出来よ。そろそろ番号もらえるかもね」


 ゾフィーアは、現在“(ツヴァイ)”の番号を冠する、ローゼ帝国帝室子飼いの隠密の中ではきっての実力者だった。ちなみに、トップはキリエを追い立てていた男、ヴェンツェルである。“(アインス)”の称号と、この隠密部隊の頭である“(ヌル)”の称号を兼ね備えた、本物の暗殺者にして諜報員である。

 番号自体は0から17まであり、それぞれ実力順である。ただ、頭である“0”のみ、実力ではなく、人望や現王への忠誠心の高さ、人を纏めて従わせる力が評価され、選出される。

 その二つを兼任するヴェンツェルはまぎれもない傑物であった。影の、という文言こそつくが。


 キリエは拾われてすぐのころから、ずっとこの集団に混ざって変装技術や変声技術、そして影からアルを守るための戦い方について叩き込まれてきた。この部隊の末端の男を夫としているエルゼの差配によるものだ。


 一年かけて、基礎を学んだ。

 スラムでこびりついた、いらないクセを徹底的に削ぎ落とし、効率的な動きを叩き込まれる。

 筋肉と、侍女という職務上なくてはならないすこしの脂肪を得た体も、やわらかくほぐして、たくさんの動きを取り入れて、できることをすこしずつ増やす。指先につまんだ刃物や針をうまく投げる方法、手首のスナップでナイフを綺麗に投げる方法。縄をかけ、壁を上り下りし、衝撃や気配をうまく殺す術。服の中に武器を隠す術。隠れた武器を見つける術。


 そして、人体の構成も学んだ。

 効率的に人を色香に惑わせ、意識を奪い、ときには殺すために。そして、自分が怪我を負ったとき、毒に侵されたときにも、それは必要な知識だった。

 とはいえ、色仕掛けを実行するにはキリエは幼すぎたため、そのための教育は受けても、実際にトラップとして実践するにはあと五年はかかる。スラムではあと二、三年といわれたが、こちらだとあと五年といわれてキリエは最初こそ驚いたが、今ではそれも納得している。


 他に、毒と薬の知識もあった。毒を嗅ぎ分け、舌で味わい分け、毒にならすことも。

 これは、皇族の護衛、毒見役としても必要な知識だった。とはいえ、皇族の側近に位置するキリエが毒見をするのは、よっぽど人がいないとき、もしくは内輪での会などのときだけであるが。

 逆に、誰かが何らかの症状を起こした時のためにも、自分が毒を飲んだ時のためにも、毒と薬の知識は膨大な量を植え付けられた。

 一気に殺さない、中毒性の高い鉱物由来の毒は、皇族にもよく使用されるため、毒味の時にもかなり気を使う。他にも、草木由来の毒もそうだ。代表例なら附子や鈴蘭などだろうか。入手のしやすさがネックになる。

 実際キリエも、すこしとはいえ、猛毒を盛られたことがある。ゆるい毒は茶会の時のように日常茶飯事だ、だんだんエスカレートしているけれども。……そういうときにも、解毒が必要なほどの状況に追い込まれることもあって、この知識は役に立った。


 このことを、アルノルトに告げたことはない。

 キリエが、しょっちゅう料理に毒を盛られているだとか。隠密として、諜報と暗殺の訓練を──むしろ、そういう凶手と戦う手段を得ているとは知られているけれど、そういう存在に近づいていることも、アルノルトは知らないのだ。

 ただ、キリエのわがままなのだ。

 なるべく、アルノルトを守れる存在でありたいという。


 キリエは息を整えながら、薄く笑った。


「筆頭、ゾフィーアさん、薬と毒の臨時講習お願いします。附子(トリカブト)食べたくらいじゃ死なないようになりたい。今度、ロヴァッティ伯爵がいらっしゃいますから、毒見と──もし、毒が入っていた場合、私が引き受けられるようになりたくて」


 マナー講座もエルゼさんに頼まなくちゃ、とキリエはため息をついた。

 どれだけ頑張っても、まだまだキリエの理想には遠い。


「ねえ、頑張りすぎちゃダメだよ、キリエちゃん。潰れたら意味がないんだから」

「ちゃんと寝てますよ、訓練がない日は」


 心配そうなゾフィーアの顔を見て、キリエは苦笑した。

 キリエとて、引き際くらいは心得ているつもりだ。倒れてしまえば、影武者もできなくなる。

 それだけは許されないことだ。

 こうして夜に訓練がある日の翌日は午前中には影武者はしていないし──というのも、目の下にクマができるからだ──、逆に言えば、訓練のない日はしっかりと休んで顔色を保っているという意味でもある。


 そして、あとはキリエのプライドの問題だった。


 皇家の前で、これに毒が入っている、と告げることは容易い。

 だが、それを公にする前に、キリエにはすべきことがある。


 だれが用意して、どこを経由して、だれが入れて、だれを狙ったものなのか。


 いつもの毒のように、キリエのものだけならば良い。キリエのために用意された毒ならば、それもキリエ自身の糧になるだけだからだ。

 そうでないのなら、経路をたどり、犯人を特定し、それを暗殺するならばする、誰かしらを馘首をすべきというのならばする、刑罰を適用するのならばそれもする。

 ただそれは、隠密の長が、皇帝に対して奏上して行うことである。


 キリエがすべきことは、自身の任務を完璧にこなすこと。

 毒味をし、その場にある毒を受けること。気付かれないように失敗させることで、尾を出させること。ただそれだけだ。


 己こそは、皇太子アルノルトの、最後の盾。

 守るべきものは、その身であり、彼の面子であり、彼の全て。


 その矜持にかけて、これを失敗することをキリエは己に許さない。

 まだできることはあるのだと、いくらでもやれることはある、まだ研ぎ澄ますべきだと、キリエはまだ毒を呑み続けると決めているのだ。


 毒を呑みながら、さてどれほどのことができるだろう。キリエは苦笑した。


「ロランディの礼儀まで、手が回るといいんですけど……」

「え、どうして?」


 ゾフィーアのきょとんとした声に、キリエは苦笑した。


「あなたもドレスを着るのよ、って言われてしまいましたから。『お母様』のご命令ですから、ちゃんとやりたくて」

「お母様?……えっと、うん?……もしかして、だけど、皇后陛下のこと?」


 ゾフィーアの驚愕をよそに、キリエは真面目な顔で頷いた。

 ここは隠密の場。公ではない。だからこそ情報共有を含めて口にした。


「だって、本当に娘になるか、アルの嫁になるか、母と呼ぶか、三択で選べって言われたら三つ目しかないでしょう?」




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