−19年 -2-/12
お茶会編。一話で投稿するつもりでしたが、長くなりましたので真っ二つです。
腹を刺されたスラムの子供が拾われて、約一年が経った。
実のところ、錆びたナイフで刺されたキリエの容体は一時は危うかったが、意識は見事回復したし、すくすくと育ち、そしてみっちりと教育を受けた。もちろん、アルノルトが皇子であることも知らされ、それに際しての礼儀も教えられた。
とくにエルゼは「あなたの命を拾ったのはアルノルト殿下です。あなたの命は、アルノルト殿下のために使いなさい」と繰り返しキリエに教えたし、キリエはそれに素直に頷いた。スラムの常識に則ると、それはすごくわかりやすくて、当たり前の理論だった。
また、エルゼはアルノルトの影としてふさわしくなるよう徹底的にキリエを教育したし、キリエはそれに必死で食らいついた。ちなみに、エルゼはアルノルトに対しての礼儀にもうるさい。
汚かった肌は綺麗に磨かれ、バサバサの髪はなめらかになった。喉を潰しかけるくらい、アルそっくりの声音を出せるまで練習した。服装は一般市民よりも贅沢になったし、挙措は皇子と同じくらい美しくなった。知識はちょっと追いついていないが、それでも十代半ばにもかからない子供には過ぎたるものだ。
そんな少女には、本名となったキリエという名以外に、二つの名前が与えられた。
ひとつはライヒャルト。もうひとつはルイーゼ。
どちらも、キリエがスラムでリイと呼ばれていたことを知ったアルノルトがつけた名前だった。
そして、茶目っ気たっぷりの皇帝から、こっそりレーゼルの姓を賜ったキリエは、十二歳の小姓、ライヒャルト・レーゼルとして仕事を始めることとなる。
ライヒャルト・レーゼルは、侍従部の見習いである小姓として。その一方で、キリエ・レーゼルはすでに影武者としての訓練と仕事をしていた。ちなみに来年からはルイーゼ・レーゼルとして、侍従部の女官の顔も持ち、侍女の仕事もはじめる予定である。
の、だが。
「あらあら、今日はキリエなのね。アルはどこへ行ったのかしら。まあいいわ、お茶にしましょう、キリエ」
ちょっと遠駆けに行ってくるから母上との藤枝垂の庭でのお茶会に出てほしい、とアルノルトに言われて来てみたら、これだった。
服装もアルノルトのもの。身長もほぼ同じ。体型はまだ補正がいらないくらいには似ている。髪型だって、アルノルトの髪を切っているエルゼに、全く同じように切ってもらっている。表情、仕草もほぼ写せているはずなのにどうしてだ、とキリエはため息をついた。
「あら、ため息なんて。幸せが逃げてしまうわ」
淡い紫の藤棚の下。
せっかくこんなに可愛らしいのだから、たまには娘らしい格好をしてもいいのよ、と、南国らしい小麦色の肌に黒い髪、上等のサファイアよりも綺麗な青い瞳の、麗しい女性は言った。
彼女は、マルガレーテ・イーリス・ロランディ=ローゼンハイム。
隣国ロランディの王女であり、ローゼ帝国は皇后である。つまりはアルノルトの母親だった。
「……いえ、いつも皇后陛下には見破られてしまうなと思いまして。どうして見破られてしまうのかと……」
「あら、やぁね。わたくしが息子と娘を見分けられないわけがないでしょう?
あとキリエ、いつも言っているけれどお母様と呼んでくれていいのよ」
キリエは困惑を隠さずに顔に出した。
もとはスラムの孤児と知っているだろうに、マルガレーテ皇后はだいたいこんな感じなのである。
───礼儀作法の基礎を習得し終え、アルノルトに連れられて初めて顔を合わせたときもすごかった。
そのときは、行き先がアルノルトの両親のもととは教えられずに連れて行かれ、見事に凍りつき、それでもなんとか礼をとったの、だが。
「アル、最高よ!どこで拾ったのこんな可愛い子! あなたの姉妹にしか見えないわ!!
つまりわたくしの娘ということでいいわよね? ちょっとわたくしの子供の頃のドレス着せるから連れて行くわ、いいわね?!」
こんな調子だった。大興奮だった。
そのあと、マルガレーテ皇后が落ち着くのをしばらく待ってから、ヴィルヘルム・レオ・ローゼンハイム皇帝陛下も共に、改めてちゃんとしたお言葉を賜ったのだが。
危険な役目を押し付けるような真似をして本当にすまない、だが息子のことをどうかよろしく、末長く仲良くして欲しい───と、ほんっっとうに貴方はフェルカイト地方唯一の帝国の皇帝でしょうかと問いかけたくなるほど丁寧にヴィルヘルム皇帝はキリエに言った。
マルガレーテ皇后は、大事なことは陛下に言われてしまったわと言いつつ、ここを我が家とし、私たちを本当の父母と思って欲しいと言って、ヴィルヘルム皇帝には流石に厚かましいぞと突っ込まれていた。厚かましいのはこちらではなかろうかと、キリエは心から思った。
そのあと、今度はきっとドレスを着てねと約束させられたのは忘れたことにしている。
「……ですが、皇后陛下は皇后陛下です」
キリエが困った顔で返すと、マルガレーテ皇后はふと真顔になって、キリエの顔を覗きこんだ。
「ねぇ、キリエ。わたくしね、あなたを娘のように思っているのよ。
あなたが本当に、わたくしの産んだ娘だったのならと何度思ったかしれないわ。アルの双子の妹だった、ってことにしてしまえないかしらと、何度も思ったくらい。そうしたら、名実ともにキリエはわたくしの娘になるんですもの。
別に、アルのお嫁に来てくれてもいいけれど、それはきっと、あなたは頷かないでしょう?」
マルガレーテの本気が、ひしひしと伝わってくるような顔と言葉だった。キリエは眼を閉じる。
「両陛下のお心は、ほんとうに嬉しく思っています。ですが、私はアルの影であり、その隣に立つものではありません」
「だから、姉妹でもなければ、妃にもならない。そうでしょうね、キリエはそういう風に育てられたのだもの」
マルガレーテ皇后はちいさくため息をついた。
「もうちょっとわがままにおなりなさい、キリエ。エルゼは優秀だけれど、キリエの教育だけは間違えたとしか思えないわね。こんなに無欲な子に育ててしまうなんて。
それにね、アルのことは皇子殿下じゃなくてアルと呼ぶのに、どうしてわたくしは皇后陛下なの?ちょっと不公平じゃないかしら」
アルノルトの乳母であるエルゼは優秀な教師である。彼女の教育のなにが間違っているというのだろう、とキリエは思ったが、直後には、しまった、とキリエは口元を押さえることになった。うっかり口が滑っていた。
アルは別なのだ。エルゼの前で『アル』などとキリエが呼び捨てようものなら鞭が飛ぶ。
けれど、アルは「殿下なんて呼ばないで」と言うし、「有事の際はキリエが『殿下』って呼ばれるんだから」と譲らない。エルゼの教育でも殿下第一と教えられたキリエは、悩んだ末に、人目のないところでだけ、愛称を呼び捨てるという約束をした。
「…………皇后陛下は皇后陛下ですので……」
「いいわ、そこまでキリエが言うなら、わたくしにも考えがあります。
────選んでちょうだい、キリエ。わたくしのことをこれからずっとお母様と呼ぶか、内々にアルと婚約するか、正式にわたくしの娘になるか。どれにせよわたくしが母になる未来は変わらないけれど……どれがいいかしら?」
わたくしはどれでも得するわ、とマルガレーテ皇后はにっこりと美しい笑顔で言った。しかも後半二つさえも実行する気なのがわかって、キリエの背筋に冷や汗が伝うのがわかる。
こんな最終手段を出されたらおしまいだった。キリエは深々とため息をついた。
「………ひとつめで、お願いいたします。お母様」
「お願い、でもいいけれど、せめて、お願いします、がいいわ。わたくしの、かわいいかわいい娘」
マルガレーテは幸せそうに笑った。
「今度はドレスを着てね。必ずよ、アルと並んでちょうだい、できればヴィルヘルムも一緒だといいわね。わたくしはそれが是非とも見たいわ」
うきうきとキリエに約束させるマルガレーテは嬉しそうだった。『家族』で揃ったところが見たいのだろう。
キリエはすこし苦笑したが、こんなにも嬉しそうなマルガレーテを見てもなお、まだ忘れたふりは難しかった。
「わかりました。洒落たドレスは持ち合わせがありませんが、もしそれでもよろしければ」
「構わないに決まってるわ、キリエ。ドレスも、わたくしのお古でよければあげるけれど」
キリエは即座に否定しようとして、しかし一瞬息を詰めた。自分のクローゼットに突っ込まれた服装を思い出したのだ。
礼儀作法や仕事、勉強のための素っ気ない、ドレスというよりワンピースと言うべきもの。それから変装任務用の、この髪色に普段の顔のままではまったく似合わないドレスが一着。
さすがに、まともなドレス一着を仕立てるだけの給金はまだ貯まっていない。
「……見立てもお願いします」
「良くってよ!明日はお暇?…そう、なら明後日のお昼過ぎでいいかしら?」
キリエの表情をさらりと読みとり、マルガレーテはそう言った。キリエはすこし苦笑して、はい、と答えた。
マルガレーテは決して大柄ではないし、昔に作らせた着られないドレスもまだ一部は手元に残している。
まだ成長途中の、焦げたような金髪と緑の目のキリエと、ロランディのサファイアと讃えられた、南国らしい美貌のマルガレーテ。ドレスの中に似合うものがあるとはあまり期待できなかったが、マルガレーテの見立てが正しいのもキリエはよく知っていた。
キリエは改めて姿勢を正した。
「ええと、あの、お母様。ひとつお願いがあるのですが……」
「あらあらなあに?」
きらきらと期待に輝く視線に、キリエは困ったように笑った。
「どうしてアルと私の見分けがつくのでしょうか?それが知りたくて……見分けがついてしまうようでは、影武者としては失格です」
その話ね、と、マルガレーテはあきらかにしょんぼりした。それでも諦めた顔ですこし笑って、ちゃんと答えてくれる。
「まず、指よ。キリエの方がね、すこしだけ手が小さいの。指も細いから、ちょっと大きめの手袋をした方がいいわ。
それから声。口調はほぼ同じだけれど、聞き慣れていて、音感のいい人が長く聞くと音の違いがわかってしまうかしら。
あとは、そうね。なにかしら?母親の勘かしら。そんなところね」
ふむふむ、とキリエは聞いたことを頭に叩き込む。
手の大きさ、声の高さ。真似るにも限界がある部分だな、とキリエは納得した。同時に、眉尻を下げて言った。
「ありがとうございます、とてもよくわかりました。……手袋は良いとしても、声はいささか難しいですね」
「声はね、仕方がないと思うわ。でも、もう十分似ていてよ。アルが生まれたときから聞いていた上、音感の良いわたくしだからわかること。あまり気にしなくても、たぶんもうエルゼでもわからないのではないかしら」
「……一応、エルゼさんには、合格をいただきました。もう聞き分けられないと……」
「でしょう?」
マルガレーテはくすりと笑った。
「キリエは心配性ね。これ以上を求めてどうするの?母親として長くそばにいた、ロランディの歌うサファイアと言われたわたくしが、ぎりぎり聞き分けられる程度だなんて、そうそうないことよ。キリエの努力の賜物だわ」
きらきらの青い瞳がキリエを見つめて笑っている。そんなことは気にするな、とマルガレーテの視線が告げている。
キリエは数秒、瞑目した。
「手袋だけは、しようと思います」
「そう、それでいいのよ。どうせあの子だって声変わりして声が変わるわ」
お茶に伸ばしたキリエの手が止まった。
「あら、忘れてたの?」
「はい…………」
キリエったらうっかりさんねえ、とマルガレーテはおもしろそうにコロコロと笑った。逆に、こんなことも忘れていたなんてとキリエは落ちこむ。
「一日や二日で変わるわけではないのだし、そのときにまた声を作ればいいのよ。でもね、キリエ」
「はい」
マルガレーテは微笑みながら、それでも真剣さをもってキリエに告げた。
「いろいろな人の声をね、作り分けられるようになっておきなさい。キリエの場合は、ライヒャルトやルイーゼの声や、それ以外の声も」
ひゅっ、とキリエは息を呑んだ。
しまった、忘れていた。ライヒャルトはまだ仕事を始めたばかりで、普段と違う口調くらいしか心がけていない。そもそも普段も意図的に女性らしい口調を心がけてはいるのだが……しかし、将来的には声変わりもあるし、影武者のキリエと同一人物だと分かり易すぎるのは大問題だ。
「急ぎでします……」
「そうなさい。キリエはたまに詰めが甘いのよねぇ」
うふふ、可愛いこと。とマルガレーテはうっとりと笑った。
なにが可愛いんだかと思いながら、キリエは気をつけます、と頷いて、美味しい紅茶を飲む。
キリエは自分で淹れることもできるが、マルガレーテの侍女たちが淹れる紅茶はまた別の美味しさだと思っている。実際、アルの好みになるように練習しているから、マルガレーテの好むこの味とはまた別の味になるのだ。
完璧な、それでいて男の作法で紅茶を飲む姿を見つめながら、そうそう、その調子よ、と夢のように微笑むマルガレーテは、やわらかな緑のドレスを着こなして笑っている。
その緑は、皇帝とアルの目の色だった。そして、キリエの目の色とも同じ色だった。
そのことにようやく気づいて、キリエは嵌められたことに気づいたのだった。
アルは遠駆けに行くからお茶会よろしくなんて言っていたが、そもそも母親との茶会をすっぽかすような人ではない。同時に、そういう予定の管理はわりと完璧だ。なんたって、アルだけでなくキリエも予定を基本的に共有しているのだから。
「もしかして……皇后陛下、最初から私でしたか?」
キリエは、言ってから失敗に気づく。マルガレーテがあからさまにしょんぼりした。
「キリエ、お母様って呼んでくれないの?籍入れる?」
「すみませんでしたお母様」
「そんなに怖がらないでもいいのに。実の娘になるだけよ?」
「…………」
それが一番怖いんですが、と内心キリエはつぶやきながら、困ったような微笑みでそれをいなす。マルガレーテはすこし不満げだった。
「ところでお母様。今日はもしかして、最初から私が来る予定でしたか?」
「いいえ」
マルガレーテはふんわりと笑う。
「アルは、貴女をお茶会の席に届けるとは言っていたけど、自分が欠席するとは言っていなかったわ。だから二人とも来るかと思っていたの。……そうしたら、お揃いだったのだけど」
ドレスの緑。ちょっと寂しそうな笑顔。
キリエは夢を見るように、目を閉じて笑った。
「お母様とのドレス選び、楽しみにしています。……アルの衣装と多少揃えられるよう、アルの衣装は私が先に見ておきますね」
衣装を主人に諮るのも、小姓の役目だ。
マルガレーテはぱちぱちと瞬きすると、それはそれは嬉しそうに笑った。