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−20年 -1-/11

過去編開始。というか過去編こそ本編かもしれない

 







 さぁさぁと、雨の降る音。


 人気のない夜の教会のすみで、ずぶ濡れの少女が倒れている。ざんばらの髪に、汚れたぼろぼろの服は、彼女が貧しいスラム街出身であろうことを示していた。

 かは、と少女は笑う。


「ざまぁ、みやがれ。レオンの、変態め」


 スラムの孤児集団には、系統があり、それぞれ親や兄貴分となる大人たちの集団がある。孤児集団で成長した大人たちの集団だ。

 レオンは“獅子”の系列の大集団を、彼女は“蝙蝠”系列の小さな集団を率いていた。少女にリイという呼び名を与えてくたのが蝙蝠の頭だったから蝙蝠の系列にいたというだけで、そこに大した意味はなかったのだが。

 ちいさいながらもうまくやっていたのだ、リイの集団は。だが……うまくやり過ぎて、レオンの集団に目をつけられた。

 お前が俺のものになれ、それで良しにしてやるとレオンはニヤつきながら言った。それを蹴り飛ばして、リイは逃げたのだ。

 刺されそうになったミーア───年下の少女をかばい、リイは脇腹をぼろっちいナイフで刺された。


(ミーアは……逃げ切れたかな。カールは、やりおおせたかな)


 カールには、仲間を逃すように言いつけた。気づけばスラムからはずいぶん離れたところまで走ってしまったが、雨の夜の裏路地を走ったせいで人には見られていない。スラムの汚物が出てきたと喚く住民も、雨の中には出てこない。血の跡が残る分、追っ手はこちらを追いやすい───犠牲はうまく自分だけで済んだはずだ。

 ずぶ濡れの身体は冷え切って、ただ傷口から流れ出る血だけが生暖かい。

 リイはすこし笑って、すこし口を開く。

 顔さえ覚えていない母が聞かせてくれた歌をそっと口ずさんだ。







 一方、少年はお忍びで祭りを楽しんだ帰りだった。

 老司祭ひとりが住むさびれた教会は、迎えとの合流点にはちょうど良かったのだ。夜だから司祭は寝ているし、街のはずれではあるがスラムとは距離があり、治安はそこまでひどくない。そして祭りが行われる大通りとは離れていて、都合が良かった。

 護衛がそっとポーチの様子を確認して、舌打ちをもらした。


「殿下、お待ちを。血の痕があります」


 外の部分は、もう雨で流れてしまっていたから気づかなかったのだと、彼───クルトは失策を詫びた。


「中を確認しますので、しばしお待ちください」


 親子連れに見せかけられるようにと、もう一人の護衛は女だった。彼女───イリーナはもう一度教会の扉のなかを覗きこみ、そっと足を踏み入れる。

 人気がないことを確認したそのとき、少年はぽつりと呟いた。


「……歌が、聞こえないか」


 クルトとイリーナは顔を見合わせ、そしてそれぞれ頷いた。


「やけに弱々しい……女の、子どもでしょうか」

「おそらくそうだろうな」


 少年は頷き、護衛二人の制止を無視して扉のなかに足を踏みいれる。

 細い歌声にひかれるように、少年は礼拝堂のすみへ向かっていく。それを慌てて護衛が追いかけた。

 半ば意識のない子どもが倒れているのを確認し、少年はだっと駆けよる。


「殿下!罠の恐れが!」

「そもそも罠なら歌わないだろう、こんな出血したりもしない!どう見ても死にかけてるだろう!」


 少年は言い返して、少女とおぼしき子どもの身体を起こした。

 脇腹から血がにじんでいる。服装はぼろぼろだが、雨に濡れた顔は美しかった。


 ぱちり、と少女が目を開ける。歌が止まる。

 少年と少女は、お互いの顔を見つめる。


 よく似た、焦げたような金髪。ほんのすこしだけ色の違う、緑の瞳。

 顔の造形はちょっとだけ違っている。


「…………キリエ」


 少年が呟くと、少女がかすかに首をかしげた。


「綺麗な、キリエだった」

「……きり、え」


 少女は鸚鵡返しにつぶやく。


「うん、そう、キリエ。いいよ、助けてあげる」


 なにを思ったか、少年はぼろぼろの少女を助けることにしたらしかった。





*****





 ぱちり、と少女は目を開けた。

 ぱち、ぱち、と少女は幾度か瞬きを繰り返す。そして、きょとりと首をかしげた。髪と布がこすれる───聞いたこともないほど綺麗な音がした。


「……………?」


 どこ、と言おうとしたつもりが、少女の声は出なかった。首どころか、全身がひどく軋む。だがしかし、寝ているらしい場所は、少女の知らない柔らかさだった。

 なるほど死後の世界か、と少女は思った。しかし、悪事にも手を染めて生きてきた自分がこんな極楽のような場所に行き着くわけがない。少女はなおさら首をかしげた。

 ではここはどこだ、と少女が元の問題に戻ったときである。


「あら、目が覚めましたか」


 いきなり覗きこまれて、少女は驚いた。すこしばかり古風な、おそらくはお屋敷のお仕着せであろうものを着た、中年くらいの女性が少女を覗きこんでいた。


「水は飲めますか?」

「……もらえる、なら」


 少女はどうにかそう言った。対価は怖いがこれが死後なら怖いものはない。命を救われていたとするなら、水の一杯で追加される対価はそれよりもよほどかるい、いまさらだ。

 中年の女性は水差しからカップ一杯の水をそそぐ。

 それから少女の身体を助け起こして、カップを持たせた。

 ゆっくりお飲みなさい、と言われた通りに、すこしずつ甘い水を嚥下する。


「そうそう、それでいいのよ。お代わりはいるかしら、キリエちゃん」

「きり、え……?」


 そういえば、それは気を失う前に聞いたらしい言葉だ。少女は首をかしげた。


「あぁ、ごめんなさいね。殿下がね、キリエが綺麗だったと言うものだから、キリエの女の子、ってあなたのことを呼んでたんだけど……結局、長いからキリエちゃんって呼んじゃってたのね」

「キリエ……私は、キリエ?」


 リイ。いつかにもらった呼び名。名前がねえなら勝手にそう呼ぶと言われた、彼の母の祖国の番号を示すという音。

 あの、幻みたいに綺麗な少年が本物だったというのなら、彼の最初の声を自分の名前にできるなら。


「キリエ、私はキリエ」


 いいな、と少女は微笑んだ。

 お仕着せの女性が呆れたような顔をする。


「キリエってのは、お祈りの歌のことよ。殿下がそう言ったのは、あなたのその歌が綺麗だったからなんだけど。名前くらいあるでしょう?」


 お仕着せの女性の言葉に、少女は目をぱちりと瞬かせる。それからふっと笑った。


「……名前、ね、私にはないの。

 スラムでも名前は親がつけるけど、私の母さん、名前をくれなかったから。私が覚えてるの、母さんが歌うあの歌だけなんだ。だから、あの歌がキリエっていうのなら、私はキリエがいいな」

「そう……なの」


 お仕着せの女性は戸惑ったような顔をしていたが、そのとき、扉の外で声がした。


「エルゼ、入っても良いかな」


 お仕着せの女性はエルゼというらしい。すぐにその場に居直り、丁重に声を返した。


「キリエの娘もちょうど目覚めております。どうぞお入りくださいまし」

「目覚めたのか!よかった」


 ばた、と扉が開く。早足で少年が入ってきた。

 胡桃に金をまぶしたような、不思議と見覚えのある髪の色に、春の芽のような柔らかな眼の色。今まで見たことのある人の中でだれよりも身なりが良い、少年。


「目が覚めたようで何よりだよ。

 僕はアルノルト。初めまして、じゃないね。君の名前は?」


 キリエはひとつ瞬いた。それから意味を理解して、ふっと笑う。


「なかったけど、あなたにもらった。キリエって」

「いや、キリエは君が歌ってた歌なんだけど……??」


 アルノルトと名乗った少年は首をかしげたが、キリエはにっこりと笑った。


「母さんがあたしに遺してくれたのは、この歌だけなんだ。だからこの歌の名前が、あたしの名前になったらいいなって」


 スラム一の歌上手だった母の声。晩年は病に冒されて見る影も聞く影もなかったが、キリエが幼かったころ、子守唄代わりに聞いたあの歌の美しさは、本物だった。

 母が唯一遺してくれた歌。彼女は娘をあやす間もないほど客をとらされた娼婦だったが、子守唄代わりに、まるで慈しむように母はこの歌を歌ってくれた。だから名前にふさわしいのだ。

 キリエは母ほど美しい声を持たないけれど、それでも。


「だからあたしはキリエ。……言葉、汚くてごめん。えっと、アルノルト、よろしく」


 いたたまれないという顔で、キリエは目を伏せた。

 キリエは、スラム育ちのわりにはかなりまともだが、身分や恩義のある相手に対する態度を心得ているわけではなかった。しかし、エルゼもアルノルトもそれは大して気にしていない。

 だから、二人が絶句したのはそのあとだった。


「えっとね、治療してもらってから言うことじゃないんじゃないかと思うけど。あたし、仲間に全財産譲ったあとでさ、いま文無しなの。だから治療代金、身体で払うってことでいいかな?」


 エルゼは思い切り眉根を寄せたし、十一になったアルノルトでも意味がわかったらしく、ぽかんとしていた。


「…………スラムでは、あなたみたいな子供も春を売るの?」

「ん?あ、違うよ。母さんがそうだったから、多少似てるあたしも誘われてただけだし。身体がまだ使い物にならないから、行くとしても二年か三年後って言われてた。手管は多少教えてもらったけど……あたし、今使えるものがこれしかないからさ、どう? だめ?」


 身もふたもない言い草である。


 しかし、寝台に座ったままのキリエの身長は、アルノルトとそう変わらないだろう。もしかしたら少し小さいかも知れないが、アルノルトとそう変わらない年齢に見える。春を売るのは、十を過ぎたばかりの子供にさせることではないだろう。

 だが、それ以上にキリエは細かった。肋がうっすらと浮いた胴に、筋の浮いた腕。腹も腕も脚も、細いわりに筋肉が付いているが、やはり細い。

 それゆえにか顔立ちが細く、大人びて見えている。しかしもうすこしふっくらすれば、外見的にはアルノルトよりひとつ下くらいの年齢に見えるだろう。

 それを踏まえると、二、三年後というのも、スラムの外では「まだ早い」とされる年頃だろうというのは、想像に難くなかった。


「……身体で払ってもらう、か。間違ってはないかな」

「殿下?!」

「ただし、君が売るのは春じゃない。その顔だよ」


 エルゼもキリエも目を丸くした。顔を売る、ということの意味がよくわからない。


「髪の色と、眼の色と、僕とよく似ているでしょう?だから、キリエには僕の影武者になってもらおうと思って」


 キリエは首をかしげた。中途半端に、ばさばさと伸びた髪。がし、と手を突っ込むと、はらりと横に垂れてくる。キリエはまた首をかしげた。

 よく見たら、適当に結ぶのに使っていたボロ紐はないようで、いまだかつてなくサラサラになった髪は解かれていた。

 キリエは自分の髪を凝視し、それからアルノルトのほうをじっと見つめた。


「……確かに、似てる」


 汚れが落ちた髪の色は、光の加減で見間違えた程度の誤差。アルノルトがそういうのだから、きっと目もそうだろうとキリエは思った。


「身長も、たぶん君がもう少し食べて成長したら同じくらいになる。年齢もきっと同じくらいだから、ちょうどいい」


 なるほど、とキリエは頷いた。


「影武者。わかりました。それでいいなら、それで」

「いますぐじゃないから心配しないで。怪我の治りきっていない人にさせることじゃないから」


 アルノルトは申し訳なさそうに目を伏せた。それから、すこし首をかしげる。

 仕草に嫌味がなく、それでいてあざといな、とキリエは思った。


「……君が嫌がったら、このまま治り次第帰してあげようかとも思ってたのだけど。帰る場所とかはないの?」


 キリエはくすりと笑った。


「スラムにはね、一個だけ不文律があるんだ。表で仕事をもらってスラムから出て行けるようになったやつが、それまでの仲間を全員捨てていっても恨んじゃいけない、ってやつ」


 だからあたしは、ここに残るよ。キリエは笑顔でそう答えた。

 ────実際、率いていた集団は解散し、仲間の子供たちは全員知り合いのところに行かせてしまった。使っていた小屋も、レオンらの手により半壊させられている。


 『リイ』の帰るところなど、もうどこにもなかった。

 彼女はすでに、キリエになっていた。



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