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実はまだ半分も書き上がってないですがとりあえずあげる……!!










 帰ったら、家の前に男が座り込んでいた。




 咄嗟にキリエは走って逃げようとした。

 だがしかしその手には、罠にかかっていたウサギが一羽と、摘みたてのコケモモで一杯の籠があった。これぜんぶを集めるのに、夕暮れ近くまでかかった今日の戦果が。つまり、今日明日で食べる食糧が。

 荷物のせいで走れないキリエが、じり、と後退ったその瞬間、男の視線がキリエをとらえた。


「─────キリエ!」


 顔をあげた男の、変わらない呼び方。前にもまして美しい面差し。

 うっわ新聞でずっと見てたけど久しぶりに見るとやっぱりきれい、……と一瞬思考を止めてしまったのが、キリエの運の尽きだった。

 男は駆け足で近づいてくる。キリエは逃げることを諦めて、深々とため息をついた。

 男はすぐに間近に来て、そしてためらいなくキリエを抱きしめた。なにを思う間もなく、キリエは男の腕に収まっていた。


「キリエ……二度と会えないと思ってた」


 ─────ついに捕まってしまった。

 切なげな声を聞きながら、キリエの胸にそんな思いが湧きあがる。

 しかしきっかり三秒後、キリエは渾身の力で身を捩り、彼を引き剥がした。


「キリエ……」


 しょんぼりする男に向けて、キリエは肩をすくめて告げた。


「家がバレてるのに、いまさら逃げたりしないわ。話があるなら中でしましょう。あばら屋だけど」

「ありがとう」


 男は嬉しそうに笑う。

 三十路のくせに、ここまでの美形ともなれば満面の笑みはやはり破壊力が違うな、とキリエは嘆息した。

 昔はあんなにも見慣れていたけれど、久方ぶりに見たからか、いままでずっと逃げ回っていたことへの罪悪感が湧いてくる。

 その──キリエが逃げ続けてきた相手であるところの男は、お忍びの有閑貴族というよりは、貴族の軍属次男坊のような格好をしていた。髪は金の混ざる栗色だが、昔よりも色が薄くなったかもしれない。眼は相変わらず春の芝生の色だ。

 そんな貴族的な美貌に、このとろけるような微笑みは、誑かそうと思えばあまたの美女を誑かせるだろう。昔から思っていたが、これを自分に向けるのはすさまじいばかりの無駄遣いに間違いない。キリエはこっそりと嘆息した。


 とりあえず、現地でモツを抜いておいたうさぎを、仕方がないので軒先に吊るしておく。

 キリエはコケモモの籠だけを持って、家の扉にかけられた錠前を開けた。

 キリエが先に一歩。家のなかの様子をざっと、おかしなことがないかどうか確認して、それから振り返る。


「どうぞ、入って」


 男はおとなしく家のなかに入ると、もの珍しげに、楽しそうにきょろきょろと周りを見回した。夕暮れの光が窓からさしこんでいるが、それ以外はそんなに変わったところはないはずの家だった。


「座って。ちゃんと話は聞くから心配しないで、アル」


 男───アルに椅子を示すと、キリエは甕から水を汲み出そうとし、そしてはたと手を止めた。

 ぱしゃん、とキリエは甕の中に水を戻す。いかに湧き水とはいえ、これはまずかろう。


「どうした?」

「なんでもないわ。これをあなたに飲ませるわけにはいかないと思っただけよ。飲める状態にするには時間がかかるし」


 まず火をおこして、それから薬缶で火にかけるでしょう、それからお茶を淹れる。時間がかかりすぎるとキリエは言った。

 しかしアルはくすりと笑う。


「俺は喜んで待つけどな」

「……わかった。あなたの味覚が昔と変わっていた場合は特に不味いと思うけど、文句言わないでね」


 キリエはため息をついて、甕から水を汲んで薬缶に入れた。

 熾火にしてあった竃に、新聞紙を放り込む。その上に粗朶を置いて、燃えるのを待つ。そのうえから一本だけ薪を入れた。

 キリエに夫はいない。それだけに生活は苦しいが、キリエは狩りができるし、キリエの息子は良い勤め先を持っているから、客に出すためのお茶に使う薪一本くらいの贅沢は許されている。……茶葉そのものにはお金をかけられずにいるけれど。

 まともに火がついたと見るや、キリエはケトルを火にかけた。

 それからお湯が沸くまでの短時間に、キリエは摘んだばかりのコケモモを綺麗に洗い、皿に乗せる。

 それから彼女がポットとカップ、それに安物の紅茶の茶葉の用意を終わらせるころ、しゅんしゅんしゅん、とお湯が沸いてきた。

 キリエはケトルからポットに湯を注ぐ。どれも粗末なもの扱っているのにもかかわらず、どこか不釣り合いなほどキリエの挙措は美しい。

 その無駄のない動きを見つめながら、アルはぽつりと呟いた。


「キリエは変わってないんだな……」


 キリエはアルの声を笑い飛ばした。


「あのね、アル。私がそうそう変わるわけないでしょう」

「……なら、なんでいなくなったんだ?」


 表情を消したアルの問いかけ。キリエは微笑んで、答える代わりにお茶を置いた。


「……それで、話って?」


 キリエはやわらかくそう切り出した。

 アルは目を伏せる。


「子どもは、元気か?」

「元気よ。今日は出かけているけど」


 キリエはちいさくため息をついた。


「……だれの子か、もう分かってるのね」

「ああ。だから、頼みがあって、来た」


 アルは席を立ち、頭を下げた。

 キリエは目を細める。アルが頭を下げるときは、必ずキリエが嫌がることを頼むのだと昔から相場が決まっていた。

 案の定、アルはとんでもないことを口にした。


「おまえの子を、養子にくれないか」

「いやよ」


 もはや反射でキリエはそれを拒否した。

 キリエの子は、キリエにとって渡せない子だった。


「あの子、もう十二を過ぎたのよ。いまさらあなたの後継ぎとして育てるのは無理だわ」

「それでもいい。もう他に手がないんだ。

 ……嫁いできたマリアは、身体が弱い。これは知っていたか?」


 アルは座り直し、ため息をつくように言った。キリエはうなずく。


「到底子を孕める身体ではなく、この国に来たのも、もともと療養目的だったっていうところまでなら」

「相変わらず完璧だ。……そうだよ、だから、このままだと我が一族は絶える」


 アルは目を伏せたが、キリエは笑い飛ばした。


「アドルフィーネ様に弟君がいらしたはずよ。いま十四かな?うちの子よりふたつ年上の」

「よく覚えてたな?たしかにローゼンミュラーにはハルトヴィヒがいるが……」

「あっちを養子になさいよ。どこの馬の骨とも知れぬ女を母に持つ子なんて、」


 バンッ、と音がした。

 キリエの言葉を遮るように、アルが平手で机を叩いたのだ。


「……それ以上口にしたら、俺や両親への侮辱とみなす」


 無表情で低く言ったアルの顔を見て、キリエははっとし、それからすまなさそうに目を伏せた。


「ごめんなさい。失言だった」

「…………二度と口にするな」

「はい」


 アルはキリエの返事を聞くと、長く息を吐いた。キリエも気を取りなおして訊ねる


「ひとつ、聞かせて。ハルトヴィヒ様のなにがいけないの?」

「……アドルフィーネだ。アドルフィーネが、死んでも渡さんと」

「あー……」


 頭の痛そうなアルを見つめながら、なるほど、とキリエは嘆息した。


 アドルフィーネというのは、先帝の弟、ローゼンミュラー公爵の娘だった。気の強い姫君で、年の離れた弟をひどく可愛がっていたのは、たしかにキリエの記憶にもあった。

 キリエも、アドルフィーネとは短くない付き合いだったから、ハルトヴィヒが公爵夫人のお腹にいた頃からものすごくそわそわしていたのは知っている。


「じゃ、しょうがないね」

「ああ」


 アドルフィーネは苛烈だ。どんな手を使ってでも、ハルトヴィヒがアルの養子にならないように守り抜くだろう。勝ち目はない。


「……なるほどね、たしかに残るのはあの子だけだわ」


 先帝には姉もいたが、その姉が嫁いだのは国外である。候補にはできなかった。

 キリエは嘆息して、頬杖をついた。


「いいわ、アル。だけどもうすこし待って」

「待つ?どうして」


 アルはきょとんと首をかしげた。

 キリエはふふっと笑う。


「私、あの子に父親のことを教えたことがないの。もしかしたら私のことも、実の母親じゃないんじゃないかと思ってるかもしれないわね」

「おい……どんな育て方をしたんだ」

「私なりに頑張ったのよ?」


 アルは眉をしかめたが、キリエは不満げに唇をすこし尖らせた。


「育て方の正解不正解は論じても意味がないと思うのよ。でも没落しかけた子爵家か伯爵家あたりに放り込んだら、家と領地を立て直せる程度の教育はしたつもり。でもそれは決して帝王学じゃないのよ」

「……………」


 アルは、それ見たことかとでも言いたげな顔をしていた。この育て方になんの問題があるのかと、キリエはちょっとアルを睨む。

 キリエはコケモモをつまみながら言った。


「知識があって悪いことはひとつもない。それを私に教えてくれたのは、アル、あなたよ」


 アルはため息をついた。その脳裏に、十三年前の記憶がまざまざと蘇る。


「そう、だったな」


 アルはキリエの顔を見つめた。

 化粧っ気はなく、金を帯びた濃い胡桃色の髪は長く伸ばしてひとつにくくっており、前髪もない。瞳は、昔と変わらない皐月の新緑の色だった。

 農村と都市部の境目みたいな場所に暮らしているのに、昔ほどではないが、それでも肌は白い。


 アルもキリエも、お互い歳をとった。

 十代だったあのころとは違い、三十路になった。キリエには十二の息子がおり、アルには妻がいる。

 本来なら、こういうふうに昔と変わらない会話をしているのがおかしいくらいなのだ。


「……用意が、できたら、来てくれ。王宮で待ってる」


 マリアのことも紹介しよう、とアルは囁くように言った。

 キリエはそんなアルの様子を見て、ひどく幸せそうに笑った。晴れやかな笑みだった。


「あなたの笑顔が見れて、よかったわ。あなたが幸せなら、それでいいのよ」

「っ、」


 その笑みに胸を詰まらせたアルは、ぐっと歯を噛み締めた。

 キリエがそれを見ながら困ったように笑って、コケモモをひとつアルの口に押しこむ。


「さ、それ食べたら帰ってちょうだい。あなたの護衛があなたを見つけるまで、護衛は私がするから。

 あんまり庶民の家で油を売るものじゃないわ、アルノルト・エメリヒ・ローゼンハイム皇帝陛下?」


 キリエの手には、タコが残っていた。戦うための修練を怠っていない証が。

 アル───アルノルトはそっとため息をついた。


「まだ、やってるのか。……戻ってこればいいのに」

「あなたのそばには戻れないわ」


 キリエは苦く笑った。

 そして、ゆるく胸元で編んでいた髪をばさりとほどき、後頭部で高く結い直す。


「さて、護衛も俺ひとりだけですが、いましばらくお許しいただきましょうか」


 キリエの声が低くなり、口調が固くなる。人が変わったようなそれを見つめながら、アルは泣きそうな顔で笑った。


「ああ、頼む。……ライヒャルト」

「御意。お供いたします、陛下」


 キリエの手が、ちいさな民家の扉を開けた。








 道中は静かだった。

 キリエはアルの一歩後ろを、無言で歩いている。どこかの村の若奥様といった感じの服装なのに、その身のこなしには隙がなく、眼光はあまりに鋭い。まるで男性騎士のようだった。

 アルには及ばないにしても、背丈が女性の平均的な身長よりも高いからか、余計に凛々しい。本当に騎士服を着せて、多少胸を潰したりなどすれば、もうそれで本当に騎士のように見えるだろう。若々しい外見も手伝って、新米騎士の間に放り込んでもそこまでの違和感はきっとない。


「……ライヒャルト」

「はい」


 アルのためらいがちな呼びかけに、キリエ───いや、ライヒャルトはすぐ答えた。


「また、ライと呼んでもいいか?」

「ありがとうございます」


 ライヒャルトはすこし笑って答えた。アルはゆったりと笑って、視線を上に向けた。その視線の先には夜空がある。


「ライとまた歩けるとは、思ってなかった。まだこの名前を覚えていてくれるとは……思っていなかった」

「光栄です。むしろ、俺が忘れるなどと思われていたのが心外ですね」


 ライヒャルトは不満げに言った。アルはため息をつく。


「……だが、ライは俺が嫌になったんだろう」

「何故です?」

「そうでなければ、十三年前に出ていったことの理由がつかない」


 ライヒャルトはくすりと笑った。

 かるく首を後ろに回したアルと視線が合うと、ライヒャルトはちいさく一礼する。


「……失礼しました。まさかそんなことをお考えとは思わず」


 アルは目を丸くして絶句した。

 十年以上正解だと信じていた仮説を覆されたのである、驚かないはずがなかった。


「我が忠誠は、いまも陛下の御許に。

 ……姿を消した理由は、もっともっと単純です」


 ライヒャルトはいたずらっぽく笑った。


「膨れた腹では、 陛下の護衛が務まりませんので」


 答えになっていない、とアルは思った。


 あなたのことは愛しているけど、結婚したくない、あなたの妃になりたくないと、あのときのキリエがあれほど嫌がった理由は、アルにはわからない。

 だが、妊娠が出て行った理由というのは、いささかおかしいというのはずっと考えていた。

 妊娠が発覚したとき、キリエはたしかに嬉しそうな顔をしていたはずだ。だからこそアルは、妊娠自体はキリエが出て行った直接の理由ではないと思っていたのだから。


 なにを言えばいいのかわからなくなり、アルは口をつぐんだ。




 道の両側は両側は雑木林と草原しかなく、代わり映えのしない道だったが、ライヒャルトの歩みにも、アルの歩みにもためらいはない。どう歩けば最短でアルの居城にたどり着くかをよく知っているからだ。

 ライヒャルト───キリエが城を離れてから、もう十三年以上になる。

 離れた時間は共に過ごした時間をずいぶん超えてしまった。それでも、キリエの、ライヒャルトの頭に叩きこまれた知識が消え去ったわけではない。

 それをたしかに察せられる道行きだった。


 アルが口をつぐめば、ライヒャルトはなにも言わない。二人とも無言のまま、暮れ泥む紫の空の下をただ歩く。


 月の白がくっきりと空に浮かぶころ、遠く馬蹄の音が聞こえて、ふとアルの足が止まった。


「……迎えが来たようですね」


 ライヒャルトが微笑んだのが、その顔を見ずともアルにはわかった。


 遠く馬影が見えてくる。五人の騎士が馬を走らせていた。騎士の一人は鞍が空の馬を連れている。

 アルとライヒャルトはそのまま動かず、その場で待っていたが、顔がもうすぐ見えてくるかというころ、ライヒャルトはふと一歩、足をひいた。


「ライ?」

「……私のことを、忘れないでいてくれてありがとう」


 柔らかな声音は、ライヒャルトではなく、キリエとしてのものだった。

 アルの胸がつまる。

 嫌われたのだと思っていたから、ずっと会いに行けなかった。会いに行って、邪険にされるのが怖くて、彼女がもし夫を作っていたらと怖くて。

 キリエはなにも変わっていなかった。恐ろしいほどに変わっていなかった。


「キリエ、ありがと、う……?」


 振り返りながら礼を言いかけたアルの言葉尻がしぼむ。


「キリエ……?」


 人影はない。まるで、キリエの存在などなかったかのように、そこには月の光だけが落ちていた。

 寒気のするような不安がアルを襲った。

 意味のわからない発言をいくつも残していったキリエ。変わらないキリエ。煙のように消え失せたキリエ。


 何かおそろしいものを見たとでも言うように、ぶるりとアルは身をふるわせる。


 馬蹄の音がすぐそばまで来ていた。


「─────陛下!」

「ヴァルターか」


 騎馬を駆る男が、アルの前で身軽に馬から降りる。

 ヴァルターと呼ばれた彼はその場に片膝をついた。


「ご無事でなによりでしたが……陛下、護衛の一人も連れぬようなお忍びは、どうぞご自重ください」

「帰りは、ここまで護衛がいたんだが」

「……は、」


 ヴァルターは虚をつかれたように言葉をつまらせた。


「陛下……なにを、していらしたのです」


 不測の事態に混乱するヴァルターの様子を見て、アルはくすりと笑った。


「懐かしい人に会ってきた。美人なのに、手の剣だこは相変わらずだったよ」


 ヴァルターは、アルの両親が存命だったころからのつきあいだ。現在姿がなく、剣だこのある美人など、ヴァルターの脳裏にも一人しか浮かばないだろう。


「……もしや」

「ライヒャルトはね、まだ俺を覚えていたよ」


 たとえ、昔は手に取るようにわかったその思考が、もはやアルにはわからなくなっていても。

 愛する彼女の笑顔は、たしかにアルを幸福にしてくれていた。







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