はじまり
*主人公の名前はユキと読みます。
人生の90%は嫌なことで出来ている。
他の人はどうか知らないけれど、私の場合はそうだ。毎日毎日、呼吸する度に不幸になる粒子を体内に取り入れているとしか思えないほど楽しいことなどごくわずかだ。
「昨日、三好氏と取り交わした契約に関しまして、詳しくお話ししたいと思い参りました」
みよしって誰。
「本来なら三好氏も立ち会うべきなのですが、あの方はお忙しい方なので、私が全て請け負うことになりました。昨日は申し遅れました、私、真中と申します」
私、自分の名刺持ったことないんだよねー。そういう仕事って憧れるわー。って、この人名前、真中真なんだけど。回文か。
「あの? 昨日お会いしたこと…覚えていらっしゃいますか?」
「すみません、覚えてないです」
全く覚えていなかったので正直に答える。
スクエアな眼鏡にきっちりと七三にセットされた黒髪。黒かと思いきやよく見るとネイビーの少し光沢のあるスーツを着た真中弁護士はわりとイケメンである。歳は三十半ばだろうか。全く見覚えがない。
「……昨夜、三好氏を助けたことは覚えていらっしゃいますか?」
「みよし……」
「では、この契約書にサインしたことは…?」
真中真弁護士はそう言って黒くてしっかりとした作りの格好いい鞄からひらりとクリアファイルを取り出した。何か挟まっている。
紙である。B6サイズの手帳を破った感じの。
「 私、三好一は命の恩人である東雲幸に礼としてマンションを譲渡する。 」
紙の中央よりやや上にそんなことが書いてある。
そしてその二段下に、見慣れた字でこう書いてあった。
「 東雲幸はつつしんでお受けします! 」
感嘆符つけてるところが正しく私である。謹んでぐらい漢字で書けよ自分。今なら書けるけど…
「覚えてないけど、これは私が書いたみたいです」
「……全く覚えていない、ですか?」
「昨日、夜中にお酒を買いに行ってお巡りさんにお世話になったことはうっすら覚えてます」
「買いに行って、の後に三好氏を助けて、が入ります。えーと、どうしよう、困ったな」
「ちょっと待って下さい、思い出そうとしてみます」
昨日。
昨日は早番。今日明日連休なので浮かれていた。
そうだ、浮かれてお酒を飲んだのだ。思い出してきた。
私の仕事はシフト制なので連休はとても珍しくとても嬉しい。
うっかり二日酔いになっても次の日も休みなのだ。これは飲むしかない。いつも以上に飲むしかない。幸せな気分になるまで飲むしかない。この機会を逃したら今度いつ連休もらえるか分からないのだ。いつもセーブして飲んでいるから前よりお酒に弱くなってきているような気がするヤバイ。だから飲もう。
たくさん飲もう。
そして酒が無くなってしまった。
無くなった買いに行くしかない。
そんなわけで、それに遭遇したのである。
「バカじゃねーのーそんなんもうどっかで潰れて死んでるに決まってるしー」
「かわいそうでちゅねーかわいそうでちゅねー」
「地べたに転がったらゴミになったソイツ見つかるんじゃね」
「そうだな手伝ってやるよ」
夜中である。
夜中にそんな大声で話しているなんて酔っ払いかヤンキーだろうなーと思いつつ、ちらりと声の聞こえた公園を覗くとラフな格好をした男が三人、何かを囲っていた。足元を見降ろしているし、野良猫かな?
周りに何人か通行人がいたけれども、大体がスマホ歩きで通り過ぎる。厄介ごとには誰も巻き込まれたくないものだ。
しかし気付いてしまったからには交番に一言声をかけた方がいいのかな、とさっき通り過ぎた交番を振り返った時だった。
「やめ、やめてくれ…」
なんと男どもが囲っていたのは野良猫ではなく、人間だった。
薄暗くてよく分からないけど、わりと年配の、声からしておじいさん。
「もっと地面に顔近付けて探せば見つかるんじゃね」
「ほらジジイもっと頑張んな」
「かわいそうでちゅねーあはははははは」
男三人でじーさん蹴ってる!
そう分かった瞬間私は大声を出していた。
「あああああああおじーーーちゃーーーーん! 死んじゃやだーーー!!! おじいちゃんを殺さないでーーー!!!!」
ぎょっとして私を見たのは、じーさんを蹴っていた男たちだけではない。スマホしか見ていなかった周りの通行人も足を止めて私を見た。
「おじーーちゃーーーん!! 死んじゃうー! おじーちゃんが殺されちゃうー! 殺されるー! おじーちゃーん! うう…おじーちゃーーん! やだー!」
上を向いて大声を出しながら、ついでに泣き真似もする。
男三人がこっちに来たら交番まで走ろうと心の準備をしていたが、驚きのあまり固まっているらしい。
騒いでも逃げないかーどうしようかなー誰か交番に声かけてくれないかなー。
あ、泣き真似してたら本当に泣けてきた。所詮私も酔っ払いである。
ちらりと交番を見たら、お巡りさん走ってきた。
「おじっ…おじーちゃんをっ…ウエッ…殺さないっ…」
上向いてたらクラクラして吐き気が。
「どうしまし……酒くさ!」
お巡りさん、足早いですね。
足が速いだけでなく、お巡りさんはちゃんと仕事をする人たちだった。
じーさんを蹴っていた男たちは逃走したものの、無線でどこかに連絡していた。
じーさんは無事保護され、幸いなことに大きな怪我はなく、擦り傷などは簡単な手当てをしてもらっていた。
私は。
「あー吐いたらちょっとすっきりしました。お騒がせしました」
酔っ払いだった。
「いやいや、お嬢ちゃんのおかげで助かったよ。ありがとう」
じーさんはちょっと疲れた顔をしていたが、私に笑顔を向けてそう言った。人が好さそう。
トイレに付き添ってくれたお巡りさんは苦笑いしてるけど。
じーさんは何も持っていなかったけれど、グレーのスリーピースを着て背筋を伸ばして座っていた。髪は白髪混じりというか全体的に灰色。短く刈り上げていて歳をとっているものの端正な顔立ちをしている。
髪も服装も同じ色なので全体的にグレーなのだが、ネクタイだけ少し光沢のあるパープル。
落ち着いていて優し気だし、若いころはモテてそう、そんな感じである。
「えー、じゃあ今度はお姉さんに話を聞こうかな。三好さんは迎えが来るまで座って待っていてください」
付き添ってくれたお巡りさんとは別のお巡りさんに手招きされ、椅子に座って事のあらましを話す。
と言っても、私は「コンビニでお酒買った帰り道で声が聞こえたので叫びました」以外には何もないんだけど。
男の容姿とか何を話していたかとか細かく聞かれたけど、正直、酔っていたのでほとんど覚えていなかった。
「殺されるって叫んでたけど」
「そう言えばとりあえず男どもがおじーさんから離れるかなって」
「危ないからやめようね」
いい年して注意される始末である。
それから喉が渇いたので買ったチューハイを飲もうとしたら止められ、帰るには足元がおぼつかないので少し酔いを醒ますよう座らされ、手にお酒があるのに飲めないという拷問を受けながら迎えを待っているじーさんと少し話をしたのは覚えている。
なんでも、シュバイツァーが逃げたから探していたら酔っ払いに絡まれたとか。
シュバイツァー。
よく分からんがペットのようだ。猫かな。シュレディンガーとか猫だもんね。
酔っ払いに絡まれて酔っ払いに助けられるなんて面白いですねーとか言ったのは覚えている。
うーん。
そう、酔ってた。
酔ってた。
*お巡りさんは幸自身の声が聞こえて出てきてくれてます。
*免許証を持っていたため交番での手続きがあっさり終わっています。
*三好氏は財布だけ持っていたのですが若者三人に盗られてます。
*猫ではありません。