「 」
目が覚めると、俺は真っ白な地面に一人で横渡っていた。
不思議と安心感のある、そんな場所。お母さんの温もりを感じる様な場所。
俺は、ゆっくり立ち上がる。痛みは無かった。
昔、こんな話を両親から聞いた。何かしてもらった時、「ありがとう」と言うだけで、誰もが幸せになるんだよ、と。
魔法の言葉、だろうか。当時そんな事を思っていたと思う。
でも、「ありがとう」って言うだけなら、心なんて要らないよなあ。
「心のこもった言葉」なんて言ってる人もいたけど、一体その区別の仕方は何なのだろう。
声の大きさだろうか。大きすぎず、小さすぎず。
そんなの、中間を取ればいいだろ、って思うかもしれないけど、そう簡単な話じゃないんだ。
だって、人によって「中間の基準」なんて、違ってくるもんね。
こんな偏屈な事を、俺は引き籠もる前にずっと考えていた。
難しく考えすぎてしまう、悪い癖が、俺の中にはあった。
俺は、白い空間を、真っすぐに歩き出す。どこまでもどこまでも、命が終わるまで、歩き続けられる様な気がした。
まるで雌に命を費やす、馬鹿な甲虫みたいだ。俺の場合、「歩くのに命を費やしている」事になる。
何故生物は、他の者に命を費やそうとする?
……答は様々である。
人間が人間を助けたいと思うのは、相手が自分と同類だからと、勝手に思い込むから。「自分」が「相手」の立場だったらどう思うかなど、色々考えてしまうから。
助けてあげたという満足感に浸りたいから。
でも、一番あり得るのは―――
やっぱり、「大事な人を奪われるのが、怖いから」なんじゃないかなあ。
その為に、自分の命を削ってでも、その人を助けたいと思う。
要するに、恐怖に命を費やしている訳だ。
無論、「助けない」という考えの人も居るだろう。そっちの方が賢い考え方なのかもしれない。誰かを助けなければ、自分は安全な位置に立つ事ができるから。
「恐怖」を感じるか、感じないか。これだけで、こんなにも多くの差が出てくる。
……さて。長ったらしく書いたが、そろそろ戻らなくてはならない。
俺は、あいにく「恐怖」を感じてしまう。だから、闘わなくちゃならない。
いや、今は「責任感」の方が強かったりするのかもしれない。
無謀かもしれない。馬鹿なのかもしれない。
―――「仲間」にはなるべく知られない様にしていたが―――俺は、小心者で臆病者の、どこにでもいる様な人間だ。
その脆弱さを捨てる為に、一人称まで「俺」に変えて。これは、日本で変えた事だけど。
……よし。
こんな事考えてないで、さっさと行かないとな。
それじゃあ、行ってきます。
佐々木 京夜




