一
この町には雪は降らない。引っ越してきたときにはそう思っていた。しかし、その年も翌年も何度か雪が舞った。
この町には雪が積もらない。昨夜降りはじめた雪を見た後もそう思っていた。
寒さで目が覚めて、水上は布団の中にしばらくとどまり、やがて覚悟を決めて体を起こした。カーテンを開けて外を見ると、小さなベランダも周囲の家々の屋根や庭も駐車場も雪に覆われていた。空が曇っているため一面の雪景色でもあまりまぶしくなく、雪もまだちらちらと舞っている。
「ええー」
小さな驚きが口から漏れたが、気分は少しだけ高揚していた。彼の出身地にはこんなに雪が積もることがない。
いつものように電気ケトルでお湯を沸かしオーブンでパンを焼いている間にニュース番組を見た。異常気象でこの地方に近年まれに見るほどの雪が降ったとのことだった。テレビ画面には、後輩の橋野が住む町に除雪車が走っている映像が流れている。テロップを見ると、このあたりの電車は止まっていることがわかった。
大学はすでに年度末の長期休暇に入っており、今日はバイトも部活もない。家の外ですることは食材の買出しくらいのもので、他にしなければならないことはない。だから、移動をさまたげる雪をうっとうしいとは思わず、むしろ町を歩いてみようと思った。朝食を終え、着替えてから外に出た。
除雪されていない雪の道に刻まれた轍の上を車がゆっくりと走っている。雪に埋まった歩道を傘をさしながら足跡をたどって歩いた。車も人も少ないが、こんなときでもバスは運行していた。よく行く大きな神社は「雪のため立ち入り禁止」という看板が立っていて入れなかった。
普段通学に使っている道を足元に気をつけながら進んだ。橋の上から川の水が一部凍っているのが見え、川下のほうに目を移すと、ふとバイト先に行ってみる気になった。この町で大雪の対策をしている家なんてまずないはずだから、何か困っているかもしれない。
水上は川沿いの道を下流に向かって歩いた。ずっと誰かしらの足跡があるので、歩きにくくはなかった。バイト先の古本屋は閉まっていた。住居のほうの入り口にまわってインターホンを押すと店主の奥さんが出てきた。家の中に招かれて、靴を脱ぐと靴下は濡れていない。雨の日の通学のために買った防水靴は雪道でも役立ったようだ。
店主のいる居間に通された。店主は椅子に座ってテレビを見ていた。石油ストーブの近くに三匹の猫が丸まっている。
「こんにちは」
そう言って居間に入ると、三匹のうちの二匹が顔を上げて水上のほうを向いた。しかし、すぐにまたねむってしまった。
「こんにちは。今日はバイトの日ではないと思うが、どうしたんだ」
「何か困っていることはないかと思って、散歩のついでに寄りました」
「この天気だから店は休みにしたが。そうだなあ、雨樋が詰まっていないか確認してほしい」
店主は店の方向に目をむけて言った。
「わかりました。はしごはありますか」
「持ってこよう。私が下で支えているから」
「はい。なるべく早くやっちゃいましょう。寒いですし」
「そうしよう」
一度屋内に入ったので、再び出たときは余計に寒く感じた。雨樋には雪がそれほど詰まっておらず、少し取り除くだけで済んだ。
雨樋の掃除のお礼なのかはわからないが、昼食をごちそうになった。昼過ぎに古本屋を出たときには雪がやんでいた。
古本屋の前の通りを来た方向と逆に歩くと、数件となりの喫茶店が開いているのが見えた。ついでに寄ろうとは思っていたが、営業しているとは思わなかった。こんな日に客が来るのだろうか、と思ったが、自分が客であることは忘れていた。
入ると、カウンター席に店長の芹沢が座っていて、カウンターの中には古泉が立っている。二人とも少し驚いたように入ってきた水上のほうを向いた。
「こんにちは」
何をしているのかはわからなかったが、水上はとりあえず挨拶した。
「いらっしゃいませ、水上君。君が今日三人目のお客さんだ」
「いらっしゃいませ」
古泉はカウンターの手前で作業をしているようで、それだけ言ってすぐに作業に戻った。
「こんな雪の日に二人もお客さんが来たんですね」
水上は芹沢の隣に座った。
「近所の常連さんが様子を見にきたんだよ」
それ以外に客は来なかったらしい。
「すいているから、ゆっくりしていってよ。仕入れの関係で出せないメニューもあるけれどね」
芹沢が差し出したメニューを受け取って、カウンターの内側の古泉の様子をうかがった。