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6.真実の行方

「それでは、審理を始めましょう」

「冗談じゃありませんわ。わたくしは栄誉ある伯爵家のひとり娘、ベアトリス・ハルフォードですのよ? 今夜はここで、宮廷関係者による舞踏会が開かれると聞いたから、両親とともに参んじたのです。それがこんな茶番、馬鹿馬鹿しくて付き合っていられませんわっ! 帰らせていただきますっ」


 奇しくもロゼリーナを十年間苛んだ『運命』の集大成、王立舞踏ホールに、一同は会していた。

 三人の貴族令嬢たちと対しているのは、少年である。なぜこんなことになったのか。状況を詳しく知りたいが、二ヶ月前の恐怖がロゼリーナを入口に縫い留める。

 少年がこちらに気づいて、目を丸めた。


「バークワークス嬢。その頬、どうしました?」

「それより、……どういうこと? あなたは侍女に、罠に効果があったと」


 少年が不思議そうに片眉を上げ、ロゼリーナを観察してきた。やがて意識を切り替えるように口角を上げると、居並ぶ少女たちを順に見る。

 その視線の先を、ロゼリーナも追った。顔なじみばかりだ。みな舞踏会用ドレスで着飾っているが、瞳が憤怒に燃えている。ただならぬ空気を発する彼女たちは、ロゼリーナ同様王立学園でシェリスに婚約者を骨抜きにされた、同窓の者たちだった。

 少年が静かに言った。


「ベアトリス・ハルフォード伯爵令嬢。まずはこちらの要件を最後まで聞き入れていただきたい。今夜は国王陛下に正式な許可を頂き、二ヶ月前に王立学園で国外追放処分を受けた方々にもお越し願っています」

「なんですって」


 どよめく令嬢たちを置いて、舞踏ホール向かいの扉が開いた。そこから顔を覗かせてくるのは、シェリスの取り巻きだった少年たちだ。彼らは一様にうつむき、両親を同伴していた。令嬢たちの背後を通り過ぎ、場所を指定されているのか少年と令嬢たちの間で立ち止まると、同じ扉から学園関係者や宮廷人たちまでもが続いて入ってくる。

 ちょうど四つの陣営に割れた。ロゼリーナがいる扉近くの九時方向に少年、それと対面する三時方向に貴族令嬢たち、舞踏ホールの正面にあたる十二時方向に子息たち、六時方向には学園関係者や宮廷人といった部外者たちだ。

 白髪の少年が、これらホールに集まったすべての人々に説明するように、よく通る声を響かせた。


「この審理の結果次第では、彼らの処分取り消しもあり得るとのことです。この場にお集まりいただいたみなさんには、ぜひとも立会人としての参加を希望します」

「使者殿の意向を尊重しよう。陛下はかねてよりそう仰られていた。ほかの者も同意している」

「宰相閣下、ご協力ありがとうございます」

「しかし我々が、きみに従う道理はない。そうだな?」

「ええ、もちろんです。ぼくに政治的交渉権限はありません。みなさんをお呼びしたのはあくまで、ある事実をつまびらかにするためです。……ハルフォード伯爵令嬢。今夜の催物に、参加していただけますね」


 自然に話を振られて、伯爵令嬢が絶句して後ずさった。

 権威がなにより重んじられる貴族社会において、シェリスの取り巻きだった少年たちの親といえば、いずれも国家重鎮である。その彼らを差し置いて中座するなど淑女としてありえない。

 ロゼリーナの脳裡に、少年の言葉が過った。


 ――俺は、あんたらの意地の張り合いには興味がないんだ。この部屋で、なぜこれらのドレスが狙われたのか、その理由を知りたい。


 胸もとに置いた拳を握りしめる。

 瞼が震えるが、深呼吸で自分を落ち着かせた。


(わたくしは、真実を知りたい……)


 慎重に、一歩を踏み出した。

 あそこはかつてシェリスが立っていた場所だ、と心中でつぶやいた。少年の場所には、レヴィンが居た。


 ――ロゼリーナさまはきっと、わたしと同じ運命をたどると思ったのです。周囲の者より恵まれた環境を得たために、多くの嫉妬を買う末路。


 指先が震えて、冷たくなっていく。

 ゆっくりと近づくと少年がふり返ってきた。魚のひれに似た細長いものを差し出され、一瞬ためらう。すると、彼もまた不思議そうに首を傾げた。


「そのままだと痛みますよ」

「えっ?」

「頬」

「あっ、……ありが、とう?」


 こんばんはと気安く言われたようで、戸惑う。

 少年が小さく苦笑した。


「なにを固くなっているんだか。いま怯えるべきは向こうのほう。……まあ、見てな」


 対面に居る伯爵令嬢たちは銘々に扇子を開き、不快そうに額を寄せ合っている。


「黒蝶さまは、ずいぶんその方と親しそうですわね。初めて見るお顔ですけど、さぞや名のある方でらして?」

「当たり前よ、ダリヤ! 宰相さまたちを呼び寄せられる方ですのよ。無名だなんてありえません! 身なりからすると異国の方のようですが、ルドルフ殿下からご寵愛いただく一方で、そちらの方とも親密になられていたなんて黒蝶さまも隅に置けませんわ」

「それじゃあこの二ヶ月で? さっすが王国一の美姫、黒蝶さまっ。移り変わりのなんともお早いこと」

「次から次へと花蜜を吸うのが蝶のお役目ですもの。レヴィンさまのことなど、もうお心にも留まっていらっしゃらないのでは」

「あらあら」


 扇子のうちで嗤いあう令嬢たちに、ロゼリーナの碧眼が怒りに燃える。

 少年が背を向けまま、手を挙げて制した。


「ご令嬢方、こちらの要件はさきほども申しあげたとおり、三ヶ月前から起き始めた事件についてです。まずはノア・シズリー子爵令嬢」

「……わ、わわわたくし、ですかっ? ぉ、ぉぉ待ちくださいっ。わたくしっ、なななにもっ、なにも知りませんっ。ハルフォードさまたちと、な、なぜっ、同じくくりにされているのかっ、かかか皆目見当がつきませんものっ」

「ノア、あなた!」

「あたしたちだけ悪者ぉ? なんとも見下げはてた言い草ね」

「子爵家ごときが、いったいなにさまのつもりなのかしら」

「ぁ、ぃぇ……っ。わ、わわわたくしっ、そんなつもりじゃっ……」


 萎縮するノアを制し、少年が語調を和らげた。


「災難でしたね、シズリー嬢。どうぞ思うことをご自由に仰ってください」

「えっ」

「ここでの発言で生じかねない立場上の不利益は、ヘンリー二世の名において一切不問にする、と勅旨をいただいています。ただし、当人が偽証された場合はこのかぎりにありません。方々、写しを」


 令嬢たちが目を丸くして、鼻白んだ。

 その間に少年の指示で、宮廷書記官たちが公文書を各人に配っていく。かれらは文官の末席であり平民だ。使者に爵位があろうがなかろうが、波風を立てぬことにのみ神経を注いでいる。

 貴族たちが額を寄せあい、小声で話し合った。


「二ヶ月前の判例を踏まえますと、この手の問題は貴族家にとって人生の岐路となる大事件のようです。ならば、ぼくとしては冤罪を避けたい。偏った問答と一存のみでは、真実の追及など不可能ですから」

「だからあなたは『審理』と――」

「ぼくの使命は、今回の件が合理的な疑いを差し挟む余地がないことをこの場で立証するのみです。その後の判断は、立会人のみなさんで決められればいい」


 ロゼリーナの顔つきが引き締まる。つまり聴衆こそが審判者だということだ。


 ――少年に近寄るのは、やめなさい。あれは連邦の斥候……


 公爵邸でロゼリーナの腕を掴み、鋭い目を向けてきたルドルフの姿が脳裡をかすめた。

 ここにレヴィンがいないことも、解せない。


「それではシズリー嬢。あなたのお話を拝聴します」

「えっ、ぇぇっっ。わっ、わわわたくしそのっ――」

「あなた、うちの子がなにか問題を起こしたように仰いますけれど、具体的な証拠はございますの? まずはそれをお見せいただかなければ、ハルフォード家のお嬢様が仰いますように、こんな馬鹿げた話に付き合う義理がございませんわ」


 萎縮するノアの傍らから、シズリー夫人が助け舟を出した。

 少年がうなずく。


「要点だけ話しても全体を掴みづらいでしょうから、最初から説明します」


 シズリー夫人の細い眉が、ぴくりと跳ねる。

 ノアはそばかすだらけの顔を伏せて、氷雨に遭った子どものように夫人の腕にしがみついていた。


「事の発端は三ヶ月前。王立学園で留学生シェリス・クローリアの上履きが同学園のゴミ捨て場に捨てられ、同時期、ロゼリーナ・バークワークス公爵令嬢の孔雀の扇子が盗まれた件にあります」

「黒蝶さまの扇子を盗む輩が? それこそシェリスの仕業ですわ。ルドルフ殿下が仰っていましたもの」

「いいえ、ハルフォード嬢。元王太子レヴィン・オーウェン氏は二ヶ月前、バークワークス嬢の扇子が盗まれたこと自体を把握していなかった。当然、元王太子に反論するため現れたルドルフ殿下も、孔雀の扇子については触れていない。しかし、これを盗んだ犯人こそが一連の事件のキーパーソンです」

「だから、あの平民でしょう。靴を隠したのも、制服を切り刻んだのも、階段から突き落とされたというのも、すべてあの女、シェリス・クローリアの自作自演。黒蝶さまを貶めるためだけに仕組んだ賤しい罠ですわ」

「あなたは二ヶ月前も、バークワークス嬢をそう弁護されたのですね」

「ご冗談を。わたくしごときが踏み入れる話ではございませんわ。ご存じありませんの? 二ヶ月前、断罪指揮を執られたのはレヴィンさまですのよ。よほど確たる証拠でもあれば、わたくしであれど黒蝶さまのお力になれますけれど、あのときはルドルフ殿下以外どうすることもできませんでしたわ」


 伯爵令嬢が頬にかかった灰色のカールを描く髪を揺らして、つんと顎を突きだした。気の強い彼女は澄まし顔で目を閉じていたが、ふとこちらを見ると目を丸くする。徐々に紅くなる頬を隠すように彼女は扇子を開き、小さくなって、ついにうつむいてしまった。

 ロゼリーナは首を傾げた。伯爵令嬢の少女らしい反応が不思議で、隣を見やる。

 すると少年が、微笑んでいた。透き通るような雪肌に、切れ長の、きらめくルビー色の双眼が細められるさまが、ため息を誘うほど優美だ。

 だがロゼリーナの背筋に、衝撃が走った。

 少年のこの鋭い微笑には、覚えがある。


(……シェリス……っ!)


 息を呑むロゼリーナだが、少年がまたたくと、異様な気配は霧消している。いくら目を凝らしてその横顔を見つめても、常人以外の何者にも見えはしない。

 気のせいか、と知らぬうちに安堵の息がこぼれていた。




 同時刻、レヴィン・オーウェンは息を呑んだ。

 王立舞踏ホールを見渡せる大理石の柱影に、いま身を潜めている。気の強い伯爵令嬢が恥らうさまに気を取られたわけではない。

 ほかの重鎮子息たち同様、父ヘンリーに命じられ、この場にやって来た彼は、傍らにシェリスを連れている。どうしても事の始終をこの目で見たい、と乞う彼女のために方々手を尽くし、地下牢から抜け出して、この物陰から様子を窺っていたのだ。

 だが、


「……素敵」


 ため息混じりに、シェリスがしみじみとつぶやいた。なめらかな彼女の頬が瑞々しく紅潮し、伏せた睫毛から、紫色の瞳が興奮に潤んできらめいている。

 二ヶ月前より格段に美しくなった愛しい少女に、レヴィンは一層心を奪われていた。だが、彼女の情熱はいま見知らぬ男に向けられ、元王太子の恋心は無惨にも斬り裂かれている。

 レヴィンの翡翠色の瞳に、暗い炎が宿った。かつて自分が立っていた場所に君臨する白髪の少年。彼を鋭くにらみ、シェリスの小さな丸い肩をつかんで引き寄せた。


「シェリス、よく見ろ。あれはどこにでもありそうな、平凡な男だ。おれのほうがはるかにお前を――」


 言いかけて、レヴィンの顔色から血の気が失せていく。

 シェリスは優美に微笑み、少年からかたときも目を離さない。まるでレヴィンが隣にいることすらも、忘れてしまったかのようだ。


「名前は、なんていうのかしら。ね、レヴィンは知っている?」

「……シェリス……」


 レヴィンは舌打ちしたい衝動を懸命に堪えて唇をかみしめ、舞踏ホールのやりとりに視線を戻した。




「それで。バークワークス家の扇子を盗んだ輩は、だれだ。そこのハルフォードの娘が言うように、あの平民か」


 宰相の碧眼が、鋭く光る。子息マルクも同様だった。

 マルクについてはシェリスが突き落とされた現場に唯一居合わせた目撃者であり、孔雀の羽根を拾った当事者である。宰相からすれば、孔雀の扇子は実妹の遺品にあたるのだ。

 関心は、ほかの者よりひときわ強い。


「孔雀の扇子が盗まれた理由を、みなさんはご存じですか」

「使者よ。無駄口を叩くな。わたしの問いにのみ答えよ」

「宰相閣下。ぼくは使命を果たすためにいるのです」

「……なんだと?」

「王立学園の生徒会理事は、毎週末行われる聖祈式用の短剣を管理している。この短剣は学園付属の教会、神父室南側の戸棚に置かれ、鍵付の木箱に入れられて厳重に保管されています。しかし、一般生徒はその木箱の存在も、鍵がどこにあるのかも知りはしない。これはそこにおられる子息の方々も同様でした。

 例外は神父室に出入りする神職者たちと、生徒会理事、そして聖歌隊に所属する生徒たちのみ。

 木箱の鍵は司祭が持つものを除けば、生徒会理事だったロゼリーナ嬢が形見の扇子につけていたものに限られます。扇子を盗んだ犯人は金銭的に困っておらず、箱の中身にこそ用があった。信心深いこの国らしく、神話になぞらえて保身を考えたためです」

「『短剣の魔力により、敵は持ち主を傷つけることができない』……」


 思わずつぶやいたロゼリーナをふり返り、少年がうなずいた。


「つまりシェリスの制服や、わたくしのドレスを切り裂いた者と、わたくしの扇子を盗んだ者は、同じ……?」

「ええ。扇子を盗んだ犯人は信心深く、罪の意識が薄い人物です。おそらく当初は、バークワークス嬢から孔雀の扇子を『借りる』程度の認識しかなかったのでしょう。だから一度目はすぐに扇子を返し、神の加護を得るためだけに教会の短剣を手に入れた。

 だが、シェリス・クローリアがゴミ捨て場から上履きを見つけたとき、バークワークス嬢が扇子から『ゴミ箱に捨ててあったような異臭がする』と発言したのを聞いて、ほかの子息たち同様、彼女は都合のいい解釈をしたのです。すなわち『黒蝶さまは、やはり自分の味方だった』と」


 思わず、居並ぶ貴族令嬢たちを順に見た。

 橙色のショートボブの髪を指先に絡めて気だるげに時間を潰している男爵令嬢、扇子の奥から油断なくこちらを睨む灰色の巻き毛を腰まで伸ばした伯爵令嬢、うつむいて固まったままの陰気な黒髪の子爵令嬢。

 このなかで聖歌隊に所属し、ロゼリーナの孔雀の扇子に木箱の鍵がついていることを知る者は、ただの一人しかいない。

 もっとも、ロゼリーナを慕っていた少女だ。

 思わず、彼女の髪飾りを確認した。ロゼリーナは身体の内側を冷たい手で触れられるような不快感に、震えた。


「彼女は教会から盗んだ短剣でシェリス・クローリアの制服を切り刻み、儀礼的制裁を行いました。自室のクローゼットを荒らされたシェリスは、当時ひどく混乱していたと同学園の生徒は話しています。事件当日ルームメイトは乗馬クラブの試合のために一日部屋を空けていたとも」


 髪をいじっていた男爵令嬢が、顔を上げて少年を睨む。

 シズリー子爵夫人が眉根を寄せた。


「それで、うちの子がどう関わってくるのです」

「シズリー嬢は、シェリス・クローリアの制服が切り刻まれる現場を偶然見てしまった人物です。そのために、西棟三階の階段からシェリスを突き落とす実行犯に仕立て上げられた」

「馬鹿馬鹿しいっ! どうやって証明なさるのかしら?」


 少年の赤い瞳が、じっとノア・シズリーを見据えている。

 気弱な子爵令嬢は唇を震わせ、夫人の影に隠れんとするばかりだった。


「し、ししし知りません、わたくしなにも、知りませんっ……」

「二日前、公爵邸で茶話会が開かれた日、シズリー嬢は呼ばれてもいない公爵邸に忍び込み、言われるがままバークワークス嬢を階段から突き落としました」

「お待ちなさい。わたくしはシェリスの、紫色の長い髪をたしかに見たわ。マルクがわたくしと、そこのノアの後姿を見間違えたのは理解できる。同じ背格好だし、髪の色も、長さも似ているもの。

 けれど、シェリスについては邸の侍女も見ているのよ。それも人違いじゃなく、はっきり本人とわかるような物言いだった。あなたの説明だと、あの手紙もノアがわたくしの部屋に置いたというの? シェリスはどう繋がる?」

「公爵邸で侍女が見た人物と、バークワークス嬢が突き飛ばされたときに見た人物は違います。侍女の話を詳しく聞きましたが、彼女は公爵邸の二階から大通りを行く少女を見たと言っているのです。

 しかし、バークワークス嬢が突き落とされた現場から、侍女が目撃した大通りまで出るには少なくとも十五分以上かかる」


 ロゼリーナが神妙に押し黙ると、少年は話の続きを語り始めた。


「さて、シズリー子爵邸は通りを二つまたいだ、王都の裏筋に居を構えています。公爵邸の正門から徒歩で二十分という距離にあり、塀伝いにいけば公爵邸の裏庭を直接見下ろせる。ただし、そこから邸に侵入するには、高さ三メートルの塀を飛び降りる必要があり、地面(した)は石畳。通常、貴族令嬢が侵入を試みるルートとは考えにくい。

 バークワークス嬢が自邸の階段から突き落とされる以前の午前中は、使用人たちは茶話会の準備に追われていました。そんなときに公爵邸を訪れた客人は二名います。ひとりは公爵家お抱えの行商人。もうひとりは、たまたま近くを通りかかったベアトリス・ハルフォード伯爵令嬢です。

 ハルフォード伯爵令嬢は侍女長と軽い世間話をしたあとすぐに公爵邸を去り、また茶話会のときに、と声をかけられたそうですね」

「それのどこが不審だと言いたいのです」

「ぼくが初めて公爵邸を訪れたのも、二日前でした。茶話会が開かれる直前です。それからバークワークス嬢の衣装室が荒らされていると聞き、屋敷全体を検めたのです。すると東側の塀に、手鏡が仕込んでありました」


 公爵邸の侍女長が、控えている書記官たちの間から、緊張した面持ちで白い布に包まれた手鏡を持ってきた。なんの変哲もない、学園生徒ならだれでも持っていそうな、蔓を模した木枠の手鏡である。

 貴婦人が持つには幼すぎ、使用人が持つには高級な代物だ。


「こちらの侍女長の許可を得て塀から取り外し、持ってきましたが、公爵邸の方々の持ち物ではないそうです。

 では、この鏡をどのように使用するのか。邸の方々に協力いただいて検証したところ、公爵邸の裏庭の塀からこの手鏡に向かって光を当てると、公爵邸正門の柱に光が届きました。ちょうど門番が背にする柱であり、訪問客からはその光が見える位置です。じつは子爵邸から続く塀の上からは、裏庭以外にも二階のバークワークス嬢の自室の様子がよく見えます。さらに裏庭に植えられている林檎の木が、屋敷側の人間の視線を遮ってくれる。ただし、塀の周りにはつかまるものがなにもなく、バランス感覚がなければまず落ちます。

 ノア・シズリー嬢の運動成績を学園で見せていただきましたが、控えめに言って彼女ではありません。

 つまり、裏庭の塀から光を当て、バークワークス嬢在室を報せた斥候役が一人。茶話会前に公爵邸を訪れ、門番の気を引いた囮役が一人。その隙に正門左側の門番控室から公爵邸に侵入し、二階の自室にいるバークワークス嬢の許に向かった実行犯が一人。バークワークス嬢を自邸の階段から突き落とすために、この三名の人間が必要だったということです」


 ロゼリーナからすれば、これはまだ推測にすぎない少年の言葉だったが、シズリー子爵夫人は動揺して、息を呑んでいた。

 少年が静かに、退廃的な空気を醸し出す背の高い令嬢を見据える。


「ダリヤ・ダンヒル男爵令嬢。二日前の朝五つ時(午前八時)、あなたはシズリー子爵邸を訪問されましたね。ノア・シズリー嬢は、あなたと裏庭で込み入った話をするから人払いをするように、と使用人に伝え、昼過ぎまで二人とも姿を見せなかった、とお聞きしています」

「だからなに。あたし罰せられるようなこと、した? 二日前はノアとお茶しただけよ」

「この手鏡は、あなたのものではありませんか。ダンヒル嬢」

「待ってよ。それ、学園生徒ならだれでも持ってるわよ。流行りのデザインだもの。なのに決め付け? 冗談じゃないわ」

「ダンヒル嬢。この手鏡は、学園近くで流れているものに似ていますが、少し違います。柄頭をよく見てください。王都を示す百合の花弁が描かれている。学園で一般的に流通しているものは鈴蘭です。公爵家お抱えの商人に尋ねたところ、王都の下町で売られていると判明しました。この商品を取り扱う店を片っ端から調べましたら、ある店主が興味深い話を聞かせてくれたのです。侍女長」

「は、はいっ」


 手鏡を興味深そうにあらためていた侍女長が、緊張で強張った顔をはっと上げてうなずき、きびすを返してホールをあとにした。

 残された面々が、互いの顔を見合わせる。

 すぐに戻ってきた侍女長は、後ろに小太りな中年男を連れていた。魚顔で、しきりため息をつきながら、きょろきょろと王立舞踏ホールを見回している。宰相を始め貴族の一団を前にすると、顔を上げたまま首だけで会釈してきた。笑うと金歯が見える平民の男だった。


「デリック・メイヤーさん。ご足労いただき、ありがとうございます」

「そいつぁかまわねえけど、兄ちゃん。ここってもしかして、王立舞踏ホールじゃねえのか? 俺ぁ四十年王都で暮らしてきたけど、こんな立派な建物には初めて入ったよ……! あそこの身綺麗な人達ゃ知り合いかい? 紹介してくれよ!」

「メイヤーさん。それより、そちらのご令嬢に見覚えはありませんか」


 ダリヤ・ダンヒル男爵令嬢が咄嗟にそっぽ向いた。

 突然こんなところに呼び出された平民の男は、ダリヤを見ると、堪えても堪えても染み出てくる笑みを浮かべて、上機嫌に両手を揉んだ。


「おおっ! これは天使さま女神さまお嬢さまっ! こんな素敵な場所でまたまたお目にかかれるとはなんたる僥倖! なんたる幸運! なんたる運命っ! 今日という日の素晴らしさに、我らが神に感謝いたしますっ。先日はどうもごひいきに」

「知らない」

「なんっっと……!」


 素っ気ないダリヤに、男が傷ついたような顔をした。


「それでは、こちらの手鏡はどうでしょうか」

「おおっ! それこそはまさにお嬢さまとわたくしとを結んだ運命の手鏡っ! 一週間ほどまえに、そちらの、麗しい男爵令嬢さまが気に入ってくだすったものです! 貴族さまにうちの商品を献上できるなんてたいっっっっへん名誉なことだから、こっそりここに店名のMの文字を彫りこんじまったのも、ご愛嬌てなもんでしてっ!」


 侍女長の手のなかにある手鏡を指差して、男が熱っぽく語る。侍女長も興味を惹かれて柄頭をあらため、喉をひくつかせて固まった。白い布に包まれた手鏡。その柄頭に彫りこまれた百合の花弁の隣に、小さくMの文字を見てしまったのである。

 ダリヤ男爵令嬢が唇をかみしめて震えている。

 少年が、淡々と続けた。


「ありがとうございます、メイヤーさん。それじゃあ、また」

「えっ、えっ、もう終わり? ちょ、ちょちょちょちょっお待ちなさいよ、お兄さん。よく見るとアンタ男前だね! よっ二枚目、美少年! それでっ、ここに居る方々に俺を紹」

「鏡について話してほしい、と一昨日お伝えした通りです。謝礼も済んでますし、今夜はお越しいただいて助かりました」

「ちょちょちょちょちょっ、待てっ! 待て待て待てぃっ! 連絡先っ! 連絡先くらい教えてくれても」

「ああ。出口はあちらです」


 入ってきた扉を指差され、男は真顔でそちらを見やると少年に視線を戻した。目が合った少年が、小さくうなずく。

 男は引き絞るような声を上げて、ドスドスと足音荒く王立舞踏ホールを去っていく。扉をくぐる際で「デリック・メイヤー! 王都にお越しの際は、デリック・メイヤー商店をどうぞよろしくぅぅぅううっ」と叫んでいたが、生憎と目を合わせる貴族は一人もいない。

 風変わりな店主の登場に、侍女長が笑いをかみ殺していた。

 少年が、なにごともなかったように続けた。


「さて、ダリヤ・ダンヒル男爵令嬢。ご学友の話も伺っています。あなたは在学中、ハルフォード伯爵令嬢のグループに所属し、学園の女生徒たちを率いる立場にあったそうですね」

「か、鏡はっ、あの鏡はっ、買ってすぐ失くしたのよ……っ。ロゼリーナさまの屋敷にあったなんて、思いもよらなくてっ」

「それでは昨日。学園にはなんのために向かわれたのか、伺います。用もなければ既卒者が立ち寄る場所ではなし、王都からの出立記録簿に男爵家の馬車名はどこにも載っていませんでした。しかし学園の方には運行記録が残っています。昨日昼過ぎ、ダンヒル家の馬車が到着した、と」

「ちょっと待ってよ! こんなのおかしいわっ! だって急行馬車でも王都から学園までは丸一日かかるのよっ!? なのになんでっ! あなたどこで見てたのっ!? だって……たった三日で、そんなことまでわかるわけないっ! こんなのまるで――」


 涙混じりに叫んだダリヤの言葉の先を、ロゼリーナははっきりと理解できた。


 ――まるで他人の心を、見透かすような。


 王立舞踏ホールの空気が、凍っている。

 泣き伏すダリヤの嗚咽だけが響き、一同の視線は、名も知らぬ異国の少年にただ集まっていく。

 少年は、うずくまるダリヤを見下ろし、続けた。


「学園のゴミ捨て場に、短剣を捨てましたね。ダンヒル嬢」

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