5.スイッチ
なにが真実であるのか、ロゼリーナにはわからなかった。
ただ、慌ただしく方々を駆けずりまわっていた少年が、昨日深夜、国用馬車で学園に向かったと憲兵団長から聞かされたときは胸がざわついた。
ルドルフに話しかけても「なにも心配ない。安心しなさい」の一点張りで公爵邸でじっとしているよう命じられるだけ。
なにかが急激に動こうとしている気配が、第一王子や国王、憲兵団長の様子からそれとなく垣間見えるのに、ロゼリーナにはなにが核なのか、つかめずにいる。
じっとしていられたのは茶会の翌日だけで、ロゼリーナは翌々日に、王宮の地下を訪れていた。
シェリス・クローリアが、この地下牢に幽閉されているためだ。政治犯や死刑囚が投獄される牢であり、少年は面会をルドルフによって禁止されているという。
ロゼリーナは一生無縁に思われたこの薄暗い空間に、顔を強張らせながらも入っていった。自分とはまったく異なる側面から事実を捉えている人間がいるとすれば、シェリス以外に思い当たらない。
看守が護衛についてくる。だが檻に入れられた男たちが血走った目で睨んできて、下卑た奇声で威嚇してくるたび身体がすくんだ。看守の怒声と鉄格子を叩くけたたましい音を聞きながら、少年の言うとおり、無理に会いにこなければよかった、と最奥の牢につくまえに何度も後悔したほどだ。
「黒蝶さま、こちらです」
看守がやや硬い声で、石壁に挟まれた鉄扉を示してくる。なかにいる人物を警戒しているのではなく、彼は王国一の美姫を連れ回していることに緊張しているようだった。
ロゼリーナは小さくうなずき、看守から警報用ベルを受け取った。
「本当に、おひとりで会われるのですか?」
「訪問前に伝えた通りです。わたくしをご心配くださるなら、こちらにいらして」
白鷺の扇子をかすかに開き、なるべく動揺を隠したが、地下牢独特の空気に呑まれて声の震えまでは抑えきれない。
鉄扉が開いて、冷たい風が肌を撫でていった。
まず目に留まったのは、牢獄の中心に据えられた黄金の燭台だ。大きな大理石の化粧台に置かれたそれは、三本の蝋燭の火をきらめかせながら、囚われの少女を照らしている。紫色の髪は光を受けて青く輝き、くるりとした大きな瞳が、ロゼリーナに気づいてこちらをふり返った。
薄暗闇のなか凄艶に微笑む少女と目が合うと、全身が粟立った。
「お待ちしていましたわ、ロゼリーナさま。ごきげんよう」
「……あなた、……本当に、シェリス・クローリア……?」
「はい。レヴィン・オーウェンさま始め、たくさんの殿方からご寵愛いただいたために幽閉されたシェリスです。立ち話もなんですから、そちらへどうぞ」
少女が白い繊手を伸ばして、対面にある、青繻子を張った肘掛椅子を示す。ほかにも食器戸棚や茶器セットといった牢にあるまじき高級調度類が品よく飾られていた。まるでここが、シェリスの城であると如実に語りかけてくるようだ。
彼女は慣れた手つきで紅茶を淹れると、ティーカップの一つをロゼリーナに差し出した。
「……ルドルフ殿下は、あなたのこんな生活を許しているの」
「いいえ。ですが、わたしを哀れと思ってくださる方がたくさんいらっしゃるんです。これらはそういった方々からの贈り物」
ロゼリーナの脳裏に、シェリスの取り巻きの憲兵団長子息がちらついた。王家が絶対権力を握るとはいえ、重鎮子息を軒並み爵位剥奪した上、国外追放とすれば当然、事態を快く思わぬ者がシェリスを庇う。
ルドルフが見逃すはずがなかった。
(シェリスを国から追い出さないのは、ルドルフ殿下に従わない者を炙りだすため……?)
物騒な考えが頭に浮かんで、ロゼリーナは忘れようと心掛けた。まだ決まったわけではない。
シェリスが不思議そうに首をかしげたあと、話しかけてきた。
「わたしのお手紙、お役にたちましたか?」
いきなり核心を突かれて、思わず言葉に詰まる。珍しい色の瞳がぱちぱちとまばたくさまでさえ、気を抜くと見入ってしまう妖しさだ。同性のロゼリーナですらこう感じる。ここにある贈り物の品々は、おそらく王家への反抗だけではない。
この少女の、完璧な美貌がそうさせるのか。
見つめていても、答えは出なかった。
「どうやって、わたくしの部屋にあれを置いたの。シェリス、あなたはなにをご存じ?」
「大それたことは、なにも。ですがロゼリーナさまはきっと、わたしと同じ運命をたどると思ったのです。周囲の者より恵まれた環境を得たために、多くの嫉妬を買う末路。すでにご経験なさいましたね」
微笑まれて、ロゼリーナは強張った顔のままつぶやいた。
「……あなたたち、いったいなんなの……」
「えっ?」
「あの少年も、まったく普通じゃなかった。考え方も、視点も。連邦という聞いたこともない国では、あなたたちのような考え方が一般的なの? まるで他人の心を、見透かすような」
「……だれかは存じませんが、お父さまが使いを寄越してくださったのですね。いまだに会いにこないところをみると、ルドルフ殿下に阻まれているのかしら」
「なぜ、殿下の仕業だと思うの。この贈り物が、すべて殿下に敵対する者たちから寄せられたものだから?」
「いいえ。わたしがルドルフ殿下なら、そうするからです。いち平民にすべての罪をかぶせ、ほかの名家子息たちには国外追放と温情を与えた体面。反逆罪自体が濡れ衣とわかってしまえば、殿下の信用は地に落ちる。せっかく手に入れた第一王位継承権も、手放すことになってしまう」
「だからあなたは、わたくしにあのメモを?」
シェリスはすぐに答えなかった。
蝋燭の火をきらきらと反射させるアメジストのような瞳が、静かに細められる。
「人生の頂きでひとが絶望して、くずおれるさま。この世で一番、甘美なものをロゼリーナさまたちから教わったのです」
ロゼリーナの全身を、衝撃が貫いた。
シェリスはもともと美しい少女だったが、卒業記念パーティのときとは別人のごとき濃密な艶の正体が、いま剥き出しとなったのだ。
純然たる悪意。
その妖しい炎に、彼女は魅入られている。
――お待ちください! お願いっ、待って、わたしの話をちゃんと聞いてーー!
――そう言ったロゼリーナに、きみたちがなにを言ったのか、よく思い出すことだ。
――なにが違う、あんたと第一王子。そしてあの第二王子たちは。
ロゼリーナはなにも言えず、唇を震わせた。
シェリスの悪意が、憎悪の理由が、ロゼリーナには苦しいほどよく分かる。
平民の少女は穏やかに微笑みながら、静かに言った。
「ロゼリーナさま。学園のゴミ捨て場に向かってください。きっと、お探しの物が見つかりますわ」
急行馬車を手配する最中、ルドルフが公爵邸に訪ねてきた。
王子のプラチナブロンドの長い髪は、陽射を浴びて美しくきらめいている。
「ロゼリーナ。そんなに慌ててどうしたんだい」
「殿下っ」
侍女が知らせる前に私室に入ってきたルドルフに、ロゼリーナは声が裏返らないよう努めた。咄嗟に旅行鞄をベッド下に詰め、白鷺の扇子を手に取る。顔を隠してくれるこの扇だけが、いまのロゼリーナの味方だ。
「……ルドルフと、もうわたしの名前を呼んでくれないのかな。ロゼ」
女性的な面差しを哀しげに曇らせるルドルフを見て、良心が痛んだ。さまざまな疑惑がある第一王子だが、彼もまた、幼いころからロゼリーナの傍にいた人物だ。レヴィンほど、ともに宮廷を走り回って侍女たちを困らせ遊んだ仲ではないが、ロゼリーナが勉学で伸び悩んだときなどは優しく微笑んで相談に乗ってくれたものである。
その兄王子に、棘を向けねばならないのが心苦しい。
だが、彼らと『同じ人間』ではありたくなかった。
「わたくしは、真実を知りたいのです。ルドルフ殿下。だれかの情念にまみれた説に流されるのではなく、公爵令嬢として『黒蝶』として、毅然と胸を張れる女でありたい……。どうか、無礼をお許しください」
「あの少年に脅されたのか、可哀想に。なにも心配はいらない、ロゼ。ひとつ真実を教えてあげるから、安心しなさい」
要を得ず、ロゼリーナは目を丸くして首を傾げた。
その凛とした少女の、あどけない姿にルドルフが相好を崩し、令嬢の華奢な身体を抱きしめる。
「わたしは、あなたを愛している。あなたのすべてを守りぬくのは、わたしだ。わたしだけが、あなたを満たしてあげられる」
「……殿下……、身に余る光栄です……」
優しく髪を梳いてくるルドルフの指先を感じながら、ロゼリーナは氷上に爪先立つ自分の立場を理解した。
ルドルフの失脚は、すなわち婚約者候補筆頭たるロゼリーナの失脚だ。たとえロゼリーナが、これからどのような行動を起こそうと、口さがない宮廷雀たちが放っておくはずがない。
聴衆にとって、知り得ぬ真実などどうでもよい。憂さを晴らす話題さえ転がっていれば、それで事足りるのである。
(わたくしには、なにが残る?)
少年が王子にかけた問いを、自分にも投げかけた。
このまま王子の腕に溺れていれば、少なくともロゼリーナは、最後まで被害者であれる。二ヶ月前と同じだ。だれに非難されようと相手を見下し、愚かな憶測を否定すればいい。
わたくしはなにもしていない、と。
視界が滲んでいくのを感じながら、ロゼリーナは王子の手を取って、抱擁をほどいた。
「ロゼ?」
「お許しください、殿下。ロゼリーナは、愚かな女です」
途端、ルドルフの翡翠の瞳に、鋭い敵意がこもった。
「あの白髪の使者を気に入ったのかい、ロゼ。浮気な婚約者だ」
「見くびらないでっ!」
思わず叱責が飛び出し、ロゼリーナ自身が驚いた。淑女にあるまじき不敬、と身が縮むも、第二王子を震わせた令嬢の眼光を受けようと、ルドルフは動じない。
いつもの柔和な微笑みがなりをひそめ、まるで沼のように濁った、底の見えない眼差しでロゼリーナを見つめてくるのみだ。
猜疑の眼だった。
「落ちついて、ロゼ。きみがあまりに美しいから、わたしは心配しているんだ。いままできみを不安がらせまいと黙っていたけど、少年に近寄るのはやめなさい。単なる嫉妬じゃない。グリューネバルト卿がつかんだ極秘情報によると、あれは連邦の斥候であるらしい。二ヶ月前の事件を『たかが痴情のもつれ』と断じるくせ、妙に嗅ぎまわると勘繰ってはいたが……まさか我が国に攻め入ろうとはね。
ロゼリーナ、ハイエナを信じてはいけない。理解できるね?」
「おそれながら、殿下……」
ーーあの勅旨は、本物ですか?
喉まで出かかった言葉を、口にする決意がまだつかない。
ロゼリーナは大きく息を吸い込み、凛とルドルフを正面から見据えた。
「わたくしにはいま、真実とわかるものが、たったひとつしかございません」
ルドルフが片眉を跳ねさせ、目を細めた。「なにかな?」と静かに問いかけてくる王子の心中は、ロゼリーナにはわからない。
ただ白鷺の扇子で表情を隠すのは、辞めた。それが彼女にできる、王子への誠意なのだ。
気高い『黒蝶』の白い頬に、一筋の透明な雫が伝い落ちていく。
「わたくしたちの行いが、ひとりの無力な少女を奈落の闇に突き落としてしまいました……。わたくしは、その罪を償わねばならないのです。公爵令嬢、黒蝶であるために、ひとりの人間として」
ルドルフが特異なものを見るようにのけぞった。
ロゼリーナの胸がちくりと痛む。
公爵邸の私室が、沈黙に満たされていく。
そのとき、侍女が飛び込んできて「ロゼリーナさまっ! 使者さまが『獲物が罠にかかった』と伝言を!」と叫んだ。