3.2 衣裳室にて
伯爵夫人たちとの茶会が無事終わって、すぐのことだ。
「……どうして、こんなことが起きるの……」
「切り刻まれているドレスは、これで全部だな。なにか、思い当たる節は?」
本来、淑女の衣裳室に異性が立ち入るなど礼節に反しているが、ロゼリーナは片隅で力なく座り込み、少年がドレスを検めるさまを見つめることしかできなかった。
床に丁重に広げられたドレスの数々は、みな無残な端切と化している。ドレスを飾りたてていた宝石の数々は、少年が几帳面にまとめて、ドレスだったものの隣に置いていた。
ロゼリーナが頭を抱えた。
「シェリス……あの平民は、ほんとに牢屋なの? うそでしょ。ねえ。だったらほかに、だれがこんなひどいこと……っ」
「そいつは運がよかった」
反射的に彼を睨みつけた。
少年は端切れを見つめたまま続けてくる。
「突き飛ばされるよりましだ。服なんていくらでも代わりがきく。ところが人間はそうもいかない。こいつの狙いはあんたへの嫌がらせだけ。殺す気もない。なら、突きようはある」
ロゼリーナが、まばたきをする。その碧眼に力が籠もっていくのを見て取ったのか、少年が口角を上げた。
「この国には、国民は刃物を持ってはならない、という法律があるんだとか。例外は賤民と司祭だけ。週末の聖祈式で短剣を扱うため、学園の生徒会理事は保管管理を任されていた。シェリス・クローリアの制服の件であんたが犯人と疑われたのは、そのためだったと聞いてる。このドレス同様に、刃物で切られた跡がはっきりと残っていた」
「わたくしは、なにもしていないわ……っ。なのにどうして、あの平民はわたくしをっ」
「あの平民ってのは、シェリス・クローリアのことか?」
「そうよ、あの女なら……っ! 彼女なら、周りの人間を使えるはずよ!」
「なるほど。あんたもそうやって犯人にされたわけだ」
「っ!」
ロゼリーナが息を呑む。
少年が端切に目を落として、続けた。
「悪いが俺は、あんたら貴族の見栄やら意地やら誇りやらの張り合いに、まったく興味がないんだ。この部屋で、なぜこれらのドレスが狙われたのか、その理由を知りたい。貴族のあんたには馴染みないかもしれないが、事実を正確に捉えるには、猜疑心とは別の視点が必要。決めつけや憶測は論外。
いま明らかになっていることは、二つだ。使われた短剣が二ヶ月前と同じものである。これらの服を切り割いたのは女である」
目を剥く彼女のまえに、少年が端切れのひとつを差し出してきた。
「見てみな。この布に制服の糸がついてる。糸くずの両端は尖っていて、ほころびもない。ドレス同様、刃物で切られた証拠だ」
端切れを受け取ってよくよく検めてみると、少年の言うとおり、ドレスの端切れに校章と同柄の糸くずを見つけた。普通なら見過ごしてしまう、ほんの小さな糸口だ。
ロゼリーナは端切を握りしめて、指先の震えを誤魔化した。
「どうして、やったのは女性だと……? シェリスじゃないんでしょう?」
「簡単な話だよ。あんたがメモを持ってきたときと同じように、解析器で指紋を調べたんだ。するとひとつだけ、明らかに別人の髪飾りがまぎれていた。――これだ」
少年はドレスの傍に置いた宝石類のなかから、柘榴の花の髪飾りを手に取った。柘榴は椿の花とよく似ている。真っ赤な六枚の花弁が可愛らしくも人目を惹く、上等の品だ。
「これが……?」
「ちょうど今日、髪に着けていた女を見た」
血の気を失っていくロゼリーナのまえで、少年がこめかみをとんとんと叩く。ロゼリーナももちろん覚えている。左のこめかみに、柘榴の髪飾りをつけた貴婦人たち。
少なくとも今日、似たものをつけた者が三人いた。いずれも茶会に招いた馴染みの淑女たちだ。
「このわたくしが、あんな平民と同じ立場にいると言いたいの……? だれかの恨みを買って、それをまったく違う者がやったと決め付けたと……」
「なにが違う? あんたと第一王子、そしてあの第二王子たちは」
率直な少年の言葉に、切れのある乾いた音が立って、ロゼリーナははっと我に返った。
少年の白い頬を、はっていたのだ。令嬢の柳眉が一瞬、困惑に垂れ下がる。だが少年がまっすぐにこちらを見据えてくるのを見るや、彼女は反射的に喉から悲鳴のような声を引き絞っていた。
「ふざけないでっ! わたくしはただ、公爵家として恥じぬようこれまで努力してきただけっ! だれかに害を加える気などないわっ! ほんとはシェリスなんて女、知りたくもないっ!
これまで立派な国母となれるよう、必死だった! 厳しい王妃教育に耐えて、語学も舞踏も食事も、完璧にこなすことだけを周りに強いられてきたっ! 殿下以外の殿方には、気軽に声をかける権利すらなくて。なのに、それなのにどうして、殿下はわたしを捨てたのっ!? ――誤解しないで! わたしはみっともなく男にすがりつきたいんじゃないっ! あんなのに未練なんかないわっ! だって王太子という自覚もなく浮気した、あんなのただの馬鹿じゃないっ!
それでもわたしを、このわたしをっ、あんな女と天秤にかけたうえに女として『劣っている』と判断したのが本当に許せないっ!
その点ルドルフ殿下は違う! だってわたしを、このわたしの努力を唯一見ていてくださっていた方よっ!? だれに白い目で見られても、彼だけはわたしを信じてくださった! 令嬢として、女として、あそこまでコケにされたわたしを、あの馬鹿が下した処分を、そっくりそのままあいつらに返してくださった! 身分も容姿も能力も、あんな馬鹿では足元にも及ばない、だれより優れた第一王子さまがっ!
ざまあないわよっ! このわたしが、いったいなにをしたってっ!? わたしは、わたしを正当に評価してくれる人を選んだだけっ! ルドルフ殿下だけがわたしを救ってくださった! わたしの地位も、女としてのプライドもっ! そんなことも分からないであの馬鹿とルドルフ殿下が同じだなんて侮辱……、視野狭窄にもほどがあるわっ!」
一息に叫ぶや、ロゼリーナは息も絶え絶えに肩を上下させた。
しばらく黙っていた少年が、
「ふうん……」
と、初めて感情のようなものを乗せてつぶやいた。微笑というよりこちらを軽く見るかのような、面白がるような反応だ。
「……あなたっ!」
「貴族さまってのは、見栄だの意地だの身分だのと柵だらけで、ろくに自分を生きちゃいないと思っていたが……。なるほど。いまのあんたを見ると、人間だったんだな、と思えたよ。少なくとも俺なんかよりは、上等な人間だ」
侮辱されたと見て、さっと紅くなったロゼリーナの顔色が、少年の不思議な言葉に毒気を抜かれた。
彼はあのときの聴衆のような憐みも、期待も、蔑みも向けてこない。まっすぐな眼差しを返してくるだけだ。
ロゼリーナはまた、流れぬ涙が零れ落ちるような錯覚がした。
「――……約束、しなさい」
少年が要を得ず、首を傾げてくる。
「わたくしの、扇子を探してほしいの……。あなたの捜査とやらに、わたくしも協力してあげるから」
「それはシェリス・クローリアが突き落とされた現場に落ちてたっていう孔雀の?」
「母の形見よ。ずっと探しているのに、どこにもないの」
「いつから」
「ちょうど、あの平民の靴が見つかったころ……」
言っている間に、ロゼリーナの顔が険しく強張っていく。あれは平民に事件があったことなど知らず、形見の扇子から妙な臭いがしたので「まるでゴミ箱に捨ててあったような異臭がしますわ。だれか香を持ってきて」と発言したのが原因だった。
ちょうど、そのときシェリスがゴミ捨て場から上履きを持ち帰って前を通りがかったのだ。だれにも見つけられなかった上履きが、ゴミのなかにあったとロゼリーナは事前に『知っていた』と誤解され、上履きを捨てた犯人だと決めつけられたのである。
卒業記念パーティーで晒し者にしてきた彼らの声がよみがえって、ロゼリーナは思わず唇をかみしめた。
「ロゼリーナさん」
「っ気安くわたしをさんなんて呼んではだめ!」
思わぬ少年の呼びかけに、思考が一気に現実に引き戻される。
別段、腹を立てたわけではなかった。貴族令嬢の常識が、条件反射を起こしただけだ。
それを察しているのかどうか、さだかでない少年が、かまわず続けてきた。
「上履きの件は、階段から突き落とされる以前に起きたと聞いています。しかし、第二王子は卒業記念パーティまであなたが孔雀の扇子を持たなくなったことに気付かなかった」
「わたくしはそもそも、上履きなんて知らないわ。あのとき扇子の臭いを消したくて、香の傍に置いていたらいつの間にか」
「……こいつは案外、根が深そうだ」
少年がつぶやき、ポケットから一枚の紙片を取り出してくる。
今日この公爵邸に招かれた、伯爵夫人たちのリストだ。
ロゼリーナもまたその紙片を見下ろして、一瞬忘れ去っていた現状に、困惑して眉根を下げた。