余幕 銀の鎖
四年前の、その日。
ロゼリーナはぬかるんだ大地にくずおれ、棺の埋葬が終わっても、その場を動こうとはしなかった。
冷たい雨が白く煙っている。
レヴィンが傘を片手に、気遣わしげに眉を下げ、彼女の肩を叩いた。
「ロゼリーナ……。そうしていては夫人も逝けない。部屋に戻るぞ」
呼びかけても、彼女は焦点の合わない瞳を中空に向けている。
やがてその青くなった唇から、ささやきがこぼれた。
「わたくしが……」
「ん?」
「わたくしが、もっと、ちゃんと思い出していれば……――夢なんかじゃないって、ちゃんと向き合っていれば。そうすれば神さまはきっと、お母さまをお救いくださった……」
「ロゼリーナ……?」
「お薬だって、体調管理だって、全部、完璧だったのに……。お医者さまだって、いい傾向だって……このまま行けば治るって……。なのにわたくしが、わたくしが勝手に安心して、ちゃんとした黒蝶にならなかったから……っ」
「おい、おいロゼリーナ!」
独りつぶやく彼女の肩をつかみ、第二王子はその顔を上げさせた。紙のように蒼白な顔面。怯えきった表情。細かく揺れる碧眼が、こちらに像を結ぶと、切れ長の目が見開かれる。
「レヴィン、さま……」
「お前は疲れてるんだ。無理をするな、少し休め」
困り果てた顔の王子に、ロゼリーナは力なく「ごめんなさい」とつぶやきかけた。
そのときである。
――ロゼリーナ・バークワークス。お前との婚約をいま、このときをもって破棄する!
鋭く険しいレヴィンの表情が、ロゼリーナの瞼の裏で、いまの彼と重なった。
「ぁ、ぁっ……!」
ロゼリーナは震える手で、母の形見の孔雀の扇子を握りしめる。力のかぎり、強く、強く。
ひとは『そのとき』を知らない
魚が網にかかり、鳥が罠にかかるように
ひとの子にも 災いのときは突然起きる
気づけば、駆けだしていた。周りを見る余裕もない。
がむしゃらに雨のなかを走り抜け、ついに息を切らして立ち止まった先は、礼拝堂だった。氷のように冷え切った身体が寒さで震えるが、ロゼリーナには母親の死に顔が、未来で起きるレヴィンの険しい表情が、脳裡にこびりついて不調になど気が回らない。
礼拝堂の中心に置かれた白亜の女神像は、王笏を右手に、視線を遠く彼方へと向けていた。
その足元に、すがりついていた。
「神さま、お願いします。お願いしますっ……! わたくしは立派な黒蝶になりますっ。あなたさまの忠実なしもべに。ですからどうか、どうかわたくしの大切なひとを、もうお奪いにならないでっ……」
涙混じりの懇願は、無人の礼拝堂に響いて虚しく散っていく。
ロゼリーナ・バークワークスが『前世』の記憶に初めて触れたのは、八歳のときだ。
この世界は乙女ゲーム、自分は悪役令嬢である。
不思議な現実感を伴った夢の内容は、たった一年間で美しい平民の少女に婚約者を奪われるというものだった。
不吉だと思う一方で、『あり得ない』と現実が突きつけてくる。階級社会に生きる貴族令嬢にとって、一国の王子と気安く話せる仲になるなど、ごく一部の人間にしか許されない特権だからだ。
夢の内容が真に未来を報せるものだと察したのは、実際に母が病で倒れた、ロゼリーナ十三歳のときだった。いつも見る夢のなかで、『ロゼリーナのプロフィール』という画面の、たった一文が強烈に目に焼きついたのである。
――高飛車にしてわがままな公爵令嬢。王家の次に強い権力を持ち、十四歳のときに理想の女性像であり、最愛の母であるエカテリーナを亡くした――
まさか、と思いながらも、徐々に悪化する母の病態をまえに不安はあおられた。杞憂に終わればそれでいい。そう願いながら、全力で母に寄り添った。
公爵邸のだれよりも早く目覚め、バランスのとれた食事、適度な運動、身体を冷やさせないためにマッサージを母に施す。思いつく端から、できることはなんでもやった。
公爵令嬢がそんな侍女の真似事をしてはならない、と嬉しそうにたしなめられても、ロゼリーナは聞かずに、宮廷医師とともに母の病態を見守っては一喜一憂していたのである。
そうして母は、天に召された。
近ごろは快癒の兆しが見えてきた、と言われていたにも関わらず。
ロゼリーナの夢の、たった一文に記された通りに。
「ぅ、ぅぅ……」
今度の相手は、レヴィンだ。
幼いころからひたすら抱えていたこの恋心は、これから四年後に砕け散る。
そんな神が寄越したとしか思えぬ未来は、ロゼリーナにとって到底、受け入れがたいものだった――。
…………………
…………
「近ごろ、レヴィンとはうまくいっていないようだね」
運命の最終学年を迎えたその日、ロゼリーナは定例会議後に兄王子に呼び出され、学園近くにある王家の離宮を訪れていた。
プラチナブランドの長い髪を肩で結った城主は、近ごろ成績を落とす一方の婚約者と違い、数々の外交的難局を切り抜けているとの評判にこと欠かない。そのうえルドルフのおだやかな気性は、こちらを安心させるだけの力があり、ロゼリーナが弟王子について相談を持ちかける相手として心強かった。
ルドルフは才気あふれる人物でありながらも、ロゼリーナの前世の記憶とはあまり関わりのない相手でもあったのだ。
「レヴィン殿下は、変わられてしまわれたのやもしれません……。わたくしがどれだけ進言しても、あの平民の少女に、会いに行ってしまわれるようなのです。王家の人間として、下々の者とは気安く口を利いてはならないというのに」
「学園では父の目がないからね。いまは適当な相手で羽を伸ばしたいのでしょう。肝心のきみに幻滅されては、相当の痛手だけれど。そう顔を曇らせては駄目だよ、ロゼ。王国一の美姫『黒蝶』を妻にすることは、この国の男たちにとって大変な名誉なんだ。たかが平民の少女なんか、きみが嫉妬する価値もない。レヴィンもそれくらいは理解しているさ」
「……そうだと、よろしいのですが」
ティーカップの隣に置いたロゼリーナの指先が震えていた。
いよいよ、運命のときが近づいてきているのだ。
彼女の手の震えに合わせて、カップの傍に置いたピルケースがカラコロと音を立てる。それを見下ろして、ルドルフが微笑みながら首を傾げた。
「まだ、睡眠剤を持ち歩いているのかい?」
「……はい……。母が亡くなって以来、どうも……ゆめを見るのが、……怖ろしくて……。なんだか独りに、なってしまいそうなのです」
弱々しくつぶやくロゼリーナの姿に、ルドルフが一層笑みを深めたことを、うつむいたままの彼女は気づけない。
彼はテーブルに肘をつき口許を隠したまま、おだやかに言った。
「きみが孤独に? いったいなんの冗談かな、ロゼ。『黒蝶』の持つ孔雀の扇子は、神の御使いを表しているんだよ。そんなきみが、孤独になんかなるわけない。こんなにも美しい姫君を周りが放っておけるわけがないだろう?」
「ありがとう、ございます、殿下……」
ロゼリーナは膝元に置いた白鷺の扇子を見つめる。
――社交界デビューを果たすロゼリーナに、昔レヴィンが贈ってくれた、想い出の品だ。
母の形見を失くしても、これさえあれば、いずれ第二王子に想いが伝わるような気がした。
「どうせレヴィンのはただの火遊びだよ。一時的に見知らぬ少女になびこうとも、所詮は身分差による価値観の違いを埋められず、ロゼ。きみの許に泣きながら帰ってくるさ。きみは立派な淑女でさえあれば、大丈夫なんだ。ぼくたち王家にとって必要なのは、愛玩できる女じゃない。きみのように優秀な妻だからね」
聡明な兄王子の言葉に、ロゼリーナは小さくうなずく。
自己を消し、ただ望まれる『黒蝶』を演じる。
そうしていなければ、夢を見てしまうのだ。
――見たくもない、破局の夢を。
王国一の美姫と謳われる少女は、こうしてだれにも明かせない悩みを抱え、流せぬ涙を心のうちに秘める術を覚えていった。
レヴィン・オーウェンがどうしようもない苛立ちを抱えて男子寮に戻るところを、珍しい人物が呼びとめた。
「レヴィン、どうしたんだい。そんな怖い顔をして」
「あ、兄上っ! 今日はどうして、こちらに?」
「近くまで来たから、お前の顔を見ておこうと思ってね。学園生活はがんばっているかな?」
微笑みながら問われて、レヴィンは罰が悪そうに頭を掻いた。
「それが、チェスターの成績が思うように伸びなくて。兄上はものを教えるのがとてもお上手でしたね。よろしければ秘訣など、教えていただけませんか? 俺はどうも、気が短くていけません」
「チェスター? だれだい、それは」
「フォックス領出身の農民です。たしか特待生のはずなのですが、下手をすると自分が退学しかねない成績だっていうのに、のんびりしたやつで。気立てがいいくせ鈍くさいんです。だから、つい世話を焼いてしまって。マルクやスコット先生と大苦戦中なんですよ」
「…………へえ。それは大変そうだね、レヴィン」
「いえ、充実しています。兄上。ここには、王宮にはない素晴らしいものがある」
「そうか……。そうだな。お前ほど器の大きい男なら、きっとロゼリーナともうまくいく。四年前のことは、結局聞き出せたのかい?」
レヴィンの表情が一瞬、険しく引きつった。
「……いえ、お恥ずかしながら。そちらはまだ壁ができたままです。どうにかしたい、とは思っているのですが」
「お前が萎縮してどうするんだ。レヴィン。ちゃんと、素のロゼリーナを見てあげなさい。黒蝶じゃなく、ロゼリーナをね。お前に甲斐性があれば、ロゼだって心を開くさ」
「はい。ありがとうございます、兄上」
まっすぐに礼を告げてくる弟王子に、ルドルフは口許だけで笑みを浮かべてみせると、大きくうなずいた。
シェリスが三階の階段から突き落とされた、その日のことだった。