2.断罪
舞踏会場がどよめきで揺れた。
ロゼリーナが、ゆっくりと目をまばたかせる。二度、三度。長い睫毛が動くのに合わせて、その蒼白な顔から感情が抜け落ちていくようだった。彼女は扇子を取り落としたことにも気づかない。
「……な、……です……って……殿下……?」
「以前から考えていたことだ。お前は公爵家の権力を笠に、シェリスの証言を握り潰そうとしたばかりか、この俺をも軽んじた。これまでの蛮行を鑑みれば、お前をこのまま国母に据えるのはあまりに危険だ」
「お待ちくださいませっ! わたくしは、なにもしていませんと……」
言いかけて、我に返った。第二王子の冷たい視線が、突き刺さってくる。また、ちくりと胸が痛んだ。鼻から唇にかけて走る震えを止められず、うなだれる。自慢の長い黒髪が垂れ落ちてきて、彼女の顔を隠してくれた。
「……結局、わたしがなにをしようと、こうなる『運命』……」
だれにも届かないつぶやきを、つい零してしまう。視界の端で、扇子が無様に転がっていた。目が離せなくなってじっとしていると、かすかな笑声が起きる。
眼球だけ動かして様子をうかがう。王子の影に隠れる平民の少女と、ふと目が合った。
うなだれる公爵令嬢を、元凶の女が見下ろしているのだ。
ロゼリーナはゆっくりとまばたきをくり返す。二度、三度。胸のうちで激流のように湧き上がるあらゆる感情を、流せぬ涙を、祓い落としていく。
顔を上げたときには、口許だけでやわらかく微笑んでみせた。
「残念ですわ。わたくしの言葉はすべて、もはや殿下には届きませんのね」
「謝罪ならば、受けよう。俺にではなく、このシェリスに対してだ。これまで、つらい境遇に堪えてきた」
「ふっ」
口許に手の甲を当て、ロゼリーナが失笑を押し止めようとするも、うまくいかない。
王子たちが「なにがおかしいっ!」と殺気立つのが見て取れた。
「ふふっ、失礼。ですがこうまで揃いも揃って、そんな娘に惑わされるなんて。これが、笑わずにいられますか? まったくどなたもこなたも、愚かしいこと」
「貴様っ……!」
「まったくそのとおりだ。ここまで蒙昧に成り下がるとは思わなかったよ、レヴィン。我が弟ながら、残念なことだ」
聴衆から思わぬ声が上がって、第二王子たちの顔に緊張が走った。張り詰めた空気のなか、一同の視線が、舞踏会場の入り口へと注がれる。だれに命じられることもなく、人垣が割れている。その奥から、プラチナブロンドの髪を肩で一つに結った青年が、悠然と歩いてきた。
「……っまさか、兄上っ!?」
「なにっ!」
「ルドルフ殿下がなぜこんなところにっ!」
勝気な弟とは対照的な、柔和な微笑みを浮かべて、第一王子ルドルフが弟たちを一人ひとり、値踏みするように順番に見つめた。その足は止まらず、数年をかけてしっとりと磨き込まれたダンスフロアが、軽快に靴音を響かせていく。
ロゼリーナもまた、目を丸めた一員だ。こんなところにルドルフが『来るはずがない』。多忙な第一王子は国内に留まっていることも少ないうえ、このイベントで彼を見かけたことなど一度もない。
「学園でのきみたちの評判を聞いて、今夜なにか起きるのでは、と勘繰ったんだ。聞けば、生徒会の仕事をすべてロゼに押しつけ、自分たちはそこの平民と遊んでばかりいたそうだね。それだけならまだしも、まさかこんな騒ぎを起こすとは。恐れ入ったよ」
「なにをおっしゃりたいのです、兄上。ロゼリーナは権力を盾に、抵抗すらできぬ平民をもてあそんだ。それを見て見ぬふりをして不問にせよと? それが、我が王家の人間が為すべきことですか!」
ルドルフは微笑みを浮かべたまま弟の前を素通りすると、ロゼリーナの許まできて、ようやく立ち止まった。
床に落ちた白鷺の扇子をそっと拾い上げ、みなと同じく驚きで固まっている公爵令嬢の手を取る。目を丸くしたままの少女の手のひらに、扇子を丁寧に置いてやった。そのロゼリーナを見つめる翡翠色の瞳は、慈愛に満ちている。
「遅れてすまないね、ロゼ。あとはわたしに任せなさい」
「あの、ルドルフ殿下……、本日は外遊のご予定では」
「なにも心配はいらない。さて、レヴィン。きみや、ほかの者たちの過ちをひとつ教えよう」
背中越しに話しかけられ、第二王子は気分を害したように眉間にしわを刻んだ。
「……ほう、兄王子殿下みずからがご教示くださるとは。なんともありがたいお話ですね。ぜひとも拝聴させていただきたいものです。我々の過ちとやらを」
「簡単なことだ。きみたちはみな、犯人をロゼリーナと決めつけている。だが、さっきマルクが言った先月の定例会議のあとは、ロゼリーナはまっすぐに学園を出ているんだ。みなも知ってのとおり、生徒会室は正面玄関を入ってすぐ、本堂職員室の向かいにある。つまり一階だ。それをどうやって、三階にいるそこの平民を階段から突き落とすのさ?」
ふり返ったルドルフと視線がぶつかっても、第二王子からは警戒の色が消えない。
腹違いの兄弟が、互いに真っ向から睨み合った。
「兄上はなぜ、ロゼリーナがまっすぐに学園を出た、とご存知なのです」
「迎えに行ったんだ。わたしみずからね」
ルドルフが意味深な微笑みをロゼリーナに向けると、公爵令嬢は白鷺の扇子を開いてそっぽを向いた。
うろたえたのは、目撃者たる宰相子息マルクだった。
「バカなっ! そんな……っ」
「疑ってもかまわないが、わたしの証言ときみたちの証言、陛下がどちらを聞き入れられるかはわかりきったことではないかな」
王子陣営に、ざわめきが起こった。血の気を失っていく彼らのなかで、第二王子もまた、目を細かく泳がせ始めている。彼は平民の少女、シェリスの肩を無意識に握りしめた。
兄王子が冷たく、せせら嗤った。
「ようやく自分たちの重大な過ちを理解できたようだね、なによりだ。では、本題に入ろう。ーーずいぶん大掛かりな騒ぎを起こしてくれたね。シェリス・クローリア、とか言ったかな」
「あ、の……。お待ちください、わたし、そんなつもりじゃ……っ」
身を乗り出したシェリスを、レヴィンが引き留める。ルドルフもまた手のひらを見せ、彼女の言葉を遮った。
「ああ、きみの見苦しい言い訳を聞くつもりはないよ。身の程もわきまえず、我が国の公爵令嬢を貶めた罪は重い。この公の場でね」
「兄上っ! 此度のことは、俺の独断で行ったことだ! シェリスは関係ない!」
「涙をそそるね、レヴィン。どこの馬の骨とも知れぬ女に溺れ、きみは国王陛下が正式に取り決められた婚約者を公衆の面前でさらし者にしたんだ。その王家の人間としての自覚を忘れたふるまいに対し、父、ヘンリー二世より勅旨を預かってきた。心してお聞きなさい」
「勅旨……?」
首をかしげる第二王子は、ルドルフの意図を掴みきれない。
柔和な微笑みに鋭利な眼光を放つルドルフが、言い放った。
「『レヴィン・オーウェン第二王子の王位継承権を剥奪し、以後、オーウェンの名を騙ることを禁ずる』」
「なっ……! ……バカな……っ」
後ずさるレヴィンの顔を、子息たちも思わず凝視した。
つねに自信に満ち溢れ、正妻の長子として第一王位継承権を握っていた少年が、完全に権力から見離されたのだ。
「父上……そんな、なぜっ……ぅ、ぅぅ、ぁ……っ! あああ……っ!」
「そして弟同様、そこの平民にそそのかされた者たちにも、当然処罰があります。全員爵位剥奪の上、国外追放とのこと」
場内のどよめきが最高潮に達した。
文字通りに頭を抱え、子息たちが阿鼻叫喚の悲鳴をあげたのだ。それに触発されるように聴衆からも罵声と怒声、悲鳴が上がった。さまざまな態で動揺する民草たちを尻目に、ルドルフは最後の獲物に手をかける。
「さて。第二王子のみならず、我が国の名家子息たちを惑わせ、今回の茶番劇をくり広げた重罪人。シェリス・クローリアよ。きみには国家転覆を目論んだ疑いもある。
憲兵! 連れてゆけっ!」
貴族然としたタキシードに身を包んだ紳士が数人、躍り出てきてシェリスの両脇を固めるや、追いすがる取り巻きたちから引き剥がした。
「お待ちください! お願いっ、待って、わたしの話をちゃんと聞いてーー!」
「そう言ったロゼリーナに、きみたちがなにを言ったのか、よく思い出すことだ」
すかさず返した第一王子の言葉に、異国の少女がハッと大きく目を見開く。長い髪を振り乱し、蒼白な顔で唇を震わせる姿ですら、人の哀れを惹きつける魔性の美しさだった。その華奢な身体が、扉の向こうに引きずられていくのを見届けるや、ルドルフは満足そうに口端をつり上げた。
「さあ、ちゃんと顔を見せてください愛しいロゼリーナ。国母となるため、日々努力するあなたは本当にお美しい。わたしはあなたに心底惚れ込んでしまったようです」
扇子を握っていない方の、令嬢の白い繊手を取って、ルドルフが甘やかに囁く。
ロゼリーナは手を引きかけて、思いとどまった。
「およしになって、ルドルフ殿下。わたくしは、愛していたのです。在りし日の、レヴィン・オーウェンを」
「あなたの心が他にあってもかまわない。必ずや、ふり向かせてみせます。ロゼリーナ」
微笑む第一王子から、ロゼリーナは逃げるように緩めた口許を、開いた白鷺の扇子で覆った。
* * *
四方すべてを石壁に閉ざされたこの地下牢は、蝋燭一本の明かりを灯せるだけの隙間風を運んでくる。石肌にこびりついている、無数の血の手形と爪痕。小石と思って蹴飛ばしてしまったそれが、人間の骨に見えたことなど、彼女は反射的に意識の外に追いやった。
寒さと得体の知れぬ恐怖に、全身の震えが止まらない。
人間の防衛本能が、前人に倣って石扉にしがみつき、ここから出してと一心に懇願させる。
だが、いくら泣き叫んでも、すべては徒労に終わるのだ。
やがて疲れ果て――全身から、心からも力が抜けて、うずくまりじっとしていても、静謐な暗闇がそっと寄り添ってくるばかり。
「……わたしはいったい、どこに行けばいいの……っ」
これまでの人生で、『自分は愛されない人間なんだ』と思い知ってきた。
ほかの子どもたちと違い、両親からのキスも、うれしい約束もないことに気づいて、放り出された見知らぬ土地で、やっと触れられた温かな愛。
そんなものは、彼女が十四歳のときから持っていた女たちを苛立たせる才能のまえには、あまりに無力だった――。