9.道なき道へ
少年は中腰の抜刀姿勢のまま微動だにせず、まばたきさえしない。対するルドルフは素立ちで魔剣を提げた自然体だ。魔剣はブロードソードの形状をしており、剣芯が黒鉄、物を斬る両刃部分が黄金の拵えとなっている。単純な得物の長さ、重さは、両者でそう変わりない。
睨み合うこと、十秒。ルドルフが嘲笑して、戦いの口火を切った。雷光のごとき鋭い打ち込みが、ほぼ素立ちの状態から無造作に放たれる。この顔に似合わぬ豪放の型は戦慣れた者ほど読みづらく、ルドルフの無拍の動きに泡を食ってまず一手遅れる。だが少年は冷静だった。刃風を顔に受けるも大きく左足をひきざま、喉をはね斬る。
刃が噛み合う音が鳴った。鍔迫り合いで、その間もまばたきせず睨みくる少年を、ルドルフは片腕だけで吹き飛ばした。
宰相子息のマルクが息を呑んだ。
「ば、馬鹿げてる……っ! まさか、あの殿下と打ち合えるとはっ」
「いや、違う」
彼の隣で、憲兵団長子息ロウが低く唸るように言い、首を振った。ルドルフと同じ時代に生まれてこなければ彼こそが大陸最強、と世間に言わしめる天才剣士である。短く刈った焦茶色の髪、二メートル近い長身、筋骨隆々とした体躯に、歳に似合わぬ落ち着いた雰囲気を持つ憲兵団長子息は、シェリスの取り巻きにしては珍しく寡黙な男である。その針のように細い糸目が、いま真剣な光をたたえて眼前の戦いを凝視している。
「なにが違う、ロウっ。現にいま、やつは!」
「動きに一切無駄のない異国の剣士は、なるほど。まさしく超一流だ。俺と変わらぬ歳で、もはや見事というほかない。だが、殿下の剣は奔放そのもの。純粋に切り結べているように見えても、その実、基礎能力で殿下が圧倒的に勝っていらっしゃるのだ。簡単に言えば殿下はいま、手を抜かれている。――くるぞ」
重い緊迫感に、ロゼリーナも息を呑んだ。
バランスを崩した少年にルドルフが猛然と突進し、その剣戟の威力を見せ付けるように風を切って肉薄したのだ。非常識なまでの獰猛な切り上げを、少年は片膝をついたまま受けるも目を瞠って咄嗟に剣を逸らし、弾く。
ルドルフが「ハハッ!」と甲高い笑声を零した。続けざまに三撃が一息で放たれる。少年は打ち込みを鍔許で流し、すくい上げてきた刃をかいくぐるや苛烈に打ち込んだ。それが、ふり返りもせず放たれたルドルフの横殴りの剣とぶつかったのである。
火花が散った。甲高い音と残光を残し、両者が距離を取る。
少年が目を細めた。
完全に背を向け、斬りつけられる態勢になかった横殴りの剣が、それより先に放たれた少年の大刀を相殺したのだ。ルドルフの驚異的身体能力だけでは考えられない。まるで魔剣が、みずから動いたかのようだ。
「さすがに雑兵を蹴散らす程度の腕前はあるようだ。だが、こんなものはまだまだ序の口に過ぎないっ!」
悠然とふり返るルドルフに、少年は青眼の構えで答える。じつに落ち着き払っていた。ルドルフの言、能力を脅威とも、まやかしとも受け取らない。ただ真だけを掴まんとする、戦士の眼。
ルドルフは鼻を鳴らし、距離を目算した。睨み合いは、ルドルフにとって時間の浪費だ。少年がなにか探ってくるのを感じてはいるが、圧倒的身体能力を自負するルドルフには関係ない。
睨み合いに飽きた王太子が踏み込む刹那、狙い澄ましたかのごとく少年が薙ぎ払う。これをルドルフは初めて、受け太刀せずにツバメのごとく身を屈めてかいくぐり、猛然と突きこんだ。重く鋭い金属音が弾ける。少年が、刀の柄頭で魔剣の剣尖を止めている。
「すげえっ……!」
「あれを止められるのかっ?」
「だがやはりダメだっ! 殿下が押してる!」
思わず洩れ出た子息たちの言葉に、ロゼリーナは知らず拳を固く握りしめた。
そのとき。
一瞬、空間がたわんだようにロゼリーナやマルクには見えた。受け止めた少年の全身が、後ろにブレたのである。遅れて、大砲を撃ったような轟音が響き、異国の白髪剣士が勢いよく吹き飛んだ。
「なっ……!?」
絶句する観衆を置いて、ルドルフが疾駆し、少年の着地際に打ち込んだ。みずから横向きに転がった少年の居た空間を、魔剣が名残惜しげに切り裂き、ホールの床板をも容易く貫いていく。
少年が、この刃をもしもまともに受け止めたなら、その得物ごと断たれる絶刀の切れ味である。
「どうだ、喜べ蛮族。この『わたし』がお前の過ちをひとつ教えてやろう。すなわちわたしとお前では、すべての面において格が違う、ということだ。理解できたかね?」
「よくしゃべる。二流が」
ルドルフの顔面が紙のように白くなったあと、さっと燃え上がった。
「まったくお前は、度し難き愚か者だよ……。正直、ここまでの者をわたしは見たことがない……。面倒だが、器の違いをダメ押しに見せてやらねばね。お前の好きな剣術で、完膚なきまでにねじふせてやるっ!」
弾丸のごとくルドルフが一足で突っ込んだ。両腕で握りこんだ強烈な打ち込みを、少年はまっすぐ突きだした切っ先と触れ合わせるや、ルドルフの胸を切り上げている。俗に巻き技と呼ばれるその剣が、しかし空をかすめる。ルドルフは一歩、退いて太刀を見切っている。
瞬後、少年の前髪が揺れた。
返礼に突き打ったルドルフの魔剣が、少年の首をひねっただけの動作でかわされたのだ。続けざまに怒涛の突きで攻め立てるも、少年は足をルドルフが突くより早く半歩動かし、円を描くようにステップを刻んで避けていく。
「彼は、命が惜しくないのか……っ」
絶句する憲兵団長子息をふり返って、マルクは眉をひそめた。
「どういうことだ、ロウ」
「殿下の剣の切れ味を間近で見て、なぜああも平然と向かっていけるっ? 戦士だ、当たり前だとマルクは思うやもしれないが、たった一太刀、あれをまともに受ければたとえ受け太刀しようとあの世行きなんだぞ……っ! つまり、完璧に受け流せなかった時点で彼は終わるんだっ。そんな不利な状況下で、歴戦の兵士すら足がすくむこの状況で、普通は殿下から距離を取る。取って機会をうかがう。なのに彼は、みずから殿下の間合いに踏み込んでいくんだ、なんの躊躇もなく……っ。とても、並みの神経じゃないっ……!」
ロウの感じる恐怖に呼応するように、ルドルフの怒涛の突きの一つが、少年の大刀に屠られた。
(決まっ――!?)
どう見ても完璧に見えたカウンターは、しかしルドルフの鋭いバックステップでかわされている。突き放った直後、隙だらけのルドルフが、またしても驚異的な身体能力を見せつけたのだ。だが、王子の避ける位置に少年は弧を描くように踏み込み先回りしている。その動きはルドルフの突進力に任せた直線的なものと違い、少年は歩くような速度、気軽さで、敵の逃げる位置を観察し動いている。まるで相手に合わせ、綿密にプログラムされた追尾弾のごとく正確に、間合いを見切っているのだ。
(こ、こいつ……っ!)
ルドルフは絶句した。身体能力で圧倒的優位にあるはずなのに、気付けば息も吐き出せぬほどの緊張感にこちらが呑まれている。切り結んだ手元の震えで、ルドルフが動揺から我に返った。
少年が一閃を切り払い、弾かれ、開いた間合いの向こうで、刀を下段に構えていた。猫科動物に似た、じりじりと距離を詰めてくる威圧感。対象を射竦める眼力が、ルドルフを睨みつけてくる。
ルドルフはいつの間にか、左右を壁に挟まれていた。攻防の間に、舞踏ホールの隅まで誘い込まれたのだ。
(や、ろぉぉ……っ!)
鈍器で頭を殴られたような衝撃と屈辱が、ルドルフの激情を駆り立てた。
遮二無二剣を振りかぶり、斬りかかろうと踏み出したそのときだ。強烈な上段蹴りが、ルドルフの顔面に直撃し、彼の身体が後ろにのけ反った。
「ちっ!」
蠅を払うような乱暴さで剣を薙ぎ払うも、少年はその場にいない。
代わりに生温かい粘ついた液体が、ルドルフの唇にぬるりと流れ込んできた。指先を当てる。鼻血だ。
「このぼくがっ! あんなゴミにっ! 気高い血をっ!」
みずからの唇を噛み切らんばかりに顔を歪めたルドルフが、血走った眼を少年に向けて絶叫した。
「き、さまぁあっ!」
猛然と斬りかかるルドルフに対し、少年も斬り返してくる。脚を止めての剣技の応酬。そのあまりの斬り立ての速さが、もはや憲兵団長子息のロウですら目で追えないレベルに加速されていく。
だが、応酬の拮抗は、徐々に崩れ始めた。
「く、ぅぅっ!」
単純な身体能力で押していたはずのルドルフの頬が、服が、薄皮一枚、削がれていくのだ。
(――殿下の剣を、完全に見切っている!)
ロウが戦慄して凍りついたとき、ルドルフの大振りな打ち込みを巻き技で跳ねあげた少年が、無理矢理打ち込まんとしたルドルフの長躯と飛びちがって、雷光のごとく駆け抜けた。
ルドルフが低く呻き、右肩を押さえる。
「ぐ、ぅううっ!」
身を屈めたルドルフが少年を睨み上げたとき、少年はすでに突きの態勢にある。
「くぁあああっ!」
ルドルフががむしゃらに振った魔剣が、黄金に、凄絶に輝いた。昼夜逆転したとすら錯覚させるその強烈な光の矢が、無造作に振り切った剣線の先から放たれていく。少年はそのとき、回避態勢だったにも関わらず、咄嗟に目を瞠るや鋭く身体を反転させた。刀を横たえ矢に向かって仁王立つ。
暴力的な光と、音と、風が、人々から壮絶な悲鳴の嵐を巻き起こした。
ロゼリーナは低く呻きながら、ふらつく頭をなだめ顔を上げる。少年の、煙を上げる広い背中が見えた。
「ひひっ!」
ルドルフが喉をひくつかせて、少年を見下ろした。
少年は青眼に構えた態勢で、ルドルフを睨み上げる。その彼を中心に、左右にえぐれた深い溝ができていた。山をも貫く魔剣の威力を、如実に物語る深い溝だ。もしもこの王立舞踏ホールが、郊外の丘の上に建っていなければ、確実に死者が出た。
ロゼリーナははっと顔を上げた。
少年が胸の高さで横たえていた刀身が、甲高い音を立ててひび割れたのだ。それを皮切りに、少年の全身から血がしぶいて、糸が切れた人形のごとくくずおれる。
「調子に乗るからだ、たかがキャラが!」
ルドルフは甲高い哄笑をひたすら上げ、顔を左手で覆った。くずおれた少年の後ろからなにかが見えてきて、ふと、首を傾げて覗きこむ。少女が居た。恐怖で顔を凍らせているロゼリーナが、血みどろの少年の後ろで立ち尽くしている。
彼女と目が合って、ルドルフは静かに微笑んだ。
「ああ、ぼくの花嫁を守ってくれたのか。礼を言うよ」
「お前……っ! 自分の愛した女を手に掛けそうになったのにっ、言うことはそれだけかぁっ!」
思わず咆えた弟を、ルドルフは歪に笑んだ顔で嘲弄した。
「レヴィン、お前に言われる筋合いはない。違うか? その小娘に熱を上げ、何度ロゼを傷つけたと思っている」
レヴィンの顔面に、震えが走る。一瞬紅くなったその顔色が、見る間に青くなり、第二王子はなにも言えずにただ唇を噛みしめる。
ロゼリーナは我に返って、少年に駆け寄った。傍目に見ると、彼の全身には刀傷が刻まれ、両腕が焼け爛れている。
「あなた、しっかりしなさいっ」
「触るな、邪魔だ」
視線も向けず少年が言い捨てると、ひび割れた刀を杖に立ちあがった。その口許が笑っていた。
「ようやく面白くなってきたところだ」
「――なに?」
「これぐらいじゃないと、潰しがいもない」
微笑む彼の眼光は衰えず、むしろその輝きを増している。
それを見て取ったルドルフは、喉をひくつかせるや声をかぎりに叫んだ。
「苛つくやつだぁあああ!」
「っ!」
メギストスの魔剣が強烈な輝きを放つ。
再度予感させるのは、ほかでもない。山をも消し飛ばす、破壊の光矢だ。
「お前はロゼを庇うんだよなぁ? なら、ぼくとロゼのまえから、消え失せろぉおおっ!」
大上段に構えた王子が魔剣を振り下ろすとき、少年が一足飛びに鋭く打ち込んだ。
「馬鹿がっ! みずから死ににきたか!」
頭上で、両者の刃が交差する。ルドルフが少年を得物ごと両断できる喜びに目を見開く。
だが、
「なにっ!?」
ルドルフが驚きで、さらに限界まで目を見開く。見たものを信じられない。
刃の噛み合う音が響き、両者の剣が、完全に止まっているのだ。
少年が静かに嗤った。
「思った通りだ。その剣、振り切らないと本来の威力を発揮しないみたいだな」
唖然としているのは、ルドルフだけではない。
レヴィンもまた、異形を見るように、少年を見つめている。
「い、一歩間違えれば、自分が消し飛んでいるぞ……っ。な、なにを考えているんだ、あいつはっ! うまくいったからいいものの」
「そんなことは考えていないわ」
「えっ?」
傍らから響いた声に、レヴィンはふり返った。
シェリスが相変わらずとても嬉しそうに目を細めて、異形のさまを見つめている。
「彼はね」
純粋な腕力勝負でルドルフがはねのけんと押しだすが、少年は力点のずらし方をよく心得ている。どれほど力を込めようとも、鍔迫り合いが崩れない。
「き、さ、まぁあ! つくづく、つくづく苛つくやつだぁああっっ!」
ルドルフの激情に呼応するように魔剣が輝きを放ち、すべてをなぎ倒さんとがむしゃらに剣が薙ぎ払われた。絶妙のタイミングで少年が左足をひき、その剣線を避ける。
地響きが起こった。
一瞬、なにが起きたのか観衆には理解できなかった。魔剣が薙ぎ払った剣線の軌道に沿って、景色が、王立舞踏ホールの石柱が、壁がゆっくりと斜めに滑り、くずおれてきたのだ。はっと気がついたときにはすべてが遅い。
「ぎゃぁああああっ!」
貴族たちが恐怖に引きつった悲鳴を上げる。
もうもうたる土煙が舞った。石材が瓦礫となって降り注ぎ、王立舞踏ホールの六時方向に居た学園関係者たちはその石雨に埋もれていく。
思わずロゼリーナは固く目を瞑り、現実から逃れんと身を強張らせた。だが、続いて聞えてきたのは骨身を凍らせる断末魔ではない。
「あ、あれ……?」
戸惑う貴族たちの視線の先に、少年がいた。
どこを、どうやったのか、ロゼリーナにはまったく理解できない。ただ倒壊した舞踏ホールの石材が、学園関係者たちの一団の周りに転がっている。瓦礫が、すべて刃物で断たれた痕があった。
「やれやれ。なりふりかまわず巻き込むとは、ずいぶんな。そっちが地かい? あんたの」
少年の紅瞳が、静かに底光っている。
ルドルフが、絶叫した。
「きぃいさぁあああまぁあああああっ! うぉおおあああああ!」
「見え見えなんだよ」
もはや知性さえも擦り切れた本能任せの大上段を、少年は懐に潜り込むや拳を固く握りしめる。
そのとき、またも不思議なことが起こった。ルドルフの顔面を強烈に殴打し、弾丸のごとく反対側の壁まで吹き飛んだルドルフが石壁に叩きつけられ、悲鳴を上げた。そのときにルドルフを殴りつけた少年の腕が、ぱっときらめいたようにロゼリーナには見えたのだ。
轟音が遅れて鳴り響き、ルドルフの身体がゆっくりとずり落ちていく。
少年は殴りぬいた態勢から背筋を伸ばすと、悠然と歩き始めた。
「たしかに魔剣の切れ味とやらは大したもんだ。だが所詮は素人剣技。まるで受けがなっちゃいない」
「ぐっ、ぅ、ぅぉぉ……ぁぁっ」
驚きと激痛に顔を歪めるルドルフを見下ろし、少年が首を傾げる。
「どうした、こんなのまだまだ序の口だぜ。ルドルフ・オーウェン。それとも殴られる痛みってのを、あまり知らないのか?」
「きぃ、さ、……っ!」
ドッと鈍い落下音が、ルドルフの背筋を凍らせた。すぐ目の前に、自分の顔が映り込んでいる。むき出しの刀身が、ルドルフの鼻先をかすめて床に突き立てられたのだ。
「少しは頭が冷えたか?」
静かに放たれる少年の言葉と、刃の持つ人間の本能的な恐怖を掻き立てるきらめきが、ルドルフの喉をひくつかせる。
少年はその場にしゃがみこみ、ルドルフの眼を覗きこんだ。
「よぉーく思いだしな、ルドルフ・オーウェン。あんたはただの凡人だ。俺なんかとは、住む世界が違う。このまま続けるならその片腕、もらい受けることになるぜ。あんたにその覚悟、あるんだろうな?」
「ば、蛮族がぁ、蛮族がぁぁっ」
うわごとのようにつぶやくルドルフに、少年はあくまで幼子を諭すように優しく穏やかに、語りかける。
「蛮族? 違うな。俺はただの人間だ。ただ――ここのネジが飛んでるらしいが、な」
自分の頭をこつこつと叩く少年を、ルドルフは全身で拒絶した。
「ふ、ふざけるなぁぁっ、ふざけるなぁあっ! たかが狂人に、ぼくがっ、このぼくが負けるものかっぁぁっ!」
魔剣を握り、ふたたび立ち上がりかけたルドルフを見た途端だった。
軽いため息を吐いた少年が、魔眼を見開く。
「いっぺん死ななきゃわからねえか、あんたみたいな馬鹿野郎は。……なぁ、殿下」
見る者すべてを凍らせる不吉な眼光が、ついに魔剣を持つルドルフを完全に金縛りにあわせた。
少年が、刀を振り上げる。次の瞬間、第一王子の絶叫が響き渡った。
「やめてぇえええっっ!」
咄嗟に叫んだロゼリーナは、ルドルフの首が断ち切られるさまを幻視した。
だが、聞えてきたのは、刃を納める鞘鳴りの音だ。続いて、金属が砕ける甲高い音がロゼリーナの耳の奥で響いた。瞼の裏に『視』えた銀の鎖がひび割れ、砕け、ぱらぱらと音を立てて床に散っていく。
「えっ……?」
ルドルフをがんじがらめにしていた鎖と、ロゼリーナの首にかかった鎖が、断ち切られたのだ。
「これ、は……」
「いま、剣をたしかに……」
目を丸くしたロゼリーナのほかにも、ルドルフの首が刎ねられたと思った者はいたらしい。
聞こえていたのか、少年はつぶやいた者を一瞥すると言った。
「なにも斬ることだけが、勝つことじゃない」
壁に座り込んだルドルフはがっくりとうなだれて虚空を見つめたまま、口端をひくつかせている。
「へっ、へへへっ、へへへへっ……」
「ル、ルドルフ……殿下……」
ロゼリーナは息を呑んだ。
聡明だった第一王子の見る影はなく、ロゼリーナの声にも、なんの反応も示さない。
「ふ、ふふふへっひははっぃははははっ……!」
「あ、兄上……」
思わずレヴィンが昔のように語りかけても、やはり結果は変わらない。
第一王子としても、転生者としても、すべてのプライドを斬り捨てられたルドルフは、もはや殻だった。
「ぃぁーはははは、ははははっ」
「所詮、あんたはそこまでだ。夢幻に囚われて道を見失うのが、あんたの器」
笑い続ける廃人に、少年は静かに告げてきびすを返す。
そのときだった。
「貴様っ! こんなことをして、ただで済むと思うのかっ!」
顔面蒼白になった宰相の怒声が、半壊した舞踏ホールの空気を震わせる。
次ぐ宰相の号令に、憲兵たちがすがるような目を向け、顔を歪めた。
「ひっ捕らえよ! その者の首を刎ねよっ!」
「さ、宰相閣下……っ! しかしっ」
「一国の王子にここまでしたのだ、貴様っ! 覚悟はできているのだろうなっ!?」
聞く者を震わせる宰相の怒声を受けても、少年は悠然としたままだ。
白髪の奥で、禍々しく光る魔眼が、居並ぶオーウェン王国の者たちを睨み据えた。
「覚悟? あんたらこそ覚悟は出来てるのか……。俺とやり合うなら、そいつと同じようになるってことだぜ」
いまなお笑い続けるルドルフの壊れた姿が、少年の異常性を告げている。
「バケモノだ……」
だれかが、そんなことを言った。
ロゼリーナもまた、初めて見る少年の本質、異様に戦慄して、声が出せない。
「そこまでだ。マリウス」
静かな声に一同がふり返ると、少年がきびすを返した先から、扉をくぐってホールに入ってくる男がいた。
この王立舞踏ホールにすべての人員を呼び寄せた責任者であり、王国の権力の頂点にして象徴。金冠を頭に戴いた、現オーウェン王国国王、ヘンリー二世である。
「へ、陛下っ!」
「一部始終を見ておった。彼に、なにがあっても動くな、と言われていたのだ」
レヴィンが食いかかるようにまえに出たが、ルドルフを一瞥すると、顔を震わせて歯噛みする。
国王は二人の息子にじっと見据えたあとで、目の前にいる使者に視線を向けた。
「客人。愚息の顔を立ててくれたこと、礼を言う」
目を丸くした聴衆が、国王と少年を交互に見やる。
国王は憂いで眉間にしわを寄せながらも、あくまで穏やかに、言った。
「そなたならば、刃を交えることなく我が子を止められたであろう。それを敢えて刃を抜き、応じたのは、浅はかと言えど剣士のプライドを持ったこやつに対する礼儀」
「へ、陛下……」
宰相が、それ以上少年に近づいてはならぬと咄嗟に国王の腕をつかむ。
少年はなにも言わず、ただゆっくりと一つまばたきを落とした。すると魔眼がなりを潜めて、ただの紅瞳へと戻る。彼はふたたび出口に向かって歩き始めた。
「陛下」
国王とすれ違うその際に、少年がつぶやく。
王がふり返ると、少年が、まっすぐに見つめ返してきた。
「この国のものはすべて、陛下のものです。このたびの王子殿下の政は、陛下の政でもある。すなわち王子殿下の過ちは、はては陛下の」
「貴様っ! 無礼なっ!」
宰相が吼える傍らで、国王がゆるりと頭を垂れた。
「重ね重ねの気遣い、礼を申す」
顔を震わせる宰相を置いて少年もまた国王に向き直り、一礼した。
「……よき国を、お創りくださいませ。国王陛下。重ね重ねのご無礼、失礼いたしました」
それが彼の、別れの言葉だった。
それきり、ロゼリーナすらもふり返らずに王立舞踏ホールを去っていく。
ひたすら虚ろなルドルフの笑い声と、互いの顔を見合わせどうしたものかと視線で相談する、なんとも言えぬ空気が、オーウェン王国の者たちの間に立ち込める。
そうしていると、新たな物音が近づいてきた。魔剣に破壊され、倒壊した王立ホールの九時方向から、白髪の少年と同じ軍服の男たちが砲身を肩に担ぎ、素早く隊列を組んで踊りこんできたのだ。その軍団の一人が、一歩前に出て国王に言った。
「シェリス・クローリアを引き取りに参りました。応じていただけますね、オーウェン国王」
国王はわずかに目を細めると、瞼を閉じてうなずいた。
「ご足労をおかけし、申し訳ない」
途端、レヴィンたちが制止する間もなく、男たちがシェリスに恭しく頭を下げる。「こちらです」と先を促されたシェリスは、この彼らに違和感なくついていったが、廃人とすれ違う際だけ、わずかばかりふり返って微笑んだ。
「とても、よくお似合いです。ルドルフ殿下」
ぞっとするほど冷ややかなその声を、偶然耳にした者はわが目を疑った。
その間に一団は会場から去っている。
一糸乱れぬ闖入者たちの正確な隊列は、どう控えめに見ようと「たかが小国」と笑い飛ばせるものではない。王国の憲兵とは、まるで練度のレベルが違っていた。
「陛下……っ! 連邦とは、いったい……」
ようやく事の異常性に気付いた宰相が、青褪めた顔で国王を見やった。
国王は一団が去っていった方角を見つめて、首を横に振った。
「お前は、知らずでよい。……ただ。彼の名は、聞いておくべきだったやもしれぬ」
ぽつりとつぶやいた国王は、それきりふり返らずに王宮へと戻っていく。
王立舞踏ホールでの夜は、幕を閉じたのだ。




