1.婚約破棄
「まだしらを切るつもりか、ロゼリーナ」
「殿下。いま、なんとおっしゃいましたの。このわたくしが、うそを吐いているですって?」
ロゼリーナ・バークワークス公爵令嬢は不快さを隠すために、白鷺の羽根をあしらった扇子で口許を覆った。王国内で「黒蝶」ともてはやされる、腰まで流れるストレートの黒髪がシャンデリアの光を受けて、艶やかにきらめく。
卒業記念パーティであった。
ロゼリーナの釣り目がちな目許はいま、ピンク色のグラデーションで彩られている。普段の凛々しさを抑え、少女らしさを惹き出す化粧だ。それが却って彼女の怒りを際立たせる。切れ長の目に収まった淡い碧眼が、婚約者とその傍らで怯える紫髪の少女をはっきりと睨んだ。
数刻前までの賑わいはかき消えていた。
王立舞踏ホールが静けさと緊張に包まれる。百組の男女が自由に踊ってなお余裕のあるこの壮大な建造物は、由緒あるダンスフロアだ。吹き抜け天井から一列に吊りさげられたシャンデリアが、オレンジ色の光を放ち、磨きこまれた床に映りこむ。
人垣を形成しているのは学園関係者、生徒親類、はては各国大使の者たちだった。
みな一様に息を殺して事態を見守っている。彼らの中心で対峙する少年少女たちは、間違いなく将来、国運を握る者たちであり、このなりゆきがどう決着するのか、強い関心を呼んでいるためだ。
ホールの三時方向にロゼリーナは孤立している。
対照的に、九時方向に陣営を形成するのは第二王子であり王太子でもあるレヴィン・オーウェンを始め、宰相子息、憲兵団長子息、領主子息、はては教師までもを含めた十人ばかりの一団だ。いずれも見目麗しい少年から青年たちで、魅了する異性のタイプが見事に分かれている。
いまにも爆発しそうな王子たちを前に、ロゼリーナはこんなイベントを引き起こした自らの運命に胸のうちで自嘲した。
「この期に及んで、まだシェリスを貶めるかっ! 彼女にあれだけのことをしておきながら言い逃れなぞ、公爵家の名が泣くぞ!」
「切り刻まれた制服、ゴミ捨て場に置かれた上履き、階段から突き落とされた件、でしたか。さきほどから伺っていますけれど、わたくしがやった、という確かな証拠はございますの? そこの平民の証言以外にです。わたくしが否認している以上、客観的証拠がなければお話になりませんことよ。違って?」
毅然と胸を張るロゼリーナが水を向けた先は、平民の少女である。第二王子レヴィンを始め、多くの有力子息たちに取り囲まれた一学年下の娘だ。深窓の姫君のごとく、少年たちの奥で大切に護られている彼女は肩を弾ませると、王子に寄り添ってその袖を軽くつまんだ。
珍しい紫色の髪と瞳が、異国の血を想起させる。くるりとした大きな瞳、すっきりと通った鼻筋、小さな肉厚の唇。控えめで大人しそうな顔立ちに小動物的な愛嬌があり、彼女がうつむくさまは見る者の庇護欲をそそった。
世界が同性だけならばロゼリーナと並んで、その可愛らしさだけが賞賛されたことだろう。
シェリス・クローリア。
この学園で、彼女の名を知らぬ貴族はいない。
「シェリス、安心しろ。ロゼリーナがなにをしようと、俺が守ってやる」
「……レヴィン。でも」
「殿下、どさくさにまぎれてシェリスの独占はおやめください。具体的には、その腰にやった手をどけろ、と申し上げています」
「なにっ、ずるいぜ殿下! 協定違反だ!」
「隙を見せるほうが悪い」
見物人から悲鳴が上がった。ロゼリーナ以外にも、この平民に婚約者を奪われた女生徒は大勢いるのだ。
だが周りのことなどつゆ知らぬ様子で王子たちが騒ぎ立てる。ロゼリーナの胸中にも、ちくりと痛みが走った。第二王子を平民が呼び捨てるなど、あってはならぬ不敬である。それを婚約者は、かつて見たことのない嬉しそうな表情で受け入れている。思わず、ため息がこぼれそうになった。
彼はいつから、これほど愚かな人間に成り下がったのか。
公爵令嬢は、心中で問いかけた。
「お話はおしまいにしてよろしくて。わたくし、皆様がたと違って忙しい身ですの。そこの平民の無礼は、卒業記念パーティに免じて特別不問にして差し上げます。ですから今後一切、わたくしをあなたがたの茶番に巻き込まないでくださいませ」
「待て。ロゼリーナ、証人ならばいるぞ」
ロゼリーナが優雅にドレスをひるがえしたとき、背中から王子の鋭い声がかかった。
ロゼリーナの細い柳眉が跳ねる。漆黒の髪をなびかせてふり返るや、白鷺の扇子の奥から凍てつく敵意が王子を貫いた。
一瞬、王子の顔に震えが走った。
「か、階段から突き落とした件だっ! お前の後ろ姿を、マルクが見ていた」
「興味深いお話ですわ。いつのことかしら?」
ロゼリーナが普段と変わらぬ声音で問う。だが、その眼光鋭く、公爵家を体現するがごとき強烈な威圧感は「さすがは黒蝶さま」と女生徒たちの瞳を潤ませた。
マルク、というのは、平民シェリスの取り巻きの一人である。数ヶ月前までは学年主席だった、宰相子息。ロゼリーナとは従兄妹関係にあり、黒髪碧眼をしている。釣った目許と細面が、人間不信の性格と相まって冷たい男と多くの人に誤解される。彼は薄い銀縁眼鏡に手をやって眼球だけを動かし、ロゼリーナを見た。
「とぼけるのがお上手ですね、ロゼリーナ嬢。先月の定例会議のあと、すぐです。資料を両手に抱えていたシェリスを、あなたが西棟校舎の三階の階段から突き落とした。ぼくがそのとき、ちょうど下にいて受けとめられたからよかったものの、もしシェリスが怪我をしていたらと思うとゾッとします。一瞬でしたが、あなたの長い黒髪を見ましたし、そのあとすぐに追いかければどうしたことか。三階の床には、この孔雀の羽根が落ちていました」
「…………」
「どうだ、ロゼリーナ。今夜にかぎって、いつも肌身離さず持っている孔雀の扇子ではなく、その白鷺を選んだわけを聞かせてもらいたいのだが。お前にとって孔雀の扇子は特別なはずだ。先代『黒蝶』、バークワークス夫人の形見だからな」
聴衆が、自然と公爵令嬢の握る白鷺の扇子に注目した。数分前まで瞳を潤ませていた女生徒たちからは、温かみが消えている。まるで針のむしろに立っているようだ。王子と敵対するたった一人の少女を、失意と軽蔑を込めてだれもが見つめてくるのである。
ロゼリーナの指が、白蝋のごとく染まった。傍目にもわかるほど全身を震わす激情を、彼女はやり過ごさねばならない。『淑女として』。
ロゼリーナはプライドを守る。それがすべてだった。
「殿下……! あなたと、いう人は……っ!」
「……もうよい」
感情を無理に殺すと、金属のようなかすれた声がもれた。そんなロゼリーナを、第二王子が手のひらを見せて遮った。公爵令嬢の顔はほとんど扇子に隠れて見えない。それでも、幼いころからともに育った二人である。王子は声音だけで、ロゼリーナに屈服の意思がないと見るや、眉間にしわを刻んで遠くを見つめた。
しばらく、間があった。
「ロゼリーナ・バークワークス。お前との婚約をいま、このときをもって破棄する!」