落ちぶれた日常
静寂に包まれた教室で、禿頭の教師が黒板にチョークを打ち付ける音だけが響き渡る。
平和だ。俺は教師がこちらを向いていないことをいいことに、隠そうともせず大きく欠伸をした。
「下川、お前この問題を解いてみろ」
老けた顔が黒板から振り返り、俺のことを指名する。
下川響大。それが俺の名前だ。
「分かりません」
欠伸を見られた俺は若干バツが悪い心地になるが、ノンタイムでそう答える。
授業を聞いていなかったのだ、わかるはずがない。
俺の答えに、教師はすぐ後ろの生徒を指名した。後ろの生徒の答えも、俺と同じものだった。
意外ではない、いつものことだ。そう多くない生徒の約半数が「分かりません」と答えたところで、教師が仕方なく授業を進める。
だが今回は、授業が先に進むことはなく、授業の終わりを知らせるチャイムが先に鳴った。
「今日はここまで。来週の授業までにレポートを済ませておくように」
教師はそう言い残すと、教卓の上の教科書やら何やらを片付け始めた。他の生徒も、まだ昼だというのに帰り支度を始める。俺もその例外ではない。
この学校はそういう学校だ。課題の数は多いが、授業は少ない。
帰り支度を整え教室から出ると、既に他の授業が終わっていたようだ。廊下が人で溢れている。
俺は流れに逆らわぬよう階段を下りると、近くの駅へと向かった。
学校と家を往復する。
それが俺の生活だった。
*
「昨日、またビルが倒れたんだって」
「えー、またぁ?」
人の少ない電車の中、携帯で暇潰しをしていると、不意に甲高い声が飛び込んできた。
見ると、前の席で女子が他人の目も気にせずに話し込んでいる。厚い化粧でわかりづらいが、制服を着ているということは高校生なんだろう。
「うん、根元からポッキリだってさ。でも今回も犠牲者ゼロなんだって、おかしくない?」
「えー、なんか臭うなぁ。てか数日で二つも倒れたんでしょ? 日本やばくない?」
そんなことがあったのだろうか、最近めっきりテレビを見なくなってしまって、情報を耳に取り入れられなくなってしまっている。
俺はインターネットの検索欄に「ビル 倒壊」と入力した。
すると女子高生が話している内容と思しき記事が見つかった。
十一月三日午後三時、首都園の一部ビルが倒壊。犠牲者、奇跡的にゼロ。
そういう見出しだった。中身は、原因は分からない。ただ自分はこうだと思う。
そんな根拠のない持論だけだった。
やはり犠牲者ゼロ、という部分が引っかかる。
首都園でビルが倒壊して、犠牲者がいないなんて普通ありえないはずじゃ……。
考えても無駄だろう。意味不明な超常現象と言ってしまえば楽だが、そんなわけはない。恐らく政府が適当に根回ししたんだろう。何の根回しは聞かないでくれ。
「はぁ……」
急にバカバカしくなり、小さくため息を一つ。俺は携帯を鞄に仕舞い、席を立ち外の景色が見えるドアの前へと移動した。
木が生い茂って形成された緑のトンネルを抜け、誰かが耕しているだろう多くの畑を通り過ぎていく。
都会の人間からすればここは田舎に見えるのだろうか。
「……ん?」
そんな中でふと、窓の外で紫の光が横切った気がした――刹那、視界が大きく揺れた。
「うおッ!」
車内が轟音で満たされ、どこからか悲鳴が聞こえる。
俺自身もなんとか手すりに掴まり転倒は避けれたものの、久々に声を出したせいか、少々どころではなく野太い声が漏れてしまった。
そのことに軽くショックを受けていられるくらいには、精神が安定していることに安心する。
「何! なんなの!?」
先ほど甲高い声を上げていた女子高生は、その声音を更に上げて叫ぶ。
「お客様に、ご連絡を申し上げます。大変社内が揺れておりますが、まもなく収まります。手元の手すりなどに捕まり、安全を確保してください」
即座にアナウンスが流れた辺りはさすがの対応だろう。だが内容はあまりにも無責任なものだった。
乗客全員が手すりに掴まれたというわけではなく、未だ地面に転げまわっている人もいる。さっきの女子高生の一人だ、もう一人の方は友を見向きもせず必死に手すりに掴まっている。
手に汗が滲み、徐々に力が入らなくなってくる。非常時には、時間の流れが遅く感じる、それを自分の身で確かめているばかりだ。
だが車内の揺れは収まることをしらず、むしろ激しくなっているような気さえする。
本当に大丈夫なのか!?
「ぐっ……」
残念ながら、成長期であるにも関わらず部屋に籠っている俺の握力は非常に弱い。
とうとう限界を迎えたようで、一層揺れが激しくなる床へと叩きつけられた。
「ガッ!」
肺から空気が押し出され、息が詰まる。痛みに身悶える暇はなく、身体のあちこちを打ち付ける。
額を椅子の角で打ち付ける嫌な感覚。あぁ……死んだか?
大袈裟な想像が頭を支配する。案外、打ちどころは悪くなかったようで、それでもヌメリとした液体が額を濡らした。
「グハァ」
斜めに傾いた状態で、電車の揺れは収まった。ズルズルと身体が滑って行くが、身体中が痛んでそれどころではない。目を固く瞑り、静かに息を飲みながら、痛みが引くのを待つ。
「なんなんだよ、一体」
数分が経っただろうか。端っこまで滑らされた身体の痛みは引いてくれたようで、現状に悪態を突く。
手を突っ込んで鞄の中から携帯を取り出すと、無残にも液晶はヒビだらけになってしまっていた。
俺の生活必需品となりつつある時期に、これは大損害だ。親にこっぴどく叱られる上、修理に出す以上しばらくは使えないだろう。早くも心が砕けてしまいそうになる。
こんな状態でも電源だけは入るのか確かめておく。
「……え?」
ひび割れた画面の中の時刻を見て、俺の思考回路は止まってしまった。ゴシゴシと目をこすり、もう一度確認する。
十五時。学校を出てから二時間後の時刻を、携帯は示していた。
流石に壊れてしまったのだろうか。だが電源は付いている。ロック解除のアイコンをタップしても、しっかりと反応した。
時計の表記だけおかしくなるものだろうか……?
俺はふと目を上げると、そこにはさらに奇妙な光景が広がっていた。
先ほどの女子高生が細い足を空中に上げたまま静止していた。こんな状況で、あんな辛い体勢でふざけるわけはないだろう。
慌てて周囲を見回すと、乗客は皆必死の形相で手すりに掴まっている。手を離して、動いているのは自分だけということだ。
「もう……揺れは収まりましたよ?」
衝撃のあまり、恐る恐る、間抜けな言葉を発してしまう。
その一声で、「あぁ、そうですか」と笑いながら動き出してくれればどれほど救われただろうか。
当然返事はない。時間が止まったかのように、瞬き一つしない。
いや、実際止まっているのだろう。
超常現象。その言葉が再度、頭の中で浮かび上がった。