少年とクワガタムシ
「また駄目か……。これで何社目だろう……」
原田亮介は大きめの独り言を、これまた長めのため息とともに吐いた。着なれないスーツは、三十五度を超す気温のせいで、素肌にべっとりと密着して不快だ。
「明日は……○○商事か。あさっては、株式会社○○……」
買って半年と少しなのに既によれよれになった手帳を開き、また大きめの独り言をつぶやきながら、亮介は駅へと向かって足を引きずるように歩いていた。
大学四年生の八月、春から始めた就職活動で連敗記録を更新中の亮介は、落とされるために受けているような採用面接にいい加減うんざりしていた。筆記はそこそこ得意だから一時は通る。けれど、二次の面接に進むと、口下手で我を押し通すタイプではない亮介は、面接官に嫌な質問をされただけで口ごもってしまう。面接で落とされる原因は分かっている。分かりきってはいるが、二十二年間この性格で生きてきたので、今さらがらっと別の人格になるのは難しいのである。
「最悪、フリーターでもいいのかなぁ……。でも、親父は絶対に正社員じゃなきゃ駄目だって言うし」
亮介の父は上場企業の部長を務め、大学進学や就職に対して過剰に干渉するタイプだ。フリーターなど絶対に認めてくれないだろう。だからこそ、何としてでも正社員にならなければいけない。
亮介は、特にこの業界がいいとか、こういう仕事をしたいという希望を持っていない。ただ、他人を蹴落としてでも成績を上げなければならない、過酷な営業職には向かないと思っている。温厚で我慢強い自分がどんな職業に向いているのか、実はまだ答えを出せないでいた。けれど時間は待ってはくれない。大学生活は残り七か月しかないので、その間に就職先を決めなければならない。
もう駅まで二、三分というところまで来て、都会には珍しい大きな公園を突っ切りながら、亮介は捕虫網を振り回して駆け回る子供たちを視界に入れた。自分にもこんな時期があった。ランニングシャツに短パンを履いて、泥だらけになりながらカブトムシやクワガタムシ、バッタ、カマキリ、ザリガニを捕っていた。あの頃は面倒くさい悩みなんてなかった。ただ、生きているその瞬間を精一杯謳歌するだけで良かった。あの日に戻りたい。悩みなんて何もなかった子どもの頃に戻りたい。はしゃぎ合う子どもたちを尻目に亮介は思った。
この先一週間の予定を再確認するため、亮介は隅っこにあるベンチの左端に腰を下ろした。同じベンチの右端には少年が、携帯ゲーム機を両手で握りながらゲームに夢中になっている。虫捕りに興じる子どもたちに比べて、どこか寂しそうに見えるのが気になった。一通り予定を確認し終わり、駅に向かって歩き始めようと思った亮介だが、少年が身にまとっている寂しさがどうしても気になり、話しかけた。
「虫捕り、しないの? 君くらいの子が、みんな虫捕りしてるけど」
ゲームに熱中しているから、返事はこないかもしれないと思った。けれど、少年は斜め上の亮介をちらっと見上げ、おもむろに口を開いた。
「興味、ない。ゲームの方が面白いし」
今時の子どもはこんなもんなのだろうか。亮介はそう思いながらも、自分の頃と同じように捕虫網を振り回す子もいることに安心していた。見上げれば、ベンチの裏にはちょうど大きなクヌギの樹がある。うっすらと樹液の匂いがしないでもない。十数年ぶりに、亮介は虫捕りをしていた頃の血が騒ぐのを感じた。
「この大きな樹、クヌギって言うんだけど、カブトとかクワガタが来る樹なんだよ」
そう言いながら、亮介はクヌギの樹の幹を蹴った。枝が揺れる音と葉がこすれる音が響き、何かの落下音がした。音を聞いて亮介は、甲虫が落ちた音だと確信した。音のした場所には中型のコクワガタが落ちていた。仰向けで、脚をぴったりと身体に密着させ、死んだふりをしながら硬直していたが、綺麗に除草された下地ではその存在をすぐに見つけることができた。
「ほら。コクワガタだ」
親指と人差し指でつまむと、クワガタは必死に身体全体を動かして逃げようとする。けれど、コクワガタ程度の力では大人の男の力の前では無力に過ぎない。
「はさむの? 痛い?」
ゲーム機を置いて質問する少年を見て、多少はクワガタに興味を持ってくれたことに安堵しつつ、この後どうすればいいか考えていなかったことを亮介は後悔した。子どもの扱いなど全くと言っていいほど素人同然だ。
「飼ってみるといいよ。コクワガタは結構長生きするよ? 冬越しもするし」
少年はじーっと亮介の指に挟まれたクワガタを見ている。ゲームなんかよりも、生き物を飼った方が絶対将来のためになると、亮介は思った。
「うちのマンションは犬とか猫が飼えないんだ。クワガタでもかわりになるかな?」
「十分なるよ。意外と可愛いぜ? エサを入れるとすぐに食いついてくるし」
「百円ショップで虫かご買って、飼ってみるよ!」
上手くいった! 就職活動では連敗続きで落ち込んでいた亮介は、少年の笑顔に多少は活力をもらった気がした。
九月、亮介はまだ内定をもらえていなかった。延々と続くとしか思えない先の見えない就職活動は、亮介にとって拷問に等しかった。卒業までの日数は毎日毎日どんどん減っていき、終わりへのカウントダウンが進んでいくようで憂鬱だった。
その日、二次の面接を受ける企業は、たまたまあの少年と出会った駅が最寄りだった。余裕をもって一時間前に駅に着いた亮介は、時間をつぶすのにちょうどいい、あの公園に向かった。平日だけど夕方前だから、また少年がいるかもしれない。そんな想像を巡らせていたのだが、本当にあの時と同じベンチの側に少年を認めて、亮介はしばらく言葉が出なかった。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん……」
声をかけてきたのは少年が先だったが、涙声でほとんど声になっていない。両目から大粒の涙が、信じられないくらいの勢いで流れている。
「どうしたの? なんで泣いてるの?」
少年は、上に向けた両の掌を亮介の目の前に差し出した。そこには、仰向けに冷たくなったコクワガタが乗せられていた。
「お兄ちゃん、死んじゃったよ。クワガタ。死んじゃったよ」
両目に涙をため、鼻水さえ垂らしながら、少年は訴える。ちっぽけな虫の死を、小さな全身で受け止めているのを目の当たりにして、亮介はぐっと熱いものが昇ってくるのを感じた。
「クワガタもそうだけど、生き物はみんな死ぬんだよ」
「どうすれば、生き返る?」
「ゲームと現実は違うんだ。現実では、みんないつかは死んで、二度と生き返らない。虫も、動物も、もちろん俺も君も」
少年はしばらく鼻をすすっていた。じっと、掌に転がっているクワガタを見つめている。最初に経験した死は、亮介にとっても辛く苦しかった。この少年も、小さな虫の死を受け入れ、それを乗り越えることで成長していくはずだ。
「埋めようか。クワガタ」
「……うん」
コクワガタが落ちてきたクヌギの樹の根元に、二人で墓を作った。クワガタを埋めて土を盛り上げ、標章に木の枝を立てた。二人で墓に向かって手を合わせ、死んでしまったクワガタに黙祷を捧げた。
「来年も、夏になったらまたクワガタを捕ろう」
「本当に? 絶対だよ。約束だよ! お兄ちゃん!」
弟のいない亮介にとって、お兄ちゃんと呼ばれるのは悪い気がしない。亮介は少年と指切りげんまんをして、就職試験に急いだ。
「弊社を志望された理由をお聞かせください」
どこの会社でも聞かれる、決まりきった文句から面接は始まった。
「私は、御社の、福祉に貢献する企業理念に共感しました」
我ながら、あたり障りのない、どうでもいい意見だ。就職面接のマニュアル本でもでてきそうな答えだ。
「あなたが、理想とする社会人像は、どんなものでしょう」
やや変則的な問いかけに、亮介は狼狽しながら、ほとんどおうむ返しに質問をなぞった。
「理想とする、社会人像、ですか?」
そう言ってしまって、何も答えていないことを亮介は後悔した。
「どうでしょう。あなたが目指すものは? 目指す将来の姿は?」
そこまで言われれば、さすがの亮介でも答えられる。
「わたしは、他人を押しのけてでも利益を求めることができないタイプの人間です」
一旦言葉を区切り、面接官が口を挟まないのをいいことに、亮介は続けた。
「人よりも良い成績を上げ、良い給料をもらって、高い車に乗ったり高級レストランに行くことには興味がありません。それよりも、人が泣いていたら一緒に泣き、笑っていたら一緒に笑うような人間になりたいです」
しまった。理想の社会人像を聞かれたのであって、理想の人間像を聞かれたのではなかった。
「なるほど。仕事を一生懸命頑張って、立派な成績を上げるような社会人に、あなたはなりたくないということですね」
随分意地悪な質問だ。これが圧迫面接か。横に三人座っている真ん中の面接官、四〇代と思われる声の主を、亮介はちらっと見た。
面接官の言った言葉に、亮介は答えることができなかった。やはり自分の考えは間違っているのだろう。だからこそ、何社受けても落とされるのだろう。膝に置いた掌を、亮介は握りしめた。自分は社会人にはなれないのだろうか。諦観さえ抱いた。
「私は、仕事一筋で生きてきました。施設数を増やし、多くの介護従業者を雇い入れ、会社の業績を上げることで社会に貢献することが、自分に最も求められることだと信じて疑いませんでした」
唐突に語り出した真ん中の面接官の言葉に、亮介は戸惑いを隠せず、今度ははっきりと彼の顔を見てしまった。不思議だが、どことなく、見たことがある気がする顔だ。
「順調に昇進し、昇給もし、社会的な地位を築き、家庭のことは全て妻に任せきりでした。だから息子が、私の職場すぐ近くの公園で、学校帰りに毎日ゲームをしていることも知ろうともしませんでした」
……?
「私が夜遅く帰ると、息子がね、虫かごで飼っているクワガタムシの様子を毎日毎日見ているんですよ。まるで自分の子どものようにね。私は息子の面倒なんて、一切みたことがなかったのに」
もしかして、この人は……。
「さっき、休憩中に、たまたま公園で見てしまったんですよ。あなたと息子を。あんなに感情をむき出しにする我が子の姿は、恥ずかしながら初めて見ました」
改めて、亮介は面接官の顔を正面から見た。クワガタムシを一緒に埋めた少年の面影が、そこには確かにあった。
「やっと、気付きました。私は、やっと、気付かされました。原田さん。是非一緒に働かせてください。あなたの優しさを、弊社の福祉理念に植え付けてください」
すっと肩の力が抜けていくのを、亮介は感じた。掌に入れていた変な力が、自然に解き放たれたように緩むのを覚えた。思わず閉じてしまった瞼の裏から、少年の笑い顔が迫ってきて離れなかった。