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意思惟

「……参ったわね」

 ゼーンには反射的に答えたものの、いざ冷静になったシレーヌは頭を抱えた。いや、ここは開き直って冷酷になるくらいはしょうがないのかもしれないが。

「ワイバーンはシャフト内部の13、14隔壁も突破!」

 本部員の非情な声が響き渡る。シレーヌはすがるような思いでエームズに問い掛けた。

「ハイブリッドの処置は?」

「まだ6、7割だ。闘えない事もないが、相手が相手だからな」

「ワイバーン2体。エリファの能力なら問題ないはずだけど」

「気休めというわけじゃないが、恐らく本命は1体だろう」

 モニターに映る、シャフト内部のワイバーンの反応を示す光点。上下2つのうち、上の反応のみを指差してエームズは言った。

「何故です?」

OBISオヴィスとは元々、ギリシャ語で『砲弾』という意味だ。奴らはキメラをしのぐ戦闘能力を有し、その命が尽きるまでただ闘い続ける。反連合政府同盟アウガルは大戦中、OBISオヴィスの体内に爆弾を埋め込み、戦場で爆発までさせた逸話もある」

「……酷い」

「先行するワイバーンはここまでの進路を確保する為だけの存在だと私は思うが」

 確かに、それを裏付けるように、先行するワイバーンの生体反応が弱まっている。いくら強固な鱗に覆われていても、数十の頑丈な隔壁を突破すれば無事では済むまい。

「私の推測はどうあれ、OBISが活動を始めたという事は、奴らがアニマを使いこなして……いや、その逆も有り得るか。とにかく我々に猶予はない」

「……はい」

 それは、素直に認めるしかなかった。もう彼女に、エリファに頼るしか方法はない。しかしそうは分かっていても、気迷いが行動に出てしまっていたらしい。手を伸ばし、掴もうとしたインカムはあっさりとエームズに奪い取られる。

「グラウには、私が話そう」

 掴み損ねた手をそっと握り締め、シレーヌは小さく頷いた。



「各エリアのシェルターから報告がありまして、無事避難を終了したそうです」

「そうか、分かった」

「総裁もそろそろ」

「……ん」

 どこか事務的なガヴリアとハイブリッドの会話を、グラウは半ば上の空で聞いていた。左手首の時計を見ては視線を戻し、再び時間を確かめてからエリファを見る。さっきからその繰り返しだった。

(俺が焦ってもしょうがないだろが)

 分かってはいても。

 人知れず溜め息を漏らし、エリファの陰鬱いんうつな横顔を見つめる。

 ゼーンが宇宙ステーションへ向かってからすでに30分が経過しているが、エリファは微動だにしない。閉じかけたまぶたの間に僅かに見える双眸そうぼうは、いったいどこを見据えているのかすら定かではない。まるで眠っているように安らかで、死んでいるのかと思えるほどうつろに見える。

「グラウ?」

 ガヴリアの呼び掛けに、グラウは行き詰まった視線をようやく流した。

「何だ?」

「このままエリファを見守るか?」

「見守る、か」

 それが今すべき事なのだろうか。できる事なのだろうか。正しい選択肢なのだろうか。

「いや、私が見守りたいのはエリファだけではないな。……情けないがお前に期待しているのかもしれない。あの日と同じように、再びエリファを救う事を」

 よどみないガヴリアの言葉は、あまりに無責任で、そして美化し過ぎて聞こえた。

「エリファを救った? ……あれは、違う。あの時、エリファに触れたあの時。エリファの心はそこには無かった。虚構きょこうの心を抱き締めても、それは救ったとはいえない」

 抱き締めるように寄せた両腕の間からは、不鮮明な感触がむなしく虚空こくうへと散っていく。目に見えない感情を掴もうとするかの如く。そして不確かな心地は、不安と期待をうやむやにする。

 −−2年前のあの日もそうだったように。

「エリファの心は、今そこにあるんだろうか?」

「彼女は望まれている。それは揺るぎない現実だ。ならば見えているはずだ。……彼女自身の希望というものが」

「そう、なのか?」


 −−グラウ“は”……違うよ。


(エリファはそう言った。エリファの心のどこかでは、まだ人間に絶望しているんだろうか。もし、そうだとしたら)

 胸が冷たく締め付けられ、鳥肌が立つ。思考は高揚こうようしても、それが感情に繋がらない。

(俺は知るのが恐い)

 独り言のように出た言葉は、恐らくガヴリアには聞こえなかっただろう。その声よりも、同時に鳴り響いたインカムの呼び出し音の方が大きかった。

「シレーヌか?」

『シレーヌじゃなくてすまないな』

「エームズ?」

『立て続けにすまないが、悪い報告だ』

「ん〜今日は悪運の当選確率が高い事」

『私には皮肉を言う余裕はないよ。ワイバーンが2体、こっちに向かっている。おまけにあのOBISだ』

「っ!?」

 その一瞬でできたのは、更に悪くなっていく状況を認識する事と、エリファに視線を向ける事だった。

 一拍。

 落ち着かせる為に一つ息を吐いてから、グラウは問い掛けた。

「後どのくらいで?」

『10分無いと思ってくれ。エリファにもそれを伝えてほしいんだが、大丈夫そうか?』

 鼓動が警笛けいてきのようにどよめく。気詰まりな雰囲気が不気味に広がっていくのがはっきりと分かった。

 空気が、重い。

「なんとも言えない」

『グラウ、それでは困るんだ』

 エームズの抗言も、もっともである。どうすればいいのかを熟考する前に、体は自然とエリファに向かっていた。



 近付く生体反応。

 それはワイバーンのものだろうと感知できた。だが何かが違う。キメラから悪意や殺気のようなものを感じる事など今までなかった。まるでそれはアニマの意志そのもののようにも錯覚できた。

(この感覚……まさか、OBISなの?)

 だからなのだろうか。

 体は無意識に拘束されて、震える。そして意識は更に深遠へとにじんでいく。エリファは不愉快に背筋を這いずり回る悪寒に歯噛みした。

 たとえ足掻あがいたとしても変わらないもの。それは過去。絶対的に過ぎた時間で狂ってしまった心の奥にある全ての断片を手繰たぐり寄せて、それを丁寧ていねいに紡いでいく。

 ほのめく答え。

 だが、所々が抜け落ちた未完成のパズルのように、まだ何かが足りない。何かが……

「大丈夫か?」

 不意の言葉。いつの間にかグラウが目の前に立っていた。咄嗟とっさに取り繕うようにして口元を緩めていた事を滑稽こっけいに思いながらも、エリファは頷いて見せた。

「……うん、大丈夫。知ってるよ。キメラの反応が近い」

 重い。何もかもが。

 動かす唇も。発する声も。呼吸も。瞼も。踏み出そうとする足も。

 当然の事だが、ここにも避難命令が出たらしい。エンジニア達も、作業半ばに避難を始めている。負傷したハイブリッドの処置もまだ万全ではなく、たとえ万全だとしてもOBISらしきワイバーンが相手では彼等に勝ち目は無いに等しい。

「……恐いか?」

「分からない」

 首を振る。差し出されたグラウの手を避けるようにエリファはおもむろに歩き出した。グラウの手はそれ以上伸びてはこなかった。そのまま戸惑いと不安を振り切る心地で足を踏み出す。

 と、その時。

 天井からくぐもった爆発音が聞こえた。やがて天井全体に広がり、激しく振れ動く。

「来た。みんな早く逃げて!」

 更に続く轟音。それはゆっくりと地響きへ変化していく。ワイバーンはこの真上にいる。天井が崩れ落ちるかもしれない。

 すかさず辺りを見回した。ハイブリッドやエンジニア達はまだ避難し終えていない。

「何してるの? グラウも早く逃げて」

 今できる精一杯の険悪な気配を言葉に含めたつもりだったが、グラウに気後れした雰囲気はなかった。それどころか、微笑を浮かべて言ってくる。

「今のお前を1人にできるわけないだろ?」

 グラウの何気ない気遣いが胸の奥底にある傷口に染み入る。だが、それは同時に今すべき決意を揺るがす起因にも思えた。

 それは自らの甘さか?

 単なる動揺か?

 逃避なのか?

 それとも−−私がいやしいだけ?

「情けない」

 そう呟き、エリファはうつむくようにグラウから顔を背けた。

 結局、巡り巡った思考はただ曖昧あいまいになっていく。そうなる事は分かっていたはずだった。

「エリファ。お前は何を願う?」

「私の、願い?」

「願望は生きる意思−−意志−−になる。願いは叶うものじゃなくて、叶えるものなんだよ。お前ならそれができる」

 吸い寄せられるように、顔がグラウへと向く。彼は再び笑みをこぼしていた。

 過去に答えがあるという確証はどこにもない。しかし、グラウの残した数々の言葉が鮮明に蘇ってくる。優しさに満ちた温かな思い。アニマとは似ても似付かない。

(……私は)

 一つ確かな願望がある。それは今、誰も傷付かない事。

 耳鳴りに似た振動が増し、エレベーター付近の天井の一部が絹を裂くような爆音を響かせて瞬く間に崩壊した。それと同時に、口にハイブリッド−−すでに生命反応は無い−−をくわえたワイバーンが姿を現した。

「っ!」

 エリファはグラウに叫ぼうとしたが、それは声にはならず消え失せた。

 シャフト内部の隔壁を突破して来たワイバーンは、瀕死ひんしとしか思えない傷を負っているにもかかわらず立っている。生命の生きようとする本能ではない異質の輝きを宿す瞳に、エリファは言い知れぬ恐怖を感じた。思い起こされるのは、悪意の表象ひょうしょうが渦巻く青藍せいらんの瞳。ふと見えたのは、間違いなくアニマだった。禍禍まがまがしくもあるその視線に、為す術無くすくみ上がる。

 動けない。以前感じた寒気ではない震えだけが体の芯に付き纏う。

 それを見透かしたのか、ワイバーンはくわえていたハイブリッドをたわむれていた遊具のように放り投げた。

(来る!)

 ハイブリッドとしての本能がうずいた。ワイバーンの最初の挙動は何か、攻撃の手段は何か、どう対処すべきか。戦闘でのあらゆる可能性が瞬時に考察される。しかし、やはり体は動いてくれない。

 グラウが目の前にいるというのに。

「グラウ、逃げて!」

「言ったろ、1人にはできないって」

 どんなに格好が付く言い回しができたとしても、生身の人間であるグラウにどうにかできる相手ではない。ハイブリッドでなければキメラは倒せない。自分に言い聞かせるまでもなくそんな事は分かっていた。ならば、今何をすべきかひとりでに具現するはずである。

(そう。私には闘わなきゃならない理由があるのに)

 刹那−−

 グラウの肩越しにワイバーンが動くのが見えた。中程から千切ちぎれ役目を果たさなくなった翼を律動させ、飛び掛かって来る。

 エリファは伸ばした手でグラウの肩をなんとか掴み、そのまま倒れるように引き寄せた。間一髪のところでワイバーンの巨体がかすめていく。

 直ぐにグラウをかばいながら素早く起き上がる。それくらいなら何とかなった。視線を移すと、ワイバーンは身をひるがえし次の挙動体勢に入っていた。その射るような眼差しに、死の予感がよぎる。このままでは殺される。必死で恐怖に勝る何かを探すが、今の状況ではそれも覚束おぼつかない。

 床を蹴る鈍い音と共に、殺気が迫った。体に動けと念じる。

 と、どうにか体が微動した。グラウよりも無力だと痛感できる程に歯痒く。

 今度のワイバーンの攻撃は避けられそうにもなかった。しかし、そんな状態でも現実を見続ける事を諦めないのは不思議でしかない。

 見える。弱っていても力強いワイバーンの足の動きが。脈動する筋肉が。荒い息遣いが。そして、浮き上がる自分の体も。

「えっ?」

 気付くと、グラウに抱き抱えられていた。

まさかこのまま逃げ切るつもりなのだろうか。

だとすれば、あまりに考えが浅はか過ぎる。

案の定、ワイバーンのスピードとリーチの前では無駄なあがきだった。グラウが数歩下がったところで、ワイバーンの尾が大理石の床を叩いた。その衝撃は触れているグラウからも伝わってくる。圧倒的な破壊力は弱々しい見た目からは信じがたいが、直前で砕け散った大理石は違う脅威となって襲い掛かってきた。風圧も加わり、2人分の体重が軽々と吹き飛ぶ。

「うぐっ!」

 大小いくつもの破片が飛散するなか、そのうちの1つがグラウの頭部へ直撃した。血飛沫ちしぶきが飛び、視界が赤くにじむ。呻き倒れるグラウの腕から落ちたエリファは、自分の受け身は構わず、尻餅をつきながら逆にグラウを抱き留めた。

「グラウ!」

「……う……ぅ」

「何でこんな無茶を!」

 いったいグラウが何故そこまでするのか。いったい何がグラウにそこまでさせるのか。

 答えを教えてほしい。

 導いてほしい。

 意識が薄れているのか、力の抜けたグラウを、エリファはもろいガラス細工を扱うように抱き寄せた。

「生きるとは、意志を示す事だ。躊躇ためらうな、お前の意志を」

「……」

「それとも、信じられない者の為に闘うのは、馬鹿馬鹿しいか?」

 蚊の鳴くようなグラウの悲痛な問い掛けが、心に突き刺さる。エリファは躊躇わず、首を振った。

「違う。違うよ、グラウ。私は、信じ“たい”んだと思う」

 その時、心のどこかで何かが弾けた。強く引き付けるように。曖昧だった思考が、その何かを見出みいだそうとする。足りない何かを。意味ある意志を。

「そうか……よかった」

 流れ落ちる涙と、静かな囁き。そして訪れる沈黙。エリファは、気を失ったグラウを横たわらせた。

「ごめん。私、グラウみたいに意志は強くないから。……でも」

 気付くと、自分の頬も涙で濡れていた。それはかつて苦しみで流したものとは違う、温かい雫。心の奥底から湧き出た感情。赤く滲んでいた視界が洗われていく。

 エリファは涙をぬぐい、ワイバーンを睨んだ。

 少なからず怪我の影響はあるらしい。攻撃でバランスを失っていたらしいワイバーンが体勢を立て直しながら、うなる。しかし、その唸り声は突然別の音に消された。崩壊した天井の奥に広がる闇からとどろく、より力強い咆哮ほうこうによって。

 目の前のワイバーンは驚いたように首をよじり、今度はその天井へと唸り声を上げた。それは恐怖しているようにも見える。

 刹那。重苦しい羽音を引き連れたもう1体のワイバーンは、闇から舞い降りるや否や、傷付いた仲間へ容赦なく襲い掛かった。

 同種族とはいえ、傷付いたワイバーンの抵抗など無意味に等しい。恐らく本命であろう無傷のワイバーンに首筋を噛まれ、勝敗は決した。乾いた小枝のようにあっさりと首の骨が折れる。唸り声は断末魔となってかすれていった。

 しかし、それはワイバーンにとって−−アニマにとっても−−単なる座興ざきょうでしかなく、ましてひ弱な相手を仕留めただけで満たされる事は無いだろう。新たな獲物を追い詰める工程をきょうずるように、ワイバーンは悠然と近づいて来る。められているのか、あるいは試されているのか。そのどちらにせよ、湧き上がる苛立ちだけは、はっきりとあった。

(そうやって、全てを見下して!)

 心中でアニマに毒づく。

 苛立ちは怒りとなって、能動感に拍車を掛けた。左手が自然と動く。直線上にいるワイバーンへ向けて。

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 思惟しいの先には、顕現けんげんされる現実がある。だが、OBISから伝わるアニマの意識が集中力を奪っていく。それでも、後は念じ、望み、願わなければいけない。それは意志となって力となる。今は、その力は必要だ。

 ただ一言。エリファは振り払うように言い放った。

「邪魔よ!」

 言葉がほとばしり、情動が放たれる。疎ましいアニマの気配は去り、同時に、轟々(ごうごう)たる唸り声を上げてワイバーンがゆっくりと倒れ伏した。敏感になっている感覚器官が、ワイバーンの死を知覚させる。背筋には不気味な圧覚あっかくが纏わり付いたが、気にしてはいられない。

 直ぐさまエリファはグラウの怪我を確かめた。

「グラウ!」

 この数分の間にその名を口したのは何度目だろうか。そんな事が脳裏によぎる。

 と。本部へ避難しかけていたガヴリアが慌てて駆け付け、グラウの傍らへとしゃがみ込んだ。

「グラウ!?」

 初めて見る、総裁の狼狽うろたえる姿。しかし、それも当然といえば当然だろう。ワイバーンの攻撃に巻き込まれたうえ、頭部からは出血し意識が無い姿を見れば、死を予感させても不思議はない。

「大丈夫、生きてますよ。今は気を失っているだけです」

「そ、そうか。ならよかった。エームズ、救護班を頼む!」

 どうやらエームズも近くに来ていたらしい。だが、その姿を確かめるよりも、エリファはグラウの頭部へ意識を注いだ。

(出血が止まらない?)

 流れ出す血が一向に衰えない。傷は決して浅くはないだろうが、致命傷でもないはずだ。とはいえ、このまま出血が続けば同じ事だ。治療が始まるにはまだいくらか時間が掛かるだろう。それまで待つべきではない。エリファは意を決してまだ違和感の残る左手をグラウの頭部に添えた。

「エリファ、何を?」

 ガヴリアの問い掛けは聞き流し、エリファは意識を研ぎ澄ませた。まだ触れた傷口も、溢れる血も温かい。

(今度は私が助ける)

 思いは、願いはただ1つだけ。

 −−力は意志となる。

 焼けるような感覚の手の平が激しく脈打つ。NBMナノバイオマテリアルが意志に連動を始め、手の定形が徐々に曖昧になっていく。

(行ける。NBMは私の思いを顕現してくれる)

 手の平の細胞素子が、グラウの傷口へと流動していく。それは傷の最奥まで達し、失われた細胞を補う。

「出血が、止まった?」

 ガヴリアが状況を代弁してくれる。完璧な治療ではないかもしれないが、ひとまず大事には至らないだろう。ほっと、胸を撫で下ろす。

 グラウの頭部に添えた手をそっと頬まで撫でながら、エリファは名残惜しい思いを抱き、立ち上がった。

「後はお願いします。……私、行きます」

 まだうっすらと濡れていた頬を右手で拭い、エリファは呟くように言った。

「そうか」

 ガヴリアは不意に悲しげな表情を見せた。自嘲じちょうのようにも見えたが、俯いてしまったために、確かめる事はできない。

「もう、目をそむけてもいられない。自分自身でけりをつけてきます。今ならそれができるかもしれないから」

 自ずと口調が強くなる。それは物憂ものうい気分を払拭ふっしょくするには十分なものに思えた。ただ、絶対的な自信とまではいかないが。

 言い終わると同時に、ガヴリアが顔を上げた。その表情はさっきの悲しげな表情とは打って変わって穏やかだった。更に顔をほころばせて言ってくる。

「それが自身で選んだ道ならば……。容易ならざる現実が待っているかもしれないが、自分の意志を忘れてはならない。アニマに惑わされるな」

 できればその言葉はグラウの口から聞きたかったが、今それを望むことはできるはずもない。

(……叶わない願いもある)

 故に、それは単なる自己満足のようなものなのだと自覚しつつも、エリファは自責の思いに唇を噛んだまま、グラウに向かって頷いた。

「グラウの為にも……もうこれ以上辛い思いをさせたくはないから」

 言いながら、きびすを返す。

 と、ガヴリアは突然声を張り上げた。その口調は、隠そうとして隠せなかったという程度に慌てていた。振り向かず、耳を傾ける。

「エリファ! 自分を責めたりはしないでほしい。言い訳がましく聞こえるかもしれないが、“我々”が先非せんぴを悔いればいいのだから」

 物悲しい語尾はうれいに沈む。それは、苦し紛れの物言いではないと証明しているのだろう。ふと、グラウの言葉を思い出す。

「グラウもそう思っているんでしょうね。だけど、責めても悔いても、過去は変わらない。……ただ今は、未来を信じてみたいんです」

 沸々(ふつふつ)とたぎる気持ちに後押しされ、喉からにじみ出た言葉に偽りはなかった。つまりそれは、凪の終わりを告げるように、心にふっと過った自問を説き伏せるための強弁でもなかった。例え風が止まずとも、その気持ちが揺るぐ事はない。そう思えた。

 ただ疑念はあった。

 それは自らの意志への懐疑かいぎ

(私の怒りは正しいの?)

 再びの自問。止まない風が、心をざわつかせる。

 だが−−

(私はアニマとは違う。ここで迷ったら“また”アニマに勝てない! 自分自身も信じないと)

 心中でわめく。

 そして、エリファは強引に“風を切るように”駆け出した。



 2体目のワイバーンも手早く倒し、シュウやミリアが残りのOBISと戦闘を続けているセクション4へと向かおうとしたが、激化した戦闘の影響で安全装置が働き、ターミナル内部のエレベーターは全て停止していた。やむを得ず、セクション4へ疾走しながら、ゼーンは下層へと逃がしてしまったワイバーンの反応が消えたのを確認した。

「2つ目の反応も消えた! ……やっぱり、お前は強いんだよエリファ」

 苦悩していた姿を見ている分、感慨深く言葉が漏れる。

そして、ようやく腐りかけていた心が開放されていく。自分の失態であった事に間違いはないが、結果的にはこれでよかったのかもしれない。グラウの言う通り、最悪の事態が起これば自分の力など無いに等しいのだ。故に、キメラを使役する傍観者の心理的な強迫観念が別の苦しみを生み出す以上、心が休まる事は無い。

「それに比べ、胸糞悪い奴。いちいちやる事が意地汚いんだよ」

 苦し紛れに毒づき、セクション4へ通じる最後の非常階段を、ゼーンは駆け上がった。

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