覚醒
二つの予想外の事実に、カスミは打ち萎れていた。
一つは、期待していた警備隊がネウロンに辿り着けぬまま撤退をしたらしいという事。そしてもう一つは、自分の命が長くは保証されないと改めて実感した事だった。
ただ、徹して銃口を突き付けてくる横柄な男の前では、気丈に振る舞うしかなかった。
「警備隊を退けるなんて、ハイブリッドをコントロールでもしたのかしら?」
それは馬鹿げた与太話ではある。それでも、沈黙を紛らわすには仕方ない。
「無駄話をする暇があるなら足を動かせ。時間が無いんだ」
「どこで何をするのか私には分からないのだけど?」
「まだ空々しい態度を。自分が生かされている理由に答えはあるだろう? ま、お前の価値はそんなもんだ」
耳障りな男の濁声が不快に響く。
施設の中枢ブロック。そこへと繋がる通路に無情に響き渡る足音は、まるで死への秒読みに聞こえてくる。男の手の内にある自分の運命を易々と甘受するつもりなど毛頭ないが……
「それだけの価値しか無いなら気が進まないのは当然でしょ!!」
がなる。恐慌をきたすとはまさに今の状態なのだろう。そもそも今まで平静を保っていられた事自体不思議でならない。
と、すかさず右腕を捩じ上げられ、カスミは呻いた。背後に回った男は耳元で、
「心配するな、俺が直々にお前をどうこうするつもりはない。それを決めるのは俺じゃないからな」
首筋に触れる生暖かい鼻息。加えて、薮から棒な男の発言に思わず我に返る。気になる言い回しだ。
「き、気休めのつもり?」
「そう聞こえるか? なら幸せな女だ」
右腕が開放された。痛みに顔を歪めながらも、カスミは男を睨みつけた。
「例えるならこの“牢屋”に閉じ込められた哀れな男の事さ」
大仰に両手を広げて、男は言った。平静を保てなくなった脳の回路でも、その言葉の真意は理解できる。つまり、この男はネウロンの真価を知っているのだ。
「何故……いえ、どこまで知っているの? この施設の全てを知るエンジニアすらごく僅かなのに」
「まぁ“情報”とはその程度のものだ。奴にとってもな」
男の含みのある言葉に、カスミは不可解な悪寒を覚えた。いや、含みというよりは、それはまるで“代弁”のように思える。
人間でありながらハイブリッドの能力を併せ持つ、始まりの存在。
−−アニマと呼ばれる存在。
「有り得ない」
カスミは呻くように漏らした。
「有り得ない事は起こるもの。……ようは蓋然性が高かっただけじゃないか?」
「蓋然性って」
抗弁をしても、現実に変化が起こるわけではない。認めるしかなかった。
(でも……どうして?)
積もる疑問をよそに、ネウロンの本丸、ブラックチェンバーは目と鼻の先に迫っていた。
「悪い報せが2つあります」
エームズは総裁室のガヴリアへと通信を繋ぎ、重々しく口を開いた。ガヴリアとのやり取りは日頃から慣れているとはいえ、事態が緊迫しているだけに、きりきりと胃が痛む。もっとも、それを我慢する術くらいは当然知っている。
『そうか……それで、1つ目は何だ?』
ガヴリアは特に声音も変えず−−要するに、いつもの事務的な口調と何等変わらなかった。それは総裁という立場であるからこその自制でもあるのだろうが。
「はい。警備隊の一時撤退を強いられそうです。敵方の戦力に武装した人間がいたのは誤算でした。負傷者もいますし、いくら非常事態でも彼等に人殺しはさせられません」
『シュウに説得でもされたかい?』
「えっ」
『いや、それは置いておこう。それでもう1つは?』
「は、はい。現在プロテクトの切り替えで阻止はしていますが、ネウロンのコントロールが奪われるのも時間の問題かと」
『そうか』
初めてガヴリアの声が沈む。エームズも頭を抱えたい気分だったが、そこは持ち前の精神力で乗り越えるしかなかった。
『敵性分子の特定は?』
「現在、擬装コードなどから調査中です。もう少しお待ち下さい」
溜め息らしき音を残し、ガヴリアから沈黙が生まれる。何かを思慮しているのだろうか、姿を見る事ができない今は判断が難しい。ややあってから−−
『ネウロンのコントロールが奪われれば、アニマに関してもそう考えて間違いない』
「しかし“あれ”は……」
『もはや人の意味を捨てた存在。屍に等しい。だが、あのシステムを築き上げたのは、外でもない“その”シュロム・マウアーだ。何があっても不思議はない』
シュロム・マウアー−−ハイブリッドの製出基礎を築いた、ト・コイノンのハイブリッドエンジニアであり、無類のシステムエンジニアでもあった。ハイブリッドや干渉インターフェースの存在は彼無くして有り得なかった。しかし一方で、偏狭的な言動も数多く、頻繁に批難の対象とされた事実もある。
ガヴリアの言わんとしている事は少なからず理解できる。はっきりと甦るのは終戦の悪夢。もちろんそれは不安だった。
「では、エリファに」
それが、エームズにとって最善と思える策だった。
が−−
『グラウに打診はした。だけど、答えを出すのは私達じゃない』
「しかし、このままでは」
『分かっている!』
ガヴリアの怒声に虚をつかれ、エームズは思わずたじろいだ。落としそうになったインカムを手の平で慌てて押さえる。
『すぐに残りの隊員を呼集してくれ。負傷者を救助しつつ、シュウ達の援護と対処を−−』
「総裁!」
負けじとエームズも声を荒らげて抗言したが、ガヴリアそれを軽くいなし、言葉を紡ぐ。
『エリファは……まだ苦しんでいる。彼女は、人間の醜い心根の全てを痛感した。それを知り抜くことは、到底我々にはできない』
確かにそれは自分にも無理だろうとエームズは心中で認めた。だが、総裁という立場で、命令に私情を交える事は本来あってはならない事だろう。
「エリファを庇いたい気持ちは分かります。しかしその為なら他のハイブリッドは犠牲になってもいいのですか!?」
『身代わりの犠牲など、私は望んでいない。……待つのは賭かもしれない。それでも今の彼女には時間が必要なんだよ』
それが軽はずみな発言ではないのは十分に知れる。しかしだからこそ意味が重い。エームズはかぶりを振り、
「この世界で、優しさは諸刃の剣なのですよ?」
『優しさの無い人間など……。私はただ、正しい弱者でありたいだけだ』
当然の如く、ガヴリアの口調に迷いは一切感じられなかった。
第一管下ラボへ戻ったグラウは息を吐く暇も無いまま、デスクへと腰を据えた。他のエンジニアも一様に忙殺されている。今の状況では、恐らく別の管下でもきりきり舞いしている事だろう。
しかし−−
(俺はいいのかこれで?)
まだ、ガヴリアへの答えは出していない。作業に専念する事でうやむやな気持ちを誤魔化しているのは明らかだった。
2年。その月日で確かにエリファは変わった。しかし傷付いた彼女の心は決して癒えてはいないだろう。それは言動から分かる。
(このままでは、俺も見放されるかもしれないな)
グラウは嘆息し、キーボードを叩く指を止めた。すでにエリファとゼーンは、アセンブラー槽で局地戦闘プログラムの調整段階に入っている。
そのアセンブラー槽に視線を向けたところで、エリファが気付くはずはない。彼女から精神干渉されているならば話は別だが、調整中の今はまず有り得ない。
ふと。
(不便な生き物だよな、人間てのは)
遥か遠い過去、人間は言葉に勝る意志の疎通−−つまりコミュニケーション−−を可能にしていたという説があるらしい。もしそれが真実であるならば、今の人間は何とお粗末な事か。
ハイブリッドが新時代を担う−−それはある意味、人間の失った、もしくは成し遂げられなかったという重荷を背負わせる為の建て前なのかもしれない。
(もっとも、その建て前で、他人との関わりや干渉を上辺だけのものにした人間の“本音”にどれだけの価値があるのかは微妙か)
エリファはそれすらも知っているのだろうか。人の潜在意識が渦巻く、世界の根底にあったものを。
(いや……それは、人間こそ見なければならない現実なのかもしれないな)
心理的に扇動され、改めてキーボードの上の指を動かす。
(……どこまで矛盾しているんだか俺は)
つまるところ、自分もエリファという存在とその力に依存している証拠だ。呆気なく漏れた自嘲にグラウは認めざるを得なかった。
「こっちの調整は仕上がったわよ。MTSの組み替えとAIF(対干渉還元制御)のインストールは……グラウ?」
突然、脇からシレーヌの顔がぬっと現れた。端正な顔の中にも一際目立つ瞳を更に大きくし、不安げな表情で覗き込んでくる。
「終わった?」
「ん……あ、何が?」
「何がって−−やだもう、まだ途中じゃない。……大丈夫? 疲れてるなら代わるわよ?」
「いや、平気だよ、ちょっと考え事してただけさ。早いとこ終わらせなきゃな」
ディスプレイには、MTSと呼ばれるハイブリッド専用の多機能戦闘用機構の組み替え状態が表示されている。
MTSは、内部に組み込まれたトランスモジュールから得る戦闘機能を−−NBMへと伝達するなど−−能力として具現化させる役割をしている。
そして−−
(……D)
組み替えのトランスモジュールの中にある『D』の文字。『Dunamis』を冠するそれは“力”を意味するエリファ専用のトランス。エリファが『ノエマ・デュナミス』と呼ばれる所以。
ようやく組み替え作業も終わりに差し掛かった時、後方からアオイのずけずけとした不謹慎な物言いが聞こえてきた。
「あ〜ちょっとぉ、まだ終わってなかったの? 私にめんどい仕事押し付けておいて自分はサボり?」
「サボりって……作業内容はな、こっちの方が難儀だっての。そういう自分は任された仕事はしっかり全うしたのか?」
「ふふん、当たり前じゃない。はい、第3管下から貰ってきたわよ? えっと、これはGVR−0019ベクターライフルって言うらしいよ。破壊力はレールガンには劣るけど、え〜小型のリニアモーターパックを内蔵していて、専用のウイルス弾を使用するんだって。……どうよ? まぁ私の女性の魅力にかかればこれくらい余裕ね」
自慢げに胸を張るアオイだが、その性格とショートヘアに年中ヴィンテージジーンズというボーイッシュな風貌のどこに魅力があるのかは大分疑問が残る。
アオイが差し出したベクターライフルをグラウは受け取りながら、
「なるほど、さすがは第3管下。で、その専用の弾丸は? しかも1丁だけ?」
「えっとぉ、残念ながらまだ試作段階だから、これしかあげられないとの事なのでこれだけなんですぅ〜」
「…………」
二の句が継げない。受け取ったライフルをそのままアオイに投げ返した。胸を張れる気が知れない。まぁ所詮アオイの魅力とはその程度だろう。納得。
「え? いらないの?」
不思議そうに首を傾げるアオイ。
「試作型のモニターをするつもりは無い。しかもこれだけで使えるか馬鹿野郎」
「え〜せっかく貰ってきたのにぃ」
何やらぶつぶつと独り言を漏らすアオイだったが、いつも通り馬鹿はそのまま捨て置き、再び作業に取り掛かる。MTSの組み替え作業は大して手間取る事なく進み−−
「さて、と。とりあえずMTSはこれで終わりだな。次はAIFか」
「それが本当に必要な状況になると思う?」
組み替えが終わったMTSのデータを再確認しながら、シレーヌは言った。
「ガヴリアはそうなる前にどうにかしたいみたいだけど、どうなるかな」
「でも、こういう事態は少なからず予測できたはずよ。認識が甘かったと責められても致し方ない状況よね」
「手厳しいお言葉だな」
「世間はもっと厳しいわよ。ジオ社の価値が下がる可能性もあるわ」
「目的は、ジオ社を貶める事ってわけじゃないだろうけど……ガヴリアは社の価値とかを優先するような利己主義じゃないからなぁ」
「それこそ楽観的過ぎる」
「そうだろうけどさ」
事勿れ主義で生きていけるほど穏やかな世界ならば、人は争うような無益な事はしないだろう。残念ながら、今も昔もそんな生易しい世界ではない。
「やっぱり……必要になるだろうな。これも、エリファの力も」
「2年前から続く、アニマの“仕組んだ”シナリオだとは思いたくないわね」
「勘弁してくれ。それじゃエリファがいつになっても救われないよ」
しかし−−
(今のままではどのみち)
十分な手立てを講じておくに越したことはない。
AIF−−『対干渉還元制御』は、異種の強制干渉に対処する為のデータモジュールで、アニマへの唯一の対抗手段でもあった。
「今の俺がエリファにやってあげられるのはこれくらいだ」
AIFのデータをインストールしながら、歯痒さに溜め息が漏れる。“また”自分は何も出来ないかもしれない。いや、そもそも、最悪の事態などなければそれで済むことだが……
−−胸が騒ぐ。
それは勘ではなく、言い知れぬ実感だった。
「……ようやく電力が戻ったようだな」
男はそう呟くと、目の前の電子扉を開け放った。瞬間、長い間密閉されていた質の悪い空気が、頬を不快に撫でる。
カスミはうなだれていた首を起こし、暗闇へと向けた。ネウロンのブラックチェンバー(機密室)内部には、小さな光がぽつぽつと点り始めている。そして−−10秒もしないうちに、ドーム型の中枢部は眩しい程に照らし出された。
天井からは無数のパイプやケーブルが血管のように壁を伝い、緩やかなスロープに囲まれた中心にある物々しい機械へと繋がっていた。更にNBMアセンブラー槽に似たシリンダーが2本、その機械を中心に並んでいる。
今、シリンダーの外壁は閉ざされていて内部は見えないが、その一方のシリンダーにアニマは“いた”。
「あれがそうなのか?」
「……えぇ」
男の問い掛けに、カスミは半ば上の空で答えた。脳裏では違う思考が巡っている。それは、自分の安否。アニマの存在。アニマを欲する者の事。
男の言葉に惑わされたのかは分からないが、その答えはアニマが握っているようにも思えた。
(あれは……ただの棺じゃない)
その心の呟きは納得して出たものではない。不安を拭えないのは確かだった。
(見れば分かることよ。この目で)
カスミは何とは無しに、ドームを見渡した。2年前と何も変わっていない。“あの日”のまま。違うのは、ここにエリファがいない事だけ。
カスミは中心部に焦点を合わせ長嘆した。
と、丁度スロープに差し掛かったところで、男は問い掛けてきた。
「このドームの正式名称を知ってるか?」
その質問に何らかの意図があるとは到底思えず、カスミはさりげなくはぐらかした。
「さぁ、知らないわ」
男はさもありなんと、得意げに言ってくる。
「だろうな。今となっては知っているのは恐らく俺だけだろうな。いや……私か?」
不可解な言動にカスミは訝る視線を向けた。だが、男は構わず続けてくる。
「デウス・エキス・マキナ。それが名だ」
それが正式名称だというのは確かに初耳だった。しかし、その言葉は聞き覚えがある。そう、それは確か−−
「……機械仕掛けの神、だったかしら?」
男が僅かに瞠目する。
その仕種を見て、正答なのだとカスミは確信した。
「見掛けによらず、なかなか博識のようだな」
「ただの生兵法よ」
「謙遜は有為な人間の証でもある」
淡々と語る男の真意は、相変わらず理解し難い。しかもそれは、このドームに来てから酷くなった気もする。
(思い過ごし……でもないわよね、明らかに変よ)
何かに誘われるかのように歩く男に急かされながら、緩やかなスロープを徐々に下っていく。もう中心部まで50メートルもない。
思った程の静寂ではないと今更ながら気付いたが、それでもやはり男の語りは否応なく聞こえてくる。
「人間という生き物は、自分達の常識より優れた能力を持つ存在を尊び、敬う。そして概念を超越した存在を崇めようとする。それは人間の本能に紡がれた性だ」
聞き流せばいいだけの事だが、男の高慢さがあまりにも腹立たしく、小首を傾げて抗言した。
「どうかしら? 人間は恐怖もするはずよ」
ハイブリッドやキメラがそうであったように。それらは実際、恐怖の対象とされた。今ではハイブリッドの理解は広がってきているが、キメラが忌み嫌われている事は変わっていない。この男のそういった揺るぎない自尊心の塊であることこそ人間の性だ。そう思えてならなかった。
「なるほど。だが、それは認めざる者の戯言だとは思わないか?」
「何が言いたいのかさっぱり分からないわ」
愚痴るように言ってかぶりを振る。が、男は何も言わない。全てを察してみろと言わんばかりの眼差しは、身震いしそうな悪寒となって首筋を粟立たせた。
男が不意に足を止める。理由は一つしかない。カスミは仰ぎ見た。
2本のバイオシリンダー。その狭間にそびえるメガロインターフェースシステム。それは見方によっては、妖艶な翼を広げた悪魔のように見えなくもない。
「さぁ、ようやく出番だ所長。解除コードを打ち込んでもらおうか」
「あら、情報とはその程度の物じゃなかったかしら」
「これは固有情報で識別するセキュリティだからお前にしか出来ないはずだろ」
「あら、固有情報だって立派な情報じゃない」
横目に鼻で笑ってから、カスミはコントロールパネルの前に立った。
静脈、指紋、声紋、網膜。個々の照合を済ませ、解除コードを入力していく。
「…………。さぁ、後はボタン1つで解除できるわ」
言いながら踵を返し、
「でも、一言言わせてもらうけど、多分徒労に終わるわよ?」
「根拠はあるのか?」
「えぇ」
カスミは断言した。
が−−
「それがお前のアンチテーゼか? どうやらお前も認めざる者のようだな、カスミ・イーリス」
男の回りくどい言い草に、業を煮やす。
「だったら見ればいいわ、その目で! 節穴じゃないんでしょうから!」
握り締めた右手を勢いよくコントロールパネルに叩き付けた。ほぼ同時に、軋るような音を響かせ、外壁シャッターが開き始める。
やがて、男は悠然と目を伏せると意味深な笑みを浮かべた。その笑みの意味など理解できるはずがない。が、言い知れぬプレッシャーは確かにあった。
それが杞憂であれと願いつつ、視線を流す。
(そうよ。この目で確かめるんでしょ?)
淡い白緑の光を放つ2本のバイオシリンダーが視界に入る。その右側のシリンダーには、2年前、エリファの干渉がNBMの暴走を誘発した事によって“尽き果てた”アニマの遺物が浮いている。もはや人であった面影は無いに等しい。骨格らしき物が辛うじて残っている程度だろうか。
(……あの日のまま)
思わず安堵の溜め息が漏れる。
「なるほど。これがお前の自信か」
「えぇそうよ。こんな物に価値なんて無いでしょ?」
「……価値、か」
笑みはそのままに男が呟く。そしてアニマのシリンダーの前へ立つと、おもむろに右手をかざした。
「アニマとはシュロム・マウアーそのものだと思われているが、少しばかり違う。分かりやすく言えば『精神情報組織』と呼ばれる1つのハードウェアのような物だ。そう、価値とは必ずしも目に見えるものではない。……まぁ、固有情報すらもアニマには単なる情報に過ぎない事は確かだが」
妙に饒舌になった男に訝る視線を向け、
「なら、何故私を!?」
「歴史的な立ち合い人になってもらおうかと思ってな。光栄な事だぞ?」
嘲りとしか思えない男の返答は謎解きに近い。溢れ出す疑問は、意識を困惑へと突き落とした。
「何を……言ってるの?」
「“私が”還る。ただそれだけの事だ」
と−−
突如、ドームにメガロインターフェースの起動音が響き渡った。同時にかざしていた男の右腕が共鳴するように震え出す。その状態はまるで男の“力”が作用しているようにも見える。そして、やがてはシリンダー自体も激しく揺らぎ始めた。
「確かこのバイオシリンダーにはNBMアセンブラーの機能もあったはずだな?」
その問い掛けが自分自身に向けられたものかどうか定かではなかったが、そもそも今の状況でそれはさして重要ではなく、男も答えを期待していなかったらしい。恍惚とした表情で、意志を注ぐように右手かざし続けている。
男の語る価値とは何かを考える暇も無いまま時間は過ぎ−−わずか数秒だったかもしれないが−−目の前で起こり始めた事象に、カスミは思わず息を呑み、我が目を疑った。
−−有り得ない事は起こるもの。
男の言葉が反芻される。
目の前には、有り得ない−−あってはならない事が起きている。それは、紛れも無い現実。
「そんな……嘘でしょ」
体の震えが止まらない。それは恐怖感が原因ではなく、まして寒さなどでもない。
意識が事象を拒絶している。
必死に震えを抑えようと両手を胸に抱え込むが、さほど効果は無い。視線を外そうにも、凍り付いたように瞬きすらままならない。
それでも、カスミははっきりと認めた。
(……アニマの再生)
原型を留めていなかったアニマの身体が、かつての形を取り戻そうとしている。夥しいNBMによって、骨格、神経、筋肉、皮膚が形成されていく。それは明らかに本来あるべきハイブリッドの範疇を逸している。
「あなたは、いったい」
刹那。
メガロインターフェースのノイズが消え、男は突然膝から崩れ落ちた。まるで糸の切れた傀儡のように。
カスミは一瞬呆気にとられたが、もはやその事由など考えるまでもなかった。
「……悪夢だわ」
舌打ちして言いやる。
が、シリンダー内で漂うアニマは高揚を隠さず、ほくそ笑んだ。