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辛苦領域

 エリファは、朧げに映る風景、焦点の定まっていない視界を正そうとはしなかった。正したところで、瞳に映る景観はなんというものでもない。

 完全でもなく不完全でもなく、この上なく曖昧な虚構。

 自分が人の概念を超越した観念、夢想ならば、自分は何を想い何を望めばいいのか。自分が切に願い、儚い想いを焦がし、夢に抱けば、それが顕現けんげんされる現実があるのだろうか。

(だけど、今の私にはもう関係ない。“あの男”とはもう)

 むしろ−−今、自分自身に望むこと。希求することがあるはず。

 胸につかえて取れない悲愴感に苛まれることを、月日を費やすことで霧散できると思い込むのは愚行だろう。

(だけど、私は自分を癒す術なんて知らない。望める純粋な心なんて……私には無い)

 希望的観測に思いを馳せようとすることすら苦痛になり、エリファは小さくかぶりを振った。

(グラウが望んでくれているなら……それだけでいい。それは諦観でも、妥協でもない。それが私の意志)

 そこはかとなく感じる利己の意志と、一縷いちるの希望にエリファは安堵した。

 その時−−いや、少し前からのような気もしたが深くは考えず−−何とは無しに耳についた呼び声で我に返った。

 それは、今1番聞きたくない不快な声だった。

 深く溜め息をついて見せて、とがめる視線を声の主に向ける。

「……何よ、ゼーン」

「やっと気付いたか。何度呼んだと思ってんだよ。……あっ、まさかわざと無視してたんじゃないだろうな?」

 大袈裟にむくれるゼーンをそのまま睨み据えて、言いやる。

「故意じゃなかったにしても、私は別に用は無いもの」

 ゼーンは苦悩するように頭を抱えてから重々しく口を開く。

「あ、あのなぁ、その血も涙もない態度はどうにかしろよ」

 逆に咎められたことを不満に思いながらもエリファは渋々本題に話を戻した。とはいえ、ゼーンがまともな用件を切り出すとは思わなかったが。

「用件は何?」

 折れたのがよほど嬉しかったのか、ゼーンは満足げに目を細めて言ってくる。

「初めからそう素直になればいいのに。まぁいいや、あのさ、グラウはどこにいるか知ってるか?」

 分かってはいた。所詮その程度の用件だということは。その程度の用件で貴重な沈潜ちんせんに水を差されたのだ。そんな落胆が表情に出てしまったのか、ゼーンは慌てて続ける。

「あ、今やっぱりそんな事か、とか思っただろ?」

「当たり前じゃない。私はグラウのマネージャーじゃないもの。逐一報告できるわけないでしょ」

「そりゃそうだけどさ。心当たりもないか?」

「んん……この後、総裁室に行くつもりらしいから何か準備してるのかも」

「そっかぁ、もうお昼だしランチでも食べに行こうかって話だったんだけどさ」

 ゼーンの語り途中、ラボに戻って来たアオイが話に加わり、

「何だ、もしかしてグラウまだ行ってなかったの?」

「あ、そうだよ。総裁を待たせるとは何事か! 俺は“お惣菜”(そうざい)を待たせたりはしないよ〜フフフ。待ってろよ、お惣菜達♪」

 ゼーンがもたらした一瞬の沈黙。それは宇宙の静寂を思わせる−−程ではなかったが、エリファはまるで重りのついた足枷あしかせを引きずるような心地で口を開いた。侮蔑を込めて。

「哀れね。……キャラとネタで相殺そうさいしてるわ」

「なぼっ!」

 見えないボディブローにゼーンが卒倒する。リアクション自体は悪くないが、正直月並みだ。

「や、やるわねエリファ。……さぁゼーン、気の毒だけど負け犬は大人しく去りましょう」

 依然白目をいて卒倒しているゼーンの片腕を持ち上げ、ズルズルと引きずり、

「ま、今日は仕方ないわね。他の面子めんつと昼食に行って来るわ。グラウとのデート楽しんでらっしゃい」

 意味深ににやけながらアオイはゼーンとラボを出て行く。

「……デートって、何?」

 ラボの自動扉に引っ掛かったゼーンの片足が乱暴に引き抜かれていった事よりもアオイの言い残した言葉を怪訝に思っていると、アオイ達と入れ違いでグラウの姿が目に入った。グラウは右眉を吊り上げながら、聞いてくる。

「何かあったのか?」

 アオイに何かを聞いたとは思えないが、エリファは妙に疲れた気力を振り絞り、憂鬱に言った。

「互いに差し引いて損得なしにすることの教訓よ」

「……はぁ?」

 その困惑した表情はどこか可笑しく、エリファは心中で笑った。



「はははっ、なるほどね。そういうことか」

 総裁室へ向かうエレベーターの中。今し方あったゼーンとの事の顛末てんまつを話すと、グラウは朗らかに笑った。

 エリファはそれを横目に、エレベーターに備え付けの鏡の前で淡いベージュの髪を結わえ直していた。それが特別お洒落というわけではない。ハイブリッドの髪の毛は伸びる事はない為、髪形などの個性など皆無に等しい。化粧すらしていない顔はやや幼く見えるが、ハイブリッドとして鋭く研ぎ澄まされた勿忘草わすれなぐさ色の瞳はそれを十分過ぎるほど補っていた。

 エリファは束ねた毛先を適当に整えてから、グラウに視線を戻した。

 −−まだ笑っている。

 その話が面白いのかどうかはともかくとして、グラウが笑ってくれたこと自体に、充実感のようなものがある気がする。

(嬉しいの、私?)

 だが、エリファはとりあえずその不可解な感情は棚上げにした。

「そんなに可笑しい?」

「あぁ、ゼーンは相変わらずだけど、まさかお前がそこまで言うとはなぁ」

 そしてグラウはまたくつくつと笑い出す。

(……馬鹿にされてるのかしら)

 と、その寸感は今度はグラウが棚上げにした。ふいと真顔になったグラウは諭すように言ってくる。

「感情的になることは今のエリファにとって必要な事だ。例えそれが皮肉だとしてもね」

 その言葉が勝手に胸奥で反芻はんすうされる。エリファは抗言したい衝動にかられたが、それを必死で押し殺して唐突な問いをぶつけた。いや、その問いも抗言と差異はない気もしたが。

「グラウは……私に何を望むの?」

唐突な問いにもかかわらず、グラウの顔色は変わらなかった。むしろ、この問いを待っていたかのようにも見える。

「うん。その感性はいいと思うよエリファ。だけど一つ肝に銘じておくといいよ。“知る”と“理解する”とは大きく違う。知る事は割合容易にできるけど、それを理解するにはもっと利他を重んじなきゃいけない。……まだエリファには難しいかもしれないけどな」

到底それが答えには聞こえなかった。半歩グラウに詰め寄り、エリファは視線だけで再び答えを仰いだ。

「まずは自分がどう意識するかだ。歪んだ固定観念は、心のキャパシティを乏しくさせるだけだからな。それをエゴとも言うかな」

胸が疼く。まるで膿が溜まった傷口から搾り出すように。それはできることなら触れたくない闇。忌ま忌ましい記憶と共に、心の深奥から込み上げる憤り。それに抗いもせず、エリファは情動を爆ぜた。声を振り立てる。

「今更、人を知って理解しろとでも言うの? 私は……私はグラウを信じるだけじゃ駄目なの!?」

 グラウは天を仰ぎ見てから、静かに目を閉じてかぶりを振った。

 否定だけはされたくなかった。生きることに理由付けが必要なら、今の自分にはそれしかない。

 グラウは視線をそのままに、慈愛に満ちているようで、自虐的で悲愴感すら漂わせた面持ちで、囁いた。

「エリファ。……俺も、人間なんだよ」

その一言は、滑稽だと思う外なかった。



それから、エリファは一言も口を利かなかった。言わずもがな、話し掛けられる状態でもない。

2年前。絶望の淵に沈んでいた時と同じ色の瞳。

滞った思考の表象。波紋の囁きすら聞こえそうな水面を思わせる悄然とした瞳。それは触れてはいけない心の深奥なのかもしれない。

 2年前。ある実験の最中、エリファは主観的にも客観的にも堪え難い精神の苦痛を強いられていた。

 抗う術すら分からず、抗う事すらできず、抗う意志すら見出だせず。ただただ蝕まれた心は、歪曲し脆く崩れ去った。

 それから半年間。エリファの口から声が出ることは一度もなかった。話し声や笑い声。嘆声や泣き声すらも。

 その時の彼女の胸中は推し量ることすら困難だった。いや、もしかしたら、知る事に怖じ恐れていただけなのかもしれない。

 −−卑怯者。

 それは、人の浅ましい怠惰。

 わずか数分前、自分がエリファに投げ掛けた言葉を反芻する。

(最低だな、俺は。……結局自分の逃げ口上をエリファに押し付けただけじゃないか)

 グラウは自分を罵り、嘆声を漏らした。

 気付くと、いつの間にかエレベーターは総裁室前のフロアに着いていた。



 総裁室に入るには、特別面倒ということはなかった。常連のエンジニアなどそう多くはない。馴染みの警備員だから顔パスでも済むが一応名目上のボディチェックは受けて、会釈のついでにIDを見せれば事足りる。

 エリファ等ハイブリッドならばボディチェックすら必要ない。もとよりハイブリッドは“安全だと思われている”のだから。

(まぁ、否定はしないけどな)

 そう独りごちてから、グラウは総裁室の扉を押し開けた。すぐに広々とした−−いつ見ても無意味に広い−−総裁室が視界一杯に飛び込む。

 総裁室は、扇を開いたような末広がりの形をしていて、弓形になる部分は全てガラス張りになっている。今日の天候も相まって、外からは惜しみなく陽光が照り込んでいた。

 総裁室のほぼ中央には肩を寄せ合うように、紫檀したんの机とソファ。その脇には何列かの書棚とこじんまりとしたバーカウンターがいつもと変わらずあった。そしていつものように、紫檀の机の向こう側にある黒い革製の椅子には、一人の男が座っている。

 肩より伸ばした黄金色の髪はきれいに束ね、胸側に垂らした眉目秀麗びもくしゅうれいの男。

 それは間違いなく、友であり、ジオ社を治める英邁えいまいな総裁。ガヴリア・フォルストだった。

「今日は、姫もご一緒かい?」

 機嫌よくそう言ってきたガヴリアに、グラウは慌てて苦笑した。

「ま、まぁな」

 歯切れの悪い言動を疑問に思ったのか、ガヴリアは訝る視線を向けてきた。それから逃れるように、グラウはそそくさとソファに腰を落ち着かせた。視界の隅には、エリファも座るのが見えた。

 グラウは人知れず、安堵の溜め息を漏らしたが、さすがに気鬱な気分までは払拭できなかった。少しでも気が紛れればと、目の前の男に投げ掛ける言葉を探し−−

「さってと、早速だけど用件を聞こうか?」

 何の捻りもなく出てしまった言葉は我ながら情けない。お陰でガヴリアは戸惑いを見せたが、直ぐに表情を引き締めた。

「最近のリベラルの動向は勿論知ってるな?」

「そりゃあな」

 もちろん嫌というほど知っている。本職のハイブリッドエンジニアを疎かにしてまで、そちらの対応に追われている始末だ。

 リベラルはその名称こそ違えど、実態は終戦と共に解体した反連合政府同盟アウガルそのものであった。悪しき元凶であり、テロリズムの温床でもある。キメラを使役し、世界を脅かす存在は決して許されるものではない。

「ならば話は早い。無理は承知のつもりだが、HCTの発足を前倒ししたい」

 ある程度予想していたガヴリアの発言にグラウは頭を抱えた。

「責任感の強いお前がそう考えるのは当然だろうな。だが現段階での発足は時期尚早だ。第一俺の手に負えるレベルじゃあなくなる」

「MTS適合者の選定はすでに終わっている。それにグラウ、これは一介のエンジニアに話すのとは訳が違うんだ」

「おだてたって豚は木に登らないよ。……なぁ、HCTの目的は発足させることじゃないだろ。それに発足はリベラルへの牽制や挑発に繋がる。対抗もしくは抑止力になるだけの力を蓄えてからじゃないと、焦ったところで不安要素が増えるだけだ。お前らしくないぞ?」

 諭したところで、相手が考え直すはずもない事は察しが付いている。だがガヴリアの私案を簡単に飲み込むわけにはいかない。

「……らしくない、か。まさかグラウに諭されるとは」

「今度は心外な言いようだな、おい」

「私だってさっきまではグラウと同じ考えだったさ。だが、焦りたくもなる事象が発生してしまったんだ。グラウも知れば考えが変わるかもしれない」

「?……何を……言って」

 ガヴリアの瞳が恐ろしい程の眼光を放つ。それはHCTの発足を前倒しさせるための脅しなどではないことは容易に推測できた。何かが、ガヴリアを追い詰めている。

 そして、その推測は的中した。

「ついさっき、ネウロンが何者かによって占拠された」



 目覚めが憂鬱だと思ったことは多々あったが、恐怖が付き纏うなど今まで一度たりともなかった。まして、傍らに銃を持った男がいて、手足を縛られた状況など経験があるはずもなく、そんな趣味の所員の知り合いも−−多分いない。つまり恐らく見張りであろうその男は、所員を殺した本人か仲間ということになる。 医務室のベッドの上。カスミは気付かれないように辺りを見回した。

(いつの間にここに?)

 所員が殺されたのを見てしまった後の記憶がない。

(……私、気を失って)

 ふと、カスミは静かに溜め息をついた。いっそ目を覚まさない方が楽だったかもしれない。この状況で自分が助かる可能性は低いと心の隅で認めてしまい、更に恐怖が増していく。

 だが−−

(でも、こうして拘束してまで生かす理由が私にはまだあるの?)

 施設はすでに占拠されていると考えて間違いない。何者かは分からないが、この施設を占拠する理由など、思い当たるふしは一つしかなかった。

(なら、私が生き残る方法も一つしかない)

 その考えが浅はかであったとしても、僅かな希望にはなった。今は大人しく待つしかない。助けが来る事を。

 自由を奪われ、痺れ始めた手足を庇いながら、カスミは改めて辺りを見回した。不審者が一人落ち着かない挙動で動き回っている事以外、室内に特に変わった様子はない。その男は、無線でひとしきり会話をした後、突然声を荒らげた。

「もうハイブリッドが!? ちっ、ジオの警備隊か。さすがに対応が早いじゃないか」

 その言葉を聞いて、自然と期待に胸が踊る。

(警備隊が来てくれた!?)

 ジオ社と軌道エレベーターに常置された警備隊。それはハイブリッドのみで編成され、信頼性は極めて高かった。ハイブリッドといえば、対キメラにおいてのプロフェッショナルだが、当然ながら、あらゆる不測の事態に対応できる能力は人間より勝っている。

 特に、ハイブリッドが具有する特殊能力『干渉インターフェース』は有効といえた。

 干渉インターフェースとは、ハイブリッドに汎用されている脳内神経分子デバイスで、活動電位インパルス−−電気信号として伝わる情報−−を、独自の情報へ変換し、デバイス自体をシナプスとするマンマシンシステムで行うものである。それを駆使すれば、キメラや人間の位置を突き止めることも容易だった。

 もっとも、占拠した敵対者が対抗手段を用意していたとしても不思議はない。が、それでも、胸が膨らむのは抑えられなかった。

(きっと助かる)

 まるで恋い焦がれる彼氏を待つ心地で、カスミは再び祈るように瞳を閉じた。



「ネ、ネウロンが占拠された!?」

 ガヴリアの言葉に、グラウは不覚にも跳び上がってしまった。僅かに眉をひそめただけで動揺などおくびにも出していないガヴリアの前ではあまりにばつが悪い。

「まぁ落ち着いてくれ」

「あ、あぁ……で、状況は?」

 腰を下ろしつつ、尋ねる。

「あまりかんばしくないよ。宇宙ステーションへの侵入は擬装の識別コードであっさりとクリア。これはこちらの判断ミスだから仕方ない。即応して、統制本部でエームズ指揮の元、警備隊が動いてくれたが……」

「が?」

「未確認ではあるが、キメラとおぼしき反応があったらしい」

 ガヴリアの眼光が再び鋭くなる。懸念されていた事態。彼を追い詰める要因。

「まさか、リベラル?」

 ガヴリアが静かに頷く。

「もしキメラが関与しているのであれば恐らく間違いない」

「……なるほどな。さすがのお前でも焦るわけか」

 グラウは頭を抱えた。事態の深刻さをそう簡単に受け入れられそうもない。そして、今自分に対してガヴリアが望む事はあまりに重過ぎる。

 ひとまず、今は現状を知る事が先決だ。

「先行した警備隊の人数は?」

「15名。適合者のシュウとミリアにはMTSの装着命令。他のハイブリッドに関しては制限付きだがレールガンを許可した」

「内部でレールガンの使用許可とは……穏やかじゃないな」

「リベラルを見くびっていたわけではないが、今はそういう状況だ。ネウロンはなんとしても奪回しなければ」

「……俺は、何をすればいい?」

 あえて問う。

「“君達”の力を貸してほしい」

 分かり切っていた答えでも、純粋かつ真摯しんしに、ガヴリアの言葉は偽りとは無縁に聞こえる。

 しかし、グラウは素直に頷けなかった。

「仮にリベラルだとして、やはり狙いはアニマ−−」

 思わず口ごもる。グラウは咄嗟に視線をエリファに移した。勘繰り過ぎたわけではないが、不可避の胸騒ぎがそれを余儀なくした。

 表情からは伺えない心の奥底。それは動揺なのだろうか。そっと握ったエリファの手は、小刻みに震えていた。



 軌道エレベーター内部での戦闘。それは想定されていた非常事態の一つとはいえ、前代未聞であるという事実に変わりはなかった。故にあらゆる可能性を懸念しつつ、対処しなければいけない。統制本部はその緊迫した空気が張り詰めていた。

「宇宙ステーション第3ゲートの被害状況は!?」

「ネウロンのコントロールプログラムへのハッキング依然継続中。26分後にはイニシアチブ完全に奪われます!」

「プロテクトをフェーズCに移行しろ!」

「第12ゲートにキメラの生体反応更に増加!」

「セクション2で警備隊の交戦を確認!」

 飛び交う大声。加えて、統制本部の800インチ液晶画面には、とめどなくデータが表示されていく。それら全てを頭にいれつつ、エームズは打開策を模索していた。

(ネウロンを奪取したところで、それだけでは意味がない。いったい何が目的なんだ?)

 聞き知る情報だけでそれを察知するのは不可能に近い。最悪の事態を未然に防ぐ手立てを考えなければ。

 エームズはインカムを耳に付け、無線を繋いだ。

「シュウ、そちらの状況を教えてくれ」

 交戦中だと分かる確然たる音が耳に付くが、警備隊の隊長シュウからの応答は意外にも明瞭めいりょうで早かった。

『現在、先陣を援護しながらセクション2のエントランスで交戦中です』

「戦況は?」

『最悪……とは言いませんが、正直言いたい気分です。誰かキメラにここが宇宙ステーションの内部だと教えてくれませんか?』

 厳しい言葉とは裏腹に、シュウの口調は談笑しているようだった。ハイブリッドだからこその余裕だと思えば理解できなくもないだろうが−−

「苦戦を強いられているようだな」

『僕らは手加減を余儀なくされていますからね。それに、相手には武装した人間までいます。これは情報に無かった。今の装備では殺傷能力が高過ぎる』

「対処は難しいか?」

『僕らは人殺しにはなりたくないし、するつもりもない。すでにこっちには負傷者もいます。一時撤退を考えてもらえませんか』

「……敵に猶予を与えるわけにはいかない」

 が、ふと気付く。それは至極真っ当な意見のつもりだったが、見下していると思われても反論の余地は無い。

「いや、善処しよう。それまで、何とか一矢報いてくれ」

『期待せずに、頼ります』

「信用ないか?」

『善処とは、そんなもんだと。では、もう一頑張りします!』

 通信が切られた。もしかして見下されているのは自分か? 当てこすられて平気でいられる程プライドは失っていないつもりだが。

(いや、計算か?)

 フッと漏れた笑みをそのままに、エームズは通信を総裁室へと繋いだ。



 悶々とした心象。それは朧げながらも絶望そのものだった。

 エリファは振り返す咳をこらえるように、左手を胸元に押さえ付けた。

 −−アニマ。

 その名を忘れるはずがない。忘れることすらできない。永遠の木霊こだま。必然の呪縛。

(私に、人の醜怪しゅうかいな潜在意識を突き付けた男。悪夢の元凶)

 2年前。ネウロンで大掛かりな干渉実験を行う為に、アニマと共に居た。その実験は、ハイブリッドの干渉インターフェースを更に広域で強力な干渉波へと増幅させることを目的としたものだった。

 しかし、実験は難航した。度重なる失敗により時間は無駄に過ぎ、疲弊によっていつしか生きる気力すらも失せる程になっていた。

 それでも尚、実験は強行され続け−−

 そんなある日、アニマはおもむろに言った。

『真に憎むべきは誰か。お前にはそれが分かるはずだ』

 それは、甘いいざないの囁きだった。

 心が揺れ動くのを確かに感じた。が、同時に言い知れぬ恐怖を感じ、抗弁もせず頑なに拒絶した。いや、正確には、それしかできなかった。

 もちろん、アニマにとっては抵抗ですらなかっただろう。アニマは不敵に笑い、溜め息混じりに言ってきた。

『なら知ればいい。真に憎むべき者、忌むべき存在を。……お前が望めば、顕現される現実がある』

もはやそれは恫喝に似た物言いだった。青藍せいらんの瞳に渦巻く心の表象。それは紛れも無く漆黒の闇だった。


 何がきっかけというわけではないが、エリファは辛い記憶を思い返すのを止め、悠遠な太古から届いているようなグラウの呼び声に耳を傾けた。

「エリファ……大丈夫か?」

「……だ、大丈夫よ」

 心なしか青ざめているように見えるグラウの顔が間近に見えて、エリファは慌てて顔を背けた。ふと見回すと、そこはエレベーターの中。

「戻るの?」

 素朴な疑問をぶつけると、グラウは肩をすくめ、苦笑しながら、

「おいおい、どこから覚えてないんだ?」

「いつ総裁室を出たのか分からない」

 エリファは小さくかぶりを振った。

 鮮明に思い出せるのは今し方の記憶ではなく、むしろ昔の記憶だった。それは比重の度合いによる峻別しゅんべつなのだろうか。

 だが、その自問に答えを見つけ出す前に、エリファはグラウに視線を戻した。

「ねぇグラウ、一つ聞いてもいい?」

「ん、どした?」

 グラウはエレベーターに備え付けのベンチに腰を下ろすと、視線はこちらに向けたまま頬杖をついた。

「さっきグラウが私に言ったこと。あれは、その……もしかしたら、今はまだ無理かもしれない。それで……もし、それが……真っ当でないなら、私は」

 上手く言葉が続かず、思わず口ごもる。視線もいつの間にか自分の足元に向いていた。

「気負い過ぎなんじゃないか? 俺は今のエリファが真っ当じゃないなんて一言も言ってないぞ?」

「でもあれがグラウの望みなら……」

 グラウは頬杖をやめてかぶりを振った。大きく、長く。

「だから、気負い過ぎだってば。俺はエリファに抽象的な正しさを求めたわけじゃない」

 その口調は、限りない寛容を思わせる程に穏やかだった。

「所詮、正しさなんて、主観的価値判断にすぎない事なんだよ。道徳、倫理、真理、正義……それら道義道理全てを得る事だって、人間にはできやしない。凡庸だからこそ、利他を重んじて生きていかなきゃいけないんだ。……まぁ現実、それすらできない人間がいるから、争いが絶えないんだよな」

 息が続かなくなったのか、自分を落ち着かせる為なのか、グラウは大きく深呼吸した。そして再び言い出す。

「ハイブリッドは、そんな人間が起こした戦争の残片だ。そして今でもキメラに対抗する力を求めている。だけどその一方では正反対とも言える意図の力をハイブリッドには望んでいる。特にエリファにはね。お前の力があれば人間が変われるかもしれない。……情けないよな。でも、それが人間なんだよ」

 うなだれそうになったグラウに、エリファは優しく囁いた。

「グラウ“は”……違うよ」

 気休めでもあり、慰めでもあり、真実でもあった。とにかく、グラウが悲しむ姿を今は見たくなかった。

「そうか? ならお前のお陰かもしれないな」

 照れ臭そうに笑ったグラウを見て安堵を覚える。それは嬉しい事なのだと、エリファはひそかに認めた。

「……嬉しいよ」

 自然と出たその言葉は、はっきりと心地よかった。

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