悪意の胎動
天井が、世界が回った。
同時に心地よさすら感じる浮遊感が全身を包む。が、次の瞬間には右半身を激しい衝撃が襲った。
朦朧とした意識でかろうじて受け身をとったつもりだったが、僅かに遅れていた。
(一瞬気を失っていた!?)
何が自分の身に起きたのか分からない数秒に困惑する思考回路。ただ一つ明確だったのは忌まわしい記憶が意識の片隅を吹き抜けた不快感。
「くっ!」
滲み出る苛立ちを吐き捨てたい衝動にかられたが、今はそれどころではない。
横倒しになったままの体勢から下半身だけを捻り上げ、両足を回転させた反動でエリファは跳ね起きた。
廃墟となった研究施設。明滅する切れかけた照明は、萎びた観葉植物や得体の知れないボンベや機材が散乱した通路を殺風景に映し出している。
そして、目の前には−−人ではない、人知からはみ出した存在、異形の生物がいた。
イボガエルのような無数の小さな突起物に覆われた褐色の皮膚、上半身だけが極度に発達した二足歩行の生物。
『キメラ・オーガ』と呼ばれるそれは、飢えた獣のような唸り声を発した。
「見下されたものね」
自分の未熟さが招いた結果とはいえ、下級のキメラにダメージを負った不甲斐なさにまた苛立つ。
呟くが早いか、エリファは反撃に転じた。低い姿勢で間合いを詰めつつ、右の拳を褐色の皮膚に減り込ませた。鈍い感触が右手を伝う。オーガの左腕が本来有り得ない角度で曲がったまま、胸部へと突き刺さる。だがオーガは痛みを感じた素振りも無いまま、右腕を投じてくる。遠心力の勢いそのままに巨大な拳がエリファの身体を捉らえた。
「ぅぐっ!!」
息が上がっている。
吐く息に酸素が逃げているのではないかと勘繰る程、エリファは息苦しさに喘いだ。
思うに、施設内部の淀んだ空気からは十分な酸素を得られそうもない。が、理性で理解しても、本能はただ役目を果たそうと、ひたすら体内の呼吸器官を働かせる。だが止まるわけにはいかない。エリファは悲鳴をあげる体を強引に動かし続けた。
「しつこい」
つい漏れた呟きに後悔しながらも、再び拳を叩き付ける。折れていた腕が更に深く刺さり、オーガは倒れ伏していく。それを見届けてから、エリファは顔に付いた返り血を拭った。
思った以上に動いてくれない下半身。もつれる足を庇いながら、壁に背中を預ける。
「ハァハァ……少しはまともに動いて」
上がった息を抑えてまで自分の緩慢な怠さに叱咤する。休めば済む事だが、今は休む事を許される状況ではない。すでに新たなキメラが迫って来ている。
(反応2、オーガね)
力技でどうにかできる体力が残っていないのは明らかだった。エリファは透かさず左手首に装着したMTS(多機能戦闘用機構)を起動させた。
脳に酸素が行き届かず目の前が霞む。しかし気にする程度の事ではない。キメラの反応と距離が分かればそれで事足りる。
『STインストール。NBM(超微人工細胞素子)スタビライズLV3にシフト』
疲労感に有無を言わせず躍動する全身の細胞に任せて、エリファは神速で間合いを詰めた。捉らえた2体のオーガ。
『TTインストール。NBM/TML(組織変成制限)解除』
振り上げた左手からは直ぐさま空中電気との放電によって無数の稲妻が発生し、手首から先が長剣へと変化する。そして間髪入れず、左手の長剣を2体のオーガ目掛け斬りつけた。
紫電一閃。まばゆい閃光の中、創傷から砕けるように2体のキメラは消滅していく。
(もう、いないようね)
力無く折れる膝に抗わず再び壁に寄り掛かったエリファは、周囲にキメラの生体反応がないかを確かめた。反応は無い。インカムデバイスにも『Safety』の文字が浮かぶ。
「第4区画のオーガ掃討完了」
思わず溜め息を漏らし、左手を元の定形へと戻しつつインカムデバイスの無線を繋いだエリファは、抑揚なく呟いた。
『お疲れ! こちらでも今確認した。そのまま予定通り第6区画まで進行してくれ』
聞こえてきた男性の声。誰もが羨む美声−−というわけではないが、エリファにとっては心地よく、温情に満ちた声だった。
声の主の名は、グラウ−−グラウ・ユラナス。
「でもグラウ? この施設内部のホログラムデータ、僅かだけど相違点があるわ」
インカムデバイスのバイザー状ディスプレイに表示した立体映像。自分がいる場所を示す赤い光点は、あきらかに通路ではない場所で点滅していた。
『我慢してくれ。奴らだって馬鹿じゃないさ、正規のデータをリークするわけないだろ? 許容範囲だと思ってくれ』
「……でも」
と、抗言しようと言いかけたその時、通信に割り込む声があった。いや、わずかだが肉声でも聞こえてくる。
「あの、それはともかくとして、こんだけ大量のキメラ片付けて俺達報われるんですかね」
重苦しい緊張感の中で、彼の間延びした声は耳障りではないが異質に響く。
『後でチョコパフェ奢ってやる』
「チョコパフェかぁ」
やがて肉声は通信を掻き消し−−同じハイブリッドであるゼーンはどこか不満げな面持ちで暢気に現れた。
「ま、我慢しますよ」
グラウの本気かどうか察し難い提案とゼーンの投げやりな返答は理解に苦しむ物言いではあったが、不毛なやり取りで時間を無駄に消費するわけにはいかない。
「一応了解。このまま進行するわ」
気抜けしながらも不承不承頷き、エリファは一方的に通信を断った。
「……楽観的過ぎる」
かぶりを振って独りごちてから、ゼーンに視線を戻す。彼はまだ不満げに小首を傾げている。と、こちらの視線に気付いたのか、苦笑しながら言ってくる。
「で? どうすんのさ」
ゼーンの年端は−−確かめたことはないが−−自分と大差はないはずだった。人間の肉体年齢でいえば20歳前後だろう。シルバーグレーの髪が特徴の彼は、暗緑の瞳だけはしっかりと見据えてきていた。
「どうするって、予定通りでしょ? いい加減、ゼーンも頭を使う事を覚えたら?」
「俺はどっちかといやぁ行動派なんだよ。ただ、後60メートル付近まで接近してるケルベロスの反応に危惧する事くらいはできるぞ?」
胸を張り、どこと無く得意げに言うと勢いよくゼーンは駆け出した。
(当然でしょ。その為の私達なんだから)
口に出す気力も湧かず心中で毒づいたエリファは、ゼーンに追随しその方向へと足を向けた。
たいして広くない通路の先。明滅する役立たずの照明はまるでスローモーションのように敵の姿を映し出す。数は2体。
炎のような真紅の総身に銀色のたて髪を揺らして、約2メートルの巨体が床や両壁、天井を強靭な脚力と鋭い跳躍で弾丸の如く猛進してくる。
「まだ息上がってるんだろ? 俺に任せてくれていいんだぜ?」
そう言って意気揚々と駆けるゼーンだったが、エリファは胸部プロテクターの肩口から、残りエネルギーの少ない準指向性ビームナイフ−−シュナーベル−−を抜いてから事もなげに言いやる。
「待つのは嫌いなの」
「……言ってくれて」
最後に舌打ちらしき音も聞こえたが、それはケルベロスの虫酸が走る雄叫びにあっさりと消された。
エリファは右の一体をはたと睨み、そして肉薄。疾駆の勢いそのままに、ケルベロスは前足を振り下ろしてきた。だがそれを見切るのは容易い。問題は体が思い通りに動いてくれるかだった。
ケルベロスの前足をかい潜る為に身を屈ませ、踏ん張りのきかない両足に鞭打って素早く懐へ潜り込む。
この際恰好はどうでもいい。両足を目一杯伸ばし、シュナーベルの短い実体刃の先に形成させたビーム刃をケルベロスの喉元に刺し通した。そして振り斬る。
肉の焼き切れる音。同時に鼻をつく激臭が漂う。
慣れたくもない、慣れようはずもないその異臭に不快感すら覚えない自分を虚しく思いながら、エリファは踵を返して後方を見遣った。胴体が真っ二つに斬られ切断面からはあらゆる臓器を垂れ流しながら、ケルベロスはくずおれていく。
ふと見ると、もう一方のケルベロスも、同様に絶命していた。
「まぁ、ざっとこんなもんよ」
小鼻を蠢かしながら物言うゼーンはあえて無視して、エリファは再び踵を返した。エネルギーの切れてしまったシュナーベルを肩口に戻す。そして、呼吸を整えながら歩を進めた。
と−−
それを遮るかのように、ゼーンが顔を割り込ませてきた。
「何か機嫌悪い今日?」
「そう? いつもと変わらないけど、私もゼーンも」
エリファは答えながらも努めて視線は前を見据えた。
「ならいいけどさ。ま、グラウだけじゃなくて、たまには俺等にも頼ってくれよな」
「気が向いたらね」
「素直じゃねぇなぁ」
(……素直、か)
溜め息混じりに漏らすゼーンの気持ちは少なからず分かる気はした。時には欝陶しく感じるゼーンの楽観的な素直さは、本心から言えば羨ましくもあった。だが、
(……まだ)
胸の奥が突如疼き、エリファは息苦しさを覚えた。プロテクターの上から胸を押さえ、その痛みから逃れる為に思考を断ち切る。何も考えなければ何も思わない。何も思わなければ何も感じない。何も感じなければ、痛くはない。
幸いな事に珍しく沈黙していたゼーンだが、しばらくして待ちあぐねていたかのように口を開いた。
「お、こいつかな? 第6区画は」
気付くと、目の前には3メートル近い巨大な電子扉が立ち塞がった。堅牢な作りで、簡単に壊せるような代物には見えない。
「グラウ、着いたわ」
『了解……っと、こいつだな。これから解除コードを送信するから、ゼーン頼むぞ』
「あいよぉ」
生返事のゼーンは、インカムデバイスに受信された解除コードを見ながら、電子扉脇にあるパネルを操作し、ロックを解除する。
軋めきながら開いていく扉の忌まわしい雰囲気にエリファは我知らず息を詰めていた。
開かれた扉の先には、通路と大差ない−−むしろそれより暗いだろうか−−仄暗い空間が広がっていた。
中へと進む。そこには所狭しと計器類がならび、何かの調整槽らしき物が何本も並んでいた。だが、今はその全てが沈黙し、埃が積もっている。
「さぁて、どうしたもんかねこりゃ」
「私に聞かないで。見て分かるでしょ?」
「ま、見事にハズレか」
ぼやくゼーンを横目に、エリファは溜め息をゆっくり吐き出しながら、心中で嘆息した。
「グラウ聞こえた? 第6区画、特に異常は見られないわ。ここもハズレよ」
『これだけの施設にも関わらず、収穫ゼロとはね』
どんな表情をしているかまでは分かるはずもないが、グラウのその声には落胆や口惜しさは感じられない。いや、それとも感じ取れないだけなのか。
「どうするの? これ以上この施設にいる理由はなくなったけど」
『まだ内部に数体のキメラの反応が残ってるから、その排除が完了したら帰還してくれ』
「構わないけど、チョコパフェじゃ足りないよ?」
「もう、不謹慎」
言いながらゼーンを小突いたエリファは、自分もうっかり緩めていた緊張感を再び引き締め、残りのキメラの排除に駆け出した。
まだ後少し、痛みは閉ざしたままに。
2078年。加速度的に発達したテクノロジーは、世界に3度目の大戦をもたらす。
反連合政府同盟と、国際連環機関との間に勃発した戦争。
戦争とは往々にして、人間の意思によってもたらされ、人間の手によって争われてきた。だが、アウガルと、ト・コイノンとの戦争において、戦場で直接人間が争う事はなかった。その戦場で戦いを繰り広げたのは、人間が遺伝子操作によって作り出した生体兵器。『キメラ』そして『ハイブリッド』と呼ばれる生命の戦い。それは人間の過度に露呈された性故の大過に外ならなかった。
戦いは拮抗した。それは双方の力の増長を促し、戦争を激化させる。だが、どちらかが優勢になることもなく、ただ激しさを増すだけの戦いは続いた。その『つけ』とも言える戦禍は、世界人口を開戦前の3割にまで激減させる。
やがて、前触れもなく訪れた終戦。どちらかの支配でも、和解でもなく、まして勝者など存在しない終戦。その理由−−それは『世界精神の疲弊』だった。
終戦から2年。少なからず予期されていたことではあったが、尊いはずの平穏は忽焉と終わりを告げる。
戦後、力を蓄えていた反連合政府同盟の残党リベラルは、廃滅への一途を辿っていたキメラを強化改良し、再び世界を跳梁させる。それは、世界を震撼させる新たな脅威の始まりだった。
懸念されたのは言うまでもなく、4度目の大戦。
時を同じくして、別名『優性遺伝合成体』とも呼ばれるハイブリッドは、戦前から、バイオテクノロジーやナノテクノロジー分野で飛躍的な発展を遂げた世界一の先進企業、ジオ社によってその大半が管理され、ハイブリッドの精製、補強、調整などが兼行されるほか、キメラの根絶にも力を入れ始める。
ハイブリッドは、唯一キメラを淘汰できる力を持つ、別格の存在として是認され始め、期待を集めることとなった。
朱色の陽光が一面を照らし、東の天と地が曖昧になる朝焼けの風景。程よい採光に保たれた窓辺で朝焼けの光芒に溶け込むように、ジオ社総裁ガヴリア・フォルストはいた。
昨日中にこなさなければならなかった仕事は日を跨ぎ、すでに時刻は午前5時を過ぎた。ようやく処理し終えた書類は、デスクの上に山の如く積み上げられている。
そのやり遂げた仕事を前にし−−これから今日の仕事が始まるが−−今朝の天気同様、気分も晴れ晴れとするはずだったが、ガヴリアの心は曇っていた。
その原因は、朝のニュースで流れる、キメラの被害を伝える内容の報道だった。今日もまた死傷者が出ている。
「……またか。今週に発生しただけでも13件目か」
ぼやき、溜め息を漏らす。
「今月に入ってからは特に増加傾向にあるな。やはりリベラルが本格的に活動をし始めたと考えていいか」
「そうですね。すでに何件かの犯行声明らしきものも確認されていますし」
そう語ったのは、ガヴリアの秘書から護衛までをも勤める側近のエームズ・アインゼンだった。軍人だと言われれば疑う余地のない恵まれた体格だが、その見た目とは不釣り合いな程の繊細な挙動で、煎れたてのコーヒーをガヴリアの前に置き、続けて小脇に抱えていたいくつかの書類の束を差し出した。
「第一管下からの、昨夜の研究所調査報告書もあります。今回も結果は芳しくないようですが」
「そうか。でも、エンジニアの仕事だけでも多忙なのに、グラウ達は善処してくれている。……ただ現状を考えれば、HCT(第一種危険生体分子対策部隊)の発足は急いだ方がいいかもしれないな」
「MTS適合者の選定はすでに終わっています。ただ、彼等の返答如何によってはずれ込む可能性が」
「……分かってる。グラウに至急コンタクトを取ってもらえるかな。彼に意見を仰ぐ。エリファの状態も気になるしね」
「了解しました」
そう頷くと、エームズはデスクに山積みになっていた書類を軽々と持ち上げ、総裁室を後にする。
そして、訪れた静寂。香ばしい匂いに誘われ、ガヴリアはようやくコーヒーカップに手を伸ばした。
「一刻の猶予もないわけではないだろうが……不謹慎だろうな、私は」
独りごちる。総裁にとってのつかの間の休息をコーヒーで味わいながら、ガヴリアは第一管下から提出された書類に目を落とした。
世界の中心として全てを俯瞰するかのようにそびえるジオ本社は、直径が約30キロにも及ぶ至大な円筒形をしており、世界唯一の軌道エレベーターの役割も担っていた。それはさながら天空へとそそり立つ大樹のようにも見えた。
総裁室がある350階より下層。ジオ社第一管下ラボのある264階へは、社用エアターミナルから、エリア直通式エレベーターと区画シャトルを乗り継ぎ、約30分かかる。
調査から帰社したグラウは直ぐさま報告書を提出した後、ハイブリッドの調整に取り掛かった。
特殊羊水に満たされた、ハイブリッド調整用のNBMアセンブラー槽の中では、すでにエリファとゼーンが仰向けに寝ている。
いくつかの計器やディスプレーパネルに羅列されていく調整状態に目を通す。
「自己組織化機能、分子スタビライザー、TMLS(組織変成制限システム)……それと、バイオリンケージも良好と」
現行型のハイブリッドは、その骨格や内臓、脳やその他体内器官は普通の人間と変わりはないが、筋肉や皮膚組織−−主に四肢のほとんどは、NBMと呼ばれる人工細胞素子が使用されている。それは戦闘後、更には定期的にNBMアセンブラーによる調整が義務付けられていた。
NBMアセンブラーとは、各ハイブリッドに適合したプログラムをもとに、分子部品を組み立ててNBMを構築する為のもので、NBM自体に多少の再生機能はあったが、永続できるものではないため、補修や、自己組織化機能の補助などを行う必要があった。
「NBMの再構築75%まで完了。今回はかなり劣化が激しかったわね?」
エリファの調整作業を進めていた同僚のシレーヌ・ヴィエラは長い黒髪をかき上げながら、聞いてきた。
「純粋な戦闘用ハイブリッドじゃない分、今回は少し無理がたたったかもしれないな。よく言えばデリケートだし。まぁ、今回もメンタルな部分での影響が大きいだろうけど」
「相変わらず、か……特にエリファの能力にとっては致命傷よね。体はこうやって修復できても、デリケートな心はそう簡単に治るものじゃないし」
シレーヌは俯き、悲愴な面持ちで呟く。だが、そんな表情も、明眸皓歯の彼女が見せると不思議と艶やかに見えてしまう。
思わず見惚れていると、突然無愛想な嫌味が聞こえてきた。
「あんな環境下で戦闘させるのも悪いでしょおに」
などと、差し出がましく非を鳴らしたのはシレーヌと同じく同僚のアオイ・タチバナだった。彼女はゼーンの調整作業を担当している。
「何だか俺だけに責任があるみたいな言いようだな。統制本部からの要請なんだから仕方ないだろ」
「え〜だって、グラウってHCTの主任に推薦されてるし」
聞き覚えのない言葉に、グラウは寝ぼけた思考を巡らせた。嫌な予感が脳裏を過る。
「……まさか」
「総裁から直々に話が来るかもね」
他人事のように言い、アオイは薄ら笑う。だがそれは捨て置いて、グラウはジオ社を統率する友の顔を思い浮かべる。
「あいつ、専横にも程があるぞ」
やる瀬なさに、思わず愚痴る。とやかく言える立場ではないのは分かっているが、少しは配慮というものがあっても損はないはずだ。
「幼なじみのよしみね」
にやりとシレーヌ。だったら尚更だ−−とは口に出さず、ゼーンの調整をしながらもくつくつと笑うアオイに眉根を寄せて言い放つ。
「MTSの適合者のゼーンを担当する以上お前も同類なんだけどな、そこの厚顔無知の大和撫子。二日酔いでちんたら仕事してる場合じゃないぞ」
「あ、あはは。それはその、ねぇ……っていうか、厚顔無知の大和撫子ってどんな褒め言葉よ?」
馬鹿は再び捨て置いて、グラウはゼーンの調整状況が表示されたディスプレイに目を移した。エリファよりも状態はいいため、特に心配するような点は見当たらない。
「再構築も98%まで終了か。問題無さそうだな」
「グラウの態度には問題あるけど」
もはや酔っ払いおやじのからみに等しい。アオイの性格に辟易しつつ漏れたのはやはり溜め息だった。そして訪れた疲労感に目眩を起こし、グラウは手近な椅子を引き寄せ腰を下ろした。仕事も一段落しそうな事もあり、徹夜明けの気怠い体を包む眠気はあっさりと意識を支配していく。
そこで−−突如携帯がポケットで震え出した。
(嫌なタイミングだな)
恐る恐る発信相手の名前を見る。と、そこにはジオ社総裁の敏腕秘書エームズの名前が表示されていた。
「……噂をすればだ」
しかし、一度支配された意識はもはや抵抗する術を持たなかった。心地よい背もたれに体を預けたままグラウはしばし夢を結んだ。
高度約36000キロ、衛星軌道上。ジオ社保有の宇宙施設ネウロン。
その施設の所長、カスミ・イーリスは数日間溜め込んだ残務整理に追われていた。
自室。耳障りならない程度に流れるBGM、適当に選んだチャンネルで放映されている古い映画。しかし、今はどちらも静寂を葬る為の存在に過ぎなかった。 ソファーに俯せの状態で片足だけが床に落ちているというのは、傍目にも不恰好なのは分かっていたが、特に気にせず、カスミはノートパソコンのキーボードの上で指を踊らせながら独りごちた。
「まったく、相変わらず2課の連中は無駄遣いが激しいわね」
不意に過った苛立ちがキーボードを叩く指に現れているのに気付き、カスミは苦笑しながらその指を止めた。
(やだ、私ったらヒスってるの?)
それは自問ではなく、単なる自嘲でしかなかった。そんな寸感を振り払うようにかぶりを振り、ふと時計に目をやる。
(もう12時になるのか)
思い起こせば、朝食は食べていなかった。道理で仕事がはかどらないはずだ。重たく感じる体をやおら起こし、デスクへと足を向ける。
デスクの上は少しばかり雑然としていた。納品書やその領収書に、部下の始末書。ボールペンと万年筆。計算機。電子辞書。地球にいる愛犬と友人との写真が入った写真立て。無意味にオーナメントされた骨董品の時計。ファンデーションに口紅。表紙に『理想の上司になる秘訣』と書かれた書籍。そして、冷え切った紅茶が入ったカップ。
空腹感を紛らわすには物足りないが、とりあえずカップに口をつけ喉を潤す。
「さ、ランチは何にしようかな」
現在、ネウロンは無稼働状態にあるため、軌道エレベーターの宇宙ステーションに係留されている。昼食は宇宙ステーションにあるフードセンターまで行くことになる。
「あれ、財布はどこに置いたっけ?」
素直に散らかっていると認めつつ、財布を探す。
と−−その時、不意に警報が鳴り響いた。
「……訓練、だったかしら?」
だが、その予想はあっさりと否定される。
デスクのモニターに、コントロールルームからの通信が入る。そこに映る所員が狼狽しているのが、手に取るように分かった。
『所長、大変です! すぐこちらに来て下さい!』
カスミは息が詰まるのを感じながら、半ば強引に生唾を飲み込んだ。
「いったい何の騒ぎなの!?」
『そ……っ!』
刹那。モニターから聞こえたのは何発かの銃声だった。モニターが血で赤く染まる。
「……きゃあぁぁぁっ!」
全身が粟立ち、戦慄を覚えたカスミは、たまらず絶叫した。