明日はきっと……
「アニマの反応が消えた? システムもダウンしたのか?」
ネウロン内部の状況が好転した事で歓喜の声が沸き起こった統制本部。そのどよめきに負けないよう、ガヴリアは語気を強めた。
「インターフェースジャマー消失と同時に、干渉濃度も安全値まで低下」
「ネウロンのコントロールイニシアチブも戻りました」
本部スタッフの慌ただしい報告にガヴリアは頷いた。
「よし。すぐに生存者を確認。被害状況と、警備隊への連絡も忘れないでくれ」
言い終わるが早いか、ガヴリアは踵を返して、統制本部の出入り口へと歩き出す。が−−
「どちらへ行くおつもりですか?」
行く手をエームズが阻む。どうやら思惑は見抜いているらしい。特別不思議な事ではなかったが。
「もちろんネウロンへだ。何か問題はあるかい?」
「あります。まだ警戒態勢は解除されていません。安全を確保できるまで総裁を行かせるわけにはいきません。今はまだ自重して下さい」
怒りとは違うが、明らかな強い感情を隠さず、エームズは言ってきた。その言い分はエームズの立場からすればもっともであるが、今はその主張に頷くつもりはなかった。
「……エリファを送り出したのは、ほかでもないこの私だ。義務がある。行かなければならないだろう?」
「お気持ちは分かります。しかし、すでにもう、向かっている者がおりますので」
どういう心境の変化か、エームズが突然微笑を浮かべる。
「たった今、アオイ・タチバナから連絡がありまして、グラウが一人でネウロンへ向かったそうです」
ガヴリアはエームズの微笑の理由に納得し、かぶりを振った。
「やれやれ」
「ご理解いただけましたか?」
「もちろん。グラウの邪魔をするつもりはないよ。……しかし、あの男も何を考えているのか」
「連れ戻せ……とは、おっしゃらないのですか?」
「聞くような男ではないからね。好きにさせてやってくれ」
微笑のまま静かに頷くエームズの肩を叩き、ガヴリアは首から垂らしていたインカムを耳にはめてシュウへ繋いだ。
揺れが止まってから約3分後、ようやく警報が止み、警告灯の明滅が消えた。
「終わった……のか?」
ゼーンは平衡感覚を確かめるようにゆっくりと立ち上がり、呟いた。見回すと、ハイブリッド達は倒れたまま、ぴくりとも動かない。インカムデバイスのバイザー状ディスプレイを下ろし、現状を確認していく。
「アニマの強制干渉もインターフェースジャマーも消えたか。少なくとも、ここの警備隊の生体反応は大丈夫みたいだな」
「そのようだね」
壁に寄り掛かっていたシュウはそう言うと、膝から崩れるように座り込んだ。
「だ、大丈夫か?」
「いや、さすがにもう動けないな。ゼーンこそ大丈夫かい?」
「へへ、俺も無理」
シュウに言われたからではないが、安堵から結局、尻餅をつき、ゼーンはそのまま寝そべった。
「でも、俺達いい名脇役になれたんじゃねぇかな?」
「そうだね。そして、主役の彼女は期待通りの活躍、か……でも」
森閑としたネウロンに、数秒の沈黙が重なる。『でも』の後に言葉が続かない。躊躇っているのか、それともこっちの言葉を“待って”いるのか。
「でも」
シュウの言葉が続く−−かと思ったが、それは再び打ち切られた。どうやらシュウに通信が入ったらしい。
「はいシュウです。……はい。いえ、とりあえず僕とゼーンは無事です。……はい、分かりました。……え? あぁ、なるほど。……はい、了解しました。はい」
約1分強続いていた通信が終わった。後半部分は何故か顔を綻ばせていたシュウに、ゼーンは問い掛けた。
「どうかしたのか?」
「白馬に乗った王子様が行くから、よろしくだって」
「はい?」
思わず起き上がり、シュウの発言に首を傾げる。
「エリファの王子様」
楽しそうにウインクするシュウ。答えは意外に簡単だった。
その後−−。
宇宙ステーションとネウロンの復旧作業、警備隊の治療。そして、犠牲者達の収容は夜通し行われた。
宇宙ステーションの被害は深刻で、ゲートの大半が閉鎖を余儀なくされた。完全復旧まで約1ヶ月はかかるらしい。一方、強制干渉を受けた警備隊は後遺症を懸念されたが、無事に意識は取り戻し、最も重傷だったミリアは迅速な手当ての甲斐もあって、なんとか一命だけは取り留めた。
(結局、犠牲者は宇宙ステーションの利用者、所員、ハイブリッド合わせて41名か。状況から考えれば少ないとも言えるが)
だが、ハイブリッドとしてだけではなく、生きる者としてそれを妥協することはあってはならない。ゼーンもそれは理解していた。
担架で運ばれていく所員やハイブリッドをシュウと見届けていたゼーンは、ふとエリファの気配に気付き、振り向いた。
ゆっくりと、一歩一歩を噛み締めるように歩くエリファの両腕には、ネウロンの所長が抱き抱えられている。悄然とした様は、彼女の心中を代弁しているようだった。喪心した瞳からはいくつもの光の筋が頬を流れていく。
ゼーンはエリファに歩み寄った。
「エリファ」
慎重に優しく名を呼ぶ。歩みを止めたエリファは一拍あってからかぶりを振った。何かを振り払うかの如く、強く。
「私には、できなかった」
「エリファ……ま、まぁまぁ、お前は十分頑張ったじゃないか!」
エリファの雰囲気に不安を感じ、ゼーンは説き伏せようと声を荒らげた。だが、エリファは喘ぐような呼吸の後、悔しげに呟いた。
「何も変わっていない。私には……変えられなかったのよ」
言い終えると、エリファは最後の1つとなった担架に所長を寝かせた。そして、運ばれていく担架を追うようにしてエリファは歩いて行く。
「お、おいエリファ!」
叫び、駆け出す。が、すぐにシュウに腕を掴まれ、制される。
「おい、何をっ!」
感情的な行動なのは自分でも分かっていた。分かっていたが、それを他人に抑制されるのは腹立たしかった。ゼーンは思わずシュウを睨んだ。
「今はそっとしてあげよう」
「だけど!」
「ゼーン。僕だって歯痒いよ。彼女の力にはなってあげたいけど……ここはグラウさんに任せよう」
グラウの名を出されては、反論しようもない。視線を遠ざかるエリファの後ろ姿に戻したゼーンは、唇を噛み締めてシュウの手を振り払うのが精一杯だった。
ネウロン第2層。展望フロア。
無限とも思える広大な宇宙からすれば、ガラス張りの床から見える景色などほんの僅かでしかない。自分の存在が更にちっぽけなものに思えてくる。命も、心も、意志すらも。
「この力だって」
胸元まで持ってきた左手をひしと握り締めて、エリファは独りごちた。
ふと気が付くと、慌ただしく行き交う人達の喧騒はいつの間にか静まりつつあった。一人取り残されたような寂しさに、再び瞳が潤む。エリファは俯いていた顔を慌てて上げた。
「どうしたんだ? こんなところに一人で」
フロアに響いた穏やかな声。その声の主が誰なのかを考えるよりも早く、体は動いた。振り向く。その弾みで零れてしまった涙をそのままに、エリファは震える唇を動かした。
「……グラウ」
ここに来るまでに少なからず無理をしたらしい。近付くグラウの足取りは少し重たく感じた。
「グラウこそ……もう動いて大丈夫なの?」
「どうだろうな。医者が傍にいたら止めたかもしれないけど、どうしてもお前に早く礼が言いたくてな」
「私に?」
エリファは小首を傾げ、聞いた。グラウはやや疲れの見える顔に微笑みを浮かべる。
「あぁ。ありがとう、ってさ」
まだ胸元近くにあった左手を胸に宛がう。だが、締め付けられるような胸の痛みは治まらない。
「私には、礼を言われる資格なんて無い。私は……何も変えられなかったのに」
言い知れぬ苦しさに喘ぎ、エリファは上半身を丸めた。視線の先には朧げな地球の縁が見える。それを跨ぎ、グラウの足が近付いて来た。
「エリファ。全てが顕現する力なんて、アニマの妄想でしかない」
グラウの胸が頭に触れた。そして、肩に置かれた両手に起こされる。
「そんな簡単なものじゃないんだよ。世界も心も。エリファ一人を責める権利こそ誰にもない」
と、不意に抱き締められ、エリファはグラウの胸に顔を埋めた。その心地は懐かしくもあった。
「お前は優し過ぎるんだよ。だから人一倍気負って、未来を焦ってる。それは辛い事だよ。エリファ一人の力で全てを変えようなんて思わなくていいんだよ」
グラウの声はそこはかとなく震えている。もしかしたら泣いているのかもしれない。
「アニマの意志に、エリファは勝った。今はそれだけでも十分だ。……だから、いいんだ。いいんだよ」
留めどなく流れる涙が頬を伝って床に落ちて行く。そしてそのいくつもの雫が、星々の輝きを際立たせる。
どれだけ言葉を費やしても、今の気持ちを言い表せそうになかった。
だが、その尊い感情は正しい。優しさに和らぐ心は透き通った思いを愛でる。その心に煽り立てられるように、エリファは言葉を紡いだ。
「……ありがとう」
そして、その意志は顕現する。
エリファは生まれて初めて、心からの笑みを、表情に湛えた。
「ねぇ、のぞき見はよくないんじゃないかしら?」
柱から顔だけを出し、グラウとエリファをのぞき見しながら涙を拭っているアオイとゼーンに、シレーヌは忠告した。
「うう……泣けるいいシチュエーションだわ」
「悔しいが負けたぜグラウ、俺も涙が止まんねぇ」
「いや、人の話聞きなさいよ」
とは言いつつも、シレーヌも我慢できずに覗き込む。この2年間のエリファとグラウを知っているだけに、目が潤まないはずはない。だがそれ以上に、シレーヌはほっとした気持ちから微笑まずにはいられなかった。
(よかったわね、グラウ)
今日という日は、エリファにとってようやくスタートラインに立つ事ができた記念日にでもなるのだろうか。いや、生まれ変わったと言っても、過言ではないかもしれない。まるで自分の事のように、シレーヌは喜びを噛み締めた。
「さ、こそこそしてないでもう行きましょう? そろそろ朝ごはんよ」
涙脆い夫婦漫才師のような2人の頭を叩き、シレーヌはグラウとエリファのもとへ、駆け寄って行った。
総裁室に戻ったガヴリアは、いれたてのコーヒーをゆっくりと味わいながら、エームズの報告に耳を傾けた。
「よかった。エリファは無事だったか」
事後処理を済ませたエームズから渡された大量のデータをデスクトップに表示させていく。一睡もできなかった体は明らかに拒否反応を示していたが、仕事である以上は仕方がない。更にコーヒーに口をつけ、眠気を打ち払う。
「では、まず被害状況から……」
「いや、もういいよ」
右手に持った分厚い書類を見ながら報告を続けようとしたエームズに、ガヴリアは首を振った。
「後は自分で目を通すから大丈夫。ありがとう」
「……分かりました。ここに、被害状況や犯行グループの詳細。被害者の氏名など記載してありますので。何か他に必要でしたら、申し付け下さい」
「分かった」
「では、私は会見の準備に取り掛かります」
「よろしく頼むよ」
エームズの手から開放された分厚い書類が、デスクへと置かれる。そして一礼し、立ち去ろうとするエームズ。離れていく後ろ姿を見て、ガヴリアは何とは無しに問い掛けた。
「エームズ。よく考えてみれば、私がまだ“総裁”と呼ばれているのはおかしな事だと思わないかい?」
突然の質問にもかかわらず、エームズが丁寧に振り向く。
「肩書とはいえ、確かに国際連環機関との繋がりを意味するものでもあります。ご希望とあれば、私は構いませんが」
エームズの気遣いに、ガヴリアは笑顔で答えた。
「かしこまりました。“社長”」
そう言って深々と一礼し、また同じ動きを繰り返したエームズは、静かに退室した。
「“社長”……か」
新たに何かに向かう感情−−心機一転。踏み出さなければならなかった一歩が、今日、ようやく始まった気がする。
「さて……はたして私に、呪縛を解く事ができるだろうか」
そこは、エリファが好きな場所だった。
ラボエリアの一画。巨大なバルコニーのような造りのスペースの中央には小さな噴水が設けられ、その周りは花壇とベンチで円く囲まれている。すぐ近くにはいくつかの売店、自動販売機や水飲み場などもあり、社員の憩いの広場として利用されている場所だった。
今は朝早い事もあり、どの店も開いておらず、徹夜明けか二日酔いかは知らないが、ベンチで1人、社員の誰かが爆睡しているだけだ。幸い、いびきはしていない。
エリファは、今買ってあげたレモネードを大事そうに握り締め、ぼんやりと外を眺めている。
水平線が薄らと浮かび上がっていく。もうすぐ日の出だ。
「ねぇ、グラウ」
「ん?」
「アオイがね、ステキな言葉を教えてくれたんだよ」
エリファの声が弾む。グラウは嬉しそうに話すエリファの後ろ姿を見ながら、ベンチに腰を下ろした。ついでにボトルのフタを開け、熱いココアを一口すする。
「ん……アオイがか? 珍しい事もあるもんだ。で、何て言ったんだ?」
「“明日はきっと明るい日”。アオイの座右の銘なんだって」
「……おいおい、あいつの座右の銘は“馬耳東風”じゃなかったか?」
思わず呟く。しかし、どうやらエリファには聞こえなかったらしい。
まだ目は赤いが、幼さの残る顔には年相応の笑みを浮かべ、日の出を待ち遠しそうに立っている。日頃キメラと戦っているなど、その姿からは想像もつかない。
「あ、グラウ見て! 太陽だよ」
無邪気にはしゃぐ子供のように、エリファが太陽を指す。
グラウは小さくかぶりを振った。聞こえなかったのなら、その方がいい。危うく、雰囲気を台無しにしてしまうところだった。
穏やかな時間。いつまでもこうしていたい。そんな気分になってくる。
まだ空は夜に輝く星の明るさが勝るが、ゆっくりと、確実に、朝の光は広がっていく。
「こうしてまた、新しい朝を迎えられるのは、グラウのお陰だよ」
振り向いたエリファは、暁光に照り映える瞳で囁いた。内心照れ臭さを覚えながらも、グラウは頷き返す。
「それは俺だって同じさ」
眩耀の海に生まれた太陽。いつもと変わらない光景。だが、いつもとは違う時が、刻まれていく。
(明日はきっと明るい日……ねぇ)
アオイの台詞も満更でもないなと心中で苦笑しながら、グラウはまばゆい光芒に目を細めた。