誕生日
体がすっかり回復し、今まで通りにアパートと大学と水族館を行き来する日々。あの日以来、例の黒猫は姿を消していて、それはそれで気になっていたが、そんなことよりも、和希が元通りになってくれたことが嬉しかった。三月に入って気温が少し上がり、悲しくなるような北風は、その勢いを徐々に弱めている。カフェの窓際の席もますます居心地が良かった。今日も、常連の客が帰って暇になった翼は、美和と二人でフロアに出て行った。
「ねえ、和希さんと、あれからどうなの?」
美和は探るように、翼の顔を見る。病院で和希にひどく怒っていた美和だったが、もう仲直りしたのだろうか。気になった翼は、
『和希のこと、まだ怒ってるの?』
「……別に、怒ってるわけじゃないけど、あの時は、許せなくて」
あの時の気持ちを思い出したのか、美和は不機嫌な顔になる。
「だって、狡いんだもん。翼が頼りにしてるの解ってるくせに、急に……」
『和希のこと、もう悪く言わないで』
翼は耐えきれずに、遮った。和希は自分でも、狡い人間だと言っていた。解っていても、そうせざるを得なかったのだ。あれから和希は、出逢ったばかりの頃に戻ったように、毎日連絡をくれる。学食で一緒に昼食をとったり、バイト帰りに翼の部屋に寄ってくれたり、すっかり元通りで、翼の寂しさはもう何処にもなくなっていた。
「でも、翼が元気になって良かった」
美和はそう言って、水族館に行こうよ、と翼を誘った。翼が寝込んでいる間に、水槽の中はかなり様子が変わり、また、眺める楽しみが増えた。中でも、一番好きな淡水の大水槽に、レモンテトラの大きな群れができていて、その美しさに見とれてしまう。
「崇さんがね、翼が好きな魚だから、って二百匹も入れたんだよ。すごいよね、綺麗だね」
美和のその言葉に、翼はまた、崇を好きになった。面と向かっては出さないけれど、こうやって、いつも気にかけてくれる。和希とはまた違った優しさだった。
金曜日の夜は、普段の平日とは違い、水族館のほうの客も多い。遅い時間まで営業している水族館というのは珍しく、それが口コミで広まったらしい。
「カップルばっかり。ソファでイチャイチャしちゃってさ。きっと魚なんて見てないんだよ」
厨房に戻ってきた美和がつまらなそうに言う。
「いいんだよ、雰囲気を楽しんでもらえれば」
崇は銀色の容器をカタカタと音を立てて振り、小さなグラスに綺麗なピンク色の飲み物を注いだ。グリーンやオレンジのときもあれば、無色透明のときもある。まるで魔法のようで、翼はいつもそれを、興味津々に見つめていた。
「翼はまだ、未成年だから、酒はダメだぞ」
美和がグラスをフロアに運んで行くのを見送っていると、崇が言った。
「ハタチになったら、飲ませてやるよ」
『いつハタチになるの?』
「普通に考えたら、次の誕生日だろ?」
おまえがどうなのかは解らないけど、と、最後は濁すように呟く。誕生日、というのも、よく学食や教室で耳にする言葉だった。何かを買ってもらう日らしく、先日も女子たちが楽しそうに話しているのを聞いたばかりだ。翼は自分の誕生日を、知らない。
「学生証持ってないのか? そこに書いてあるだろ」
解らなかったら和希に頼んで調べてもらえよ、と、また銀色の容器に何か液体を注ぐ。翼はその容器で作り出される飲み物を早く飲んでみたくて、ウズウズしていた。
帰宅した翼は、まず学生証を取り出してみた。が、情報の保護のためかICチップ化されていて、生年月日は記載されていない。それで、今までにあまり開けたことのない机の下のほうの引出しや、クローゼットの奥の箱を片っ端から開けて、自分の情報がありそうな書類を探した。しかし、見つけられずにガッカリとソファに腰を下ろす。そこへ、バイトを終えた和希が尋ねてきた。床に物が散乱した様子に驚いて、
「どうしたんだよ? こんなに散らかして、」
『誕生日が知りたいの』
「誕生日か……。ちゃんと確認してくれば良かったな」
以前に翼の身上を調べた時に、書類に書いてあったはずなのに、と謝る。
「また大学で聞いてきてあげるよ」
翼はそれで安心し、部屋を片付け始めた。和希もそれを、手伝ってくれる。
『和希は、誕生日、いつなの?』
ふと気になって、聞いてみた。
「俺は、四月だよ。四月二十日」
『もうすぐだね、何かほしいもの、ある?』
その問いに、和希は笑って、何もいらないよ、と答えた。少しガッカリした翼は、片付ける手を止める。日頃から、翼のことを気にかけてくれる和希に、何かお礼をしたいと思っていたから。
「……ありがと、その気持ちだけで充分だよ」
『でも、誕生日は何かプレゼントを買ってもらう日なんでしょ?』
和希は、誰に聞いたんだよ、と可笑しそうに言いながら、
「誕生日って言うのはね、生まれた日のことだよ。誕生日がくるたびに、歳をとるんだ。俺は今、二十一歳だから、四月二十日になったら、二十二歳になるんだよ」
生まれた日、と聞いて、翼の心に、不安の影が過った。それを知ってはいけない、誰かがそう囁く声が聞こえる。あの黒猫? 翼は咄嗟に部屋の中を見回した。
「どうした?」
翼の様子がおかしいことに気付き、和希も部屋の中を見回す。
「何かいる?」
首を横に振りながら、翼は思い出したように机の一番上の引出しを開けた。隠した黒猫の絵はまだそこにあり、青い目で翼を見据えている。怖くなって、机から離れた。ところが、何事かと引出しを覗いた和希は、その絵を手に取り、
「この猫……、」
意外な反応に、翼は和希の目を見つめた。
『知ってるの?』
「うん。目の青い猫なんて珍しいからさ。でも、どうして翼がこの猫を知ってるの」
『いつも、水族館の側にいて、僕のこと見てるの。怖いよ、』
すると、和希は、あり得ない、と首を横に振る。
「確かにあの辺りで飼われてた猫だけど、もう二年も前に死んだんだ。事故に遭って。だから、違う猫かも知れないな」
最近は、ペットショップでも色んな猫を売ってるから、と、もう一度その絵を見つめる。翼は、あの黒猫が、二年前に死んだという猫であると確信していた。しかし、どうして自分にその姿が見えるのか。その理由が解るはずも無く、ただ、怪しく光る青い目を思い出して怯えた。