人間の証
塀の上から、黒猫があざ笑うように見ている。ようやく見つけたと、翼はその青い目を捉えた。
『何の用だ』
黒猫は細長い尻尾をゆらゆらと動かしながら、不気味にのどを鳴らす。用件など、お見通しだというように、意地悪く口元をゆがめた。
『僕の記憶を消してよ、できるんでしょ』
『おまえが、忠告を聞かなかったからだろう』
『お願い、』
『ダメだ。自分でなんとかするんだな』
走り去ろうとする猫に、縋り付くように手を伸ばした。
『ギャーッ!』
黒猫は恐ろしい声を上げて、威嚇する。翼は思わず竦んで動けなくなった。遠ざかって行く猫の後ろ姿に、待って、と言おうとしたが、声にならなかった。
気がつくと、ぼんやり見えるそこは、白くて、明るい空間だった。カフェのようだが、珈琲の匂いはなく、代わりに何か嗅いだことのない匂いがする。美和と水族館にいたはずなのに……。徐々に意識がハッキリとしてくると、そばに、和希の姿を見つけた。
「良かった……」
目が合うと、和希は心底安心したというように、息を吐いた。
『ここは、どこ?』
「病院だよ。気分はどう? 何処か痛む?」
以前と変わらず、翼の目を見つめて優しく言葉をかける。夢かも知れないと思いながら、
『もう、会えないと思ってた』
「……ごめんな、翼。ホントに、ごめんな」
和希はその瞳から涙を零して、何度も翼に謝った。それにつられて、翼も泣き出してしまう。
『寂しかった、和希に会えなくて、すごく、寂しかった』
「俺もだよ、ずっと、会いたかったのに……」
泣いている和希を見るのは、初めてだった。慰めようと、起き上がると、それを和希が慌てて止める。
「まだ、寝てなきゃダメだよ。熱もあるし、もう一度検査をしてからでないと、」
どうやら翼は、冷たい雨に打たれたせいで熱を出し、それに気付かず無理をして倒れてしまったらしい。強く頭を打ったかも知れないと美和が言ったため、救急車でここまで運ばれたようだった。
その後、すぐに検査が行われ、異常なしと診断された翼だったが、念のために一晩だけ、入院することになった。すぐにでも帰りたいという翼の訴えはアッサリ却下され、また病室に戻される。看護師が入って来るたび、注射器を持っているのではないかと、ビクビクしていた。
「美和が血相変えて走ってきたときは、ホントにビックリしたぞ」
早くに水族館を閉めて様子を見に来た崇が、ホッとしたように言った。
「おまえはぐったりして意識がないし、美和は翼が死んじゃったらどうしようって泣きわめくし……」
その様子を想像して、翼はまた迷惑をかけてしまったことを申し訳なく思った。
「しかし、そんなに熱があって気付かないなんて、おまえも相当鈍感だな」
『体が、重かったけど、どうしてかわからなかった』
崇はそれを聞いて呆れたような顔をしたが、
「まあ、これからは和希がちゃんと見ててくれるらしいから。俺も安心だよ」
そう言って、あとはよろしく、と帰って行った。
『もう、起きていい?』
尋ねると、和希は頷いて、ベッドを起こしてくれた。翼はそこにもたれて、殺風景な部屋の中を見回す。カーテンも、シーツも、壁も、天井も、白。明るいけれど、何だか味気なかった。
「何か、欲しいものがあったら言いな。何でもいいよ」
お腹減っただろ、と言われて、昨日から何も食べていなかったことを思い出す。食べることは周囲が呆れるほど大好きだったが、今は何も思い浮かばない。
「じゃあ、何か、してほしいことは?」
『和希に、元気になってほしい』
その言葉に、和希はまた、涙を零した。もう元気だよ、と言いながら、そっと翼を抱きしめる。フワリ、と温かいその感覚に、何かを思い出しそうになった。
「元気がなかったのは、翼の側にいなかったからだよ。馬鹿だよね、俺」
そう言って離れようとした和希の胸に、縋るようにしがみつく。今、閉ざされていた記憶が、一瞬、見えた気がした。それを逃したくなかった。和希はそんな翼をもう一度、今度はきつく抱きしめ、
「好きだよ、翼」
囁くように、そう言った。
『僕、ずっとここにいたいな』
白くて、フワフワで、温かい空間。翼はここにいる時が、一番好きだった。ここが、一番の隠れ処。ここにいれば、誰にも見つからないし、危害を加えられることもない。大きな安心と、優しさが、翼を癒してくれるから。
『そうやっていつまでも甘えてちゃ、ダメだぞ?』
『だって、』
『そろそろ、何でも一人でできるようにならなきゃ、ダメだ』
そんなことを言いながらも、優しく包んでくれる。翼はその温かい隠れ蓑の中で、いつまでもそうしていたかった。
安心したからか、和希に抱かれたまま眠ってしまった翼は、翌朝、美和の声で目を覚ました。何やら、和希に向かって捲し立てている。あまりの剣幕に驚いて起き上がると、ハッとしたようにその口をつぐんだ。
「翼! 元気になった? もう大丈夫?」
美和はベッドに駆け寄り、翼の額に手を当てる。
「もう、死ぬほど心配したんだよ? それも全部、和希さんのせいだよ。自分だけが辛いみたいに思ってたら、大間違いなんだから! 翼がどんなに寂しい思いをしてたか……」
美和はとうとう泣き出し、床に座り込んだ。和希が慌てて立たせ、椅子に座らせる。
「解ってる、全部、俺が悪いんだよ。でも、これからは絶対こんなことがないように、翼の側にいるから、……それで許してくれないかな」
困ったように、美和に語りかけた。許すとも許さないとも答えないまま、崇が迎えにきて、今度は揉め事か、勘弁してくれよ、と翼をベッドから抱き上げる。
「和希、翼の部屋に行けばいいのか?」
「うん、ありがと」
「美和は学校へ行け。翼はもう大丈夫なんだから」
泣いている美和にそう言って病室から出ると、思い出したように、
「ああ、それから、しばらく店は休みにするから。魚の入れ替えもあるし、翼がいないと土日はもたないからな」
『僕、もう大丈夫だよ』
翼が崇の目を見て言うと、
「ダメだ。かなり体が弱ってるって先生が言ってたからな。すっかり元通りになるまで、大人しくしてるんだ」
翼は仕方なく頷いた。また脚立から落ちて周りに迷惑をかけてもいけないし、病院へも、当分来たくない。翼は、点滴の針が刺さっていた腕の絆創膏を見て、身震いをした。
部屋に戻った翼は、またベッドに寝かされた。せっかく和希に会えたのに、と訴えると、和希は、これからは毎日会えるよ、と笑う。久しぶりに見るその笑顔に、和希が本当に元気になったのだと確信し、翼も自然と笑顔になっていた。翼に体温を測らせ、その表示を確認した和希は、もうちょっとだな、と翼の髪を撫でながら、
「初めて会った時のこと、覚えてる?」
翼は頷いて、和希の目を見る。
「翼が目を開けて、俺を見たとき、ビックリした。あんまり綺麗で、でも何だか幼くて、男なのか女なのかも解らない。まるで、天使みたいだって思ったよ」
和希はその時のことを思い浮かべているのか、懐かしそうな様子で話した。
「翼が不思議な子だってすぐ解った。だって、目を見ると、心の中の言葉が伝わってくる。純粋で、何処も汚れてない、真っ白な心だよね。その心の中から、僕を連れてって、って聞こえたんだ」
自分がそんなことを言ったなんて、知らなかった。突然、水族館へ行こう、と誘われて、何も考えずについて行ったことを思い出す。
「……俺なんて、心を覗かれたらって思うと怖いよ」
最後は自嘲するようにそう言ったが、翼は一度、和希の心を見てみたいと思っていた。きっと優しくて温かい、昼の海のような色なんだろうな。そう思い浮かべた翼に、和希は首を横に振る。
「俺は、優しくも何ともない、狡い人間だよ。翼のことが好きなくせに、怖くて、……逃げ出してしまった。翼が悲しむことくらい、解ってたのに」
その瞳を、翼はしっかりと見つめていた。
「怖くて、怖くて、たまらなかった。……翼がいつか、突然、俺の前からいなくなってしまうような気がしてたから。翼は人間の姿をしてるけど、ホントは違って、あの時の白い鳥みたいに、役目が終わったら何処かに消えてしまうんじゃないかって」
翼は一生懸命、首を横に振った。黒猫の薄笑いが頭をよぎる。
『僕は何処へも行かない、ずっとここにいたいの』
「そうだね、俺も、ずっとここに、いてほしい」
みんな、そう思ってるよ、と、和希は優しく言った。
「別れるのが怖くて、これ以上好きになる前に逃げようなんて、最低だよな。……でも、崇さんから翼が倒れたって連絡をもらって、解った。いてもたってもいられなくて、俺は、誰よりも翼のことが大事なんだって。それに、病室で眠ってる翼を見たとき、少し安心したんだ。翼は、人間だったんだ、って解ったから。病気になった翼を見て嬉しいと思うなんておかしいけどさ、」
ごめんな、とまた翼の髪を撫でる。和希のその話に、翼自身もようやくホッとしていた。病気になるのは、自分が人間である証拠。嬉しくて、涙が出た。