彼の悩み
連日の寒さで凍った水たまりが、舗装の傷んだ道のあちこちにある。どうやら完全に凍っているようで、翼が乗ってもびくともしなかったが、通り過ぎた車の重みでひび割れた。一体、いつになったらこの季節が終わるんだろう。学食でも、しょっちゅう、早く春にならないかな、という会話を耳にする。翼には春という季節がどんなものか解らなかったが、周囲の口調からは、とても待ち遠しいもののように感じられて、いつしか楽しみにするようになっていた。
しかし、和希と会えない日が続き、翼の心は寂しさで一杯だった。あの日、ユキに拒絶されて逃げ帰ってから、もう、会ってはいけない気がして、その寂しさに慣れようと必死に努力している。和希のほうもそう思っているのか、メールも寄越さず、水族館にも現れなかった。
「元気ないね、どうしたの?」
誘われて、学食で一緒に食事をしていた玲子が、声をかけた。
「いつもはビックリするくらい食べるのに。具合でも悪い?」
そう言って、翼の額に手を当てる。
『友達に、会えなくて、寂しいの』
翼は和希とのことを、玲子に打ち明けた。以前から相談に乗ってもらっていたし、いつも適切なアドバイスをくれる玲子なら、また簡単に解決してくれる気がしたから。
「……そんなことで揉めてるの?」
話を聞いた玲子は、半ば呆れたように言って、
「原因は、あんたのその綺麗な顔。ユキって子は、翼が女だって誤解したのよ。自分のカレシの部屋に、他の女が尋ねて来たら、誰だって逆上するわ。……でも俺の友達だって、どうしてすぐに説明しなかったのかしら」
尋ねられても、翼に解るはずがなく、また俯いてしまった。
「それっきり、連絡がないっていうのも変よね。その日のことはただの誤解なんだから、何も翼と距離をおく必要なんてないのに……」
玲子は箸を握ったまま、翼の顔を見つめる。翼も、見つめ返した。
「……なんか深く考えないほうが、良さそうね」
『どうして?』
「よく解んないけど、そんな気がする」
もうこの話題は終わりだと言わんばかりに、食事の続きを始めてしまった。翼は肩を落として、溜め息をつく。和希と知り合ったばかりの頃は、よく一緒にここで食事をしていたのに。最初は、小さい体で、良く食べる翼を見て、驚いていた。翼が美味しそうに食べるのを見てると、つられて食べ過ぎちゃうよ、と笑ったり、翼に好き嫌いがないことを褒め、自分は椎茸がどうしても食べられない、と教えてくれたりした。そんなことを思い出すと、ますます寂しさが募って、涙が出そうになる。最初は、和希との小さな想い出たちは、寂しい翼を慰めてくれていたはずだった。一人で不安な時、いつも和希の笑顔を思い出して、頑張っていた。それなのに。結局翼は、昼食に殆ど手を付けずに、食堂を出た。
久々に美和とバイトで一緒になり、新しく買った魚の話を聞きながら、翼はまたシリウスのことを思って悲しくなった。シリウスはあれから時々、翼の夢に現れては、アフリカの湖の様子を語る。大きな岩が重なってできた隙間を縄張りにしていて、格上の相手に追われても、そこに逃げ込めば安心なのだと自慢げに教えてくれた。水槽とは違い、広々とした自然の中で、楽しそうに生活していることに、翼はホッとする。しかし、また会いに来てね、と言うと、シリウスは何も言わずに姿を消した。そんな夢を見た日はいつも、水族館の裏のお墓に、自分から会いに行くのだった。
突然、思い出した、と小声で言って、美和が客のいなくなったフロアへ翼を手招きする。崇に聞かれてはマズいような話をするつもりなのだろう。いつもの窓際の席に座ると、美和はまだ小声で、
「ねえ、翼。和希さんと、最近会ってる?」
翼は首を横に振った。もう二週間近く会っていないことを話すと、
「そのシリウスの日、和希さんがここに来てたでしょ? 崇さんと、深刻な顔して話してるの、私、聞いちゃったんだ」
その意外な言葉に、翼は身を乗り出した。ずっと聞けずにいた悩み事が、解るかも知れない。そう思ったが、美和が口にしたのは、想像とは全く違うことだった。
「二年も付き合ってきた彼女がいるけど、もう別れようと思ってる、って。その人に会ってても、考えてるのは翼のことばかりだし、でも、翼は男の子だし、苦しくてたまんない、って」
美和は、きょとん、とする翼に、
「意味、解ってる? 和希さんはね、翼のことが好きなんだよ、」
ドキン、と胸が音をたてるのが解った。何度も瞬きをする翼に、美和は、私が言ったってナイショだからね、と釘を刺す。そして、
「翼は、和希さんのこと、どう思ってるの?」
『大好き。でも、』
もう会えないみたい。そう入力しようとしたが、涙で画面が見えなくなった。考えないようにしていたけれど、本当は、毎日でも会いたい。ずっと一緒にいたいのに。
「美和、おまえの内緒話は、デカすぎるよ」
呆れたように言いながら、崇が厨房から出てくる。泣き出した翼の頭を撫で、
「翼。和希は多分、おまえのこと大好きなのに、諦めるつもりなんだ。解らないかも知れないけど、男同士っていうのは何かと問題がある。翼を困らせちゃいけないと思って、好きでもない女とダラダラ付き合ってるんだ。馬鹿だろ?あいつ。俺は応援するって言ったのにな……」
翼はもう、何が何だか解らず、ただ泣いていた。しかし、今度来たら、一発殴ってやる!と言う崇の言葉に、懇願するようにその目を見つめる。
「お人好しだな、おまえは。ホントなら、その女に殴られなきゃいけないのは和希のほうだったんだ」
呟くように言って、
「翼、今日、ここが終わったら、あいつの店に行くぞ」
と、また厨房に戻って行った。
霙混じりの雨の中、予告通り崇に連れられて和希の働く店に来た翼は、何だか後ろめたい気分になって俯いていた。理由は何にせよ、和希は自分とはもう会わないほうがいいと思っているのだから。前に来た時は楽し気に見えたキリンや象の置物も、ペイントされた丸い目で、翼を咎めるように見ている。おまえはどうしてここに来たんだ?何をしに来たんだ?そんな声があちこちから聞こえてくる気がして、翼は両手で耳を塞いだ。
しばらく経って、奥へ姿を消していた崇が戻ってきたが、一緒に和希はいなかった。怒ったように溜め息をつく崇を見て、翼は耐えきれず、外に飛び出す。
「翼!」
崇が慌てて後を追ってきて、腕をつかまえた。
「ごめんな、翼。こんなことして、傷つくのはおまえだよな」
崇が悪いんじゃない。何も解らなかったが、それだけは確かだった。
「許してやってくれよ、和希のこと。もう会えなかったとしても、」
頷きながら、翼は凍り付きそうな悲しみに、ジッと耐えていた。大好きな和希に、もう会えない。それは、幼い翼にはあまりにも辛くて、受け止めきれない現実だった。アパートの前まで送ってもらい、崇の車が見えなくなるまで見送るうちに、雨はいつの間にか雪に変わって、翼の頬を撫でるように舞い降りる。もう一度、全部忘れられたら……。翼は祈るような気持ちで、白い雪の中に佇んでいた。
しかし、いつまでもそうやっていたところで、記憶が消えることはない。愕然とした翼はふと思い立って、あれほど怖かった黒猫の姿を探し始めた。いつもの車の下、水族館の塀の上、裏口の水飲み場……。あの猫がいそうな場所を探しまわったが、見つけられず、翼は溜め息をつきながら雪の積もったベンチに腰掛けた。指先が痺れるほどかじかんで、自分の息であたためる。治りかけていた霜焼けが、また痛んだ。
『和希さんは、翼のことが、好きなんだよ』
それならどうして、もう会えないの?涙が溢れ出したが、翼は慌ててコートの袖で拭った。泣いていると、弱みに付け込まれる。何故かそう思ったから。一瞬だけ、見たことのない景色が、脳裏をよぎって、消えた。追いかけようと、立ち上がる間もなくて、翼はただ呆然としていたが、慌ててその記憶の駆け抜けて行った先を探ろうとする。しかし、逆流してくる抗いようのない力に押し戻されてしまい、真っ白だった記憶の海に立ったさざ波も、やがて掻き消された。
しばらくそこで待っていたが、黒猫はいっこうに姿を現さず、諦めた翼はアパートに戻った。解けた雪で濡れた髪から、冷たい雫が流れ落ちる。寒くて、寒くて、凍えそうだった。
『人間に関わるな』
あの時の黒猫の言葉。翼はようやく、その意味を理解し始めていた。自分が何者なのかは解らない。しかし、人と深く関わってはいけなかったのだ。
『じゃあ、どうして僕は、ここにいるの?』
そう問いかけても、誰も答えてはくれなかった。
翌日、目が覚めたのは、もう正午を少し回った頃だった。講義を休んでしまったが、とても今から出掛ける気分ではなく、窓から外を眺める。今日も相変わらずの天気で、ここ数日、青空を見たことがない。雨も雪もまだ降ってはいなかったが、いつ降り出してもおかしくない空の色だった。ベッドから起き出した翼は、いつもと違って体が重いことを気にしながら、画用紙を取り出してあの猫の絵を描いた。黒くて細い体に、水色に光る鋭い目。出来上がった絵は本物そっくりで、思わず身震いをする。壁に貼るのは怖かったので、机の引出しに仕舞い、少し早いが、水族館へと出掛けた。
いつもの道なのに、なかなか辿り着かない。体の重さがどんどん増しているように感じられた。それでも、黒猫を探しながら一生懸命に歩き、ようやく水族館に着いた時には、いつもと変わらない時間だった。
「翼、昨日は悪かったな」
すまなそうに謝る崇の言葉に、首を横に振った。
『気にしないで』
翼はそう言って、更衣室に向かう。美和はもう来ていて、脚立に上って何やら作業をしていた。
「あ、ねえ、着替えたら、ちょっと手伝ってくれない?私じゃ手が届かないの」
美和がそう声をかけた。美和は小柄で、いつも手足が短いことを気にしている。どうやら、上の段の水槽の底に、網を落としてしまったようだった。重い体を一生懸命動かして着替えた翼は、美和の代わりに脚立に上り、水槽の中に腕を入れた。いつもより水温が低いような気がしながら、網を拾い上げ、美和に手渡す。脚立から降りようとしたとき、翼は急に体勢を崩して、そのまま床に落ちた。
「翼!」
美和の悲鳴が聞こえたが、目を開けることも、体を起こすことも、できなかった。