表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
another way  作者: kanon
6/15

黒い猫

 二月になり、ますます気温が下がって、昼間でも雪がちらつく日が多くなっている。水をさわることの多い翼の指は霜焼けで赤く腫れ、割れたところに水がしみて痛かった。治りかけても、また違うところにひび割れができてしまって、指を見るたび、悲しくなる。

 今月から少しシフトが変わり、二年生の准一じゅんいちと一緒になった。学部も同じで、時々大学で顔を合わせると声をかけてくれるため、最近では准一の友達まで知り合いのようになっている。文学部の学生らしく、いつも図書館から借りて来た分厚い本を抱えていて、勉強熱心なことが窺えた。

 准一は高校生のときからここでバイトをしていて、平日は主に水族館のほうで働いている。どんな魚にも詳しく、見学客からの難しい質問にもスラスラと答えるところは見ていて頼もしい、と崇がしきりに褒めるが、普段はとても物静かで、暇な日のカフェで本を読んでいる姿しか知らない。翼は、一度その接客ぶりを見てみたいと思っていた。

「霜焼け、ひどいね。痛そう、」

 翼の手を見て准一が言った。

「僕も、始めたばかりの頃はそうだったよ。今乗り切ったら、来年の冬は、きっと大丈夫だから、頑張りな」

 今日は暇だから、僕がやってあげる、と、洗いかけの珈琲カップを翼から取り上げる。

「翼は、暖かいところで休憩してていいよ」

 そう言って、窓際のテーブルを指した。崇は今、外出中で、他に客もいない。翼は准一の言葉に甘えて、いつものお気に入りの席に座った。この場所だけは、ポカポカと暖かく、外の寒さなど想像もつかない。水槽の中でエアーが吹き出す微かな音を楽しみながら、外の景色を眺めた。近所の子供たちが、コンクリートの壁を利用してサッカーボールを蹴っている。勢い良く跳ね返ったボールがあらぬ方向に転がり、笑い声が上がった。しばらくそれを見ていたが、ふと視線を感じてその方向を見ると、隣家との仕切りのブロック塀の上に、いつも車の下に潜んでいる黒猫が座っていた。ジッとこちらを見て目を逸らさない。翼も負けじとその水色の目を見つめ返した。

『早く自分の世界へ帰れよ』

 その声にハッとして顔を上げると、そこに准一の姿があった。いつの間にか、向かい側に座っていたらしく、可笑しそうに翼を見つめている。

「翼はそこに座ると、いつも寝ちゃうよね」

 夢か……。翼はもう一度、塀の上に目をやった。しかし、そこに黒猫の姿は無く、代わりに、独特の音を立てながら、崇の山吹色の車が道路を曲がって入ってくるのが見えた。

「この寒いのに、子供は元気だな」

 まだ外でサッカーをしている子供がいるのだろう。崇は感心したように言って、翼に小さな箱を差し出した。

「ホラ、これ貼っとけ」

 それが何か考えていると、

「絆創膏だよ。痛そうで見てられないからな」

 准一にその絆創膏を貼ってもらい、痛みがひいたような気がした翼は、嬉しくなって水族館のほうへ行くことにした。美和の悪知恵で、水族館でサボるときは、モップかデッキブラシを持っていれば仕事をしているように見える、と教えられていて、翼はまず掃除用具入れからモップを取り出し、薄暗い水族館の見学を始めた。

 翼が好きなのは、大きくて目立つ魚ではなく、小さくて葉影に隠れているような、控えめな魚だ。ナマズの一種で、コリドラスという種類の魚たちは臆病で、人影が横切ると、それだけで驚いて見えないところに隠れてしまう。底を這うように移動し、水槽の中では、底に沈んだ他の魚の食べ残しを食料としているため、掃除屋とも呼ばれていた。しかし熱帯魚ファンの中には、そんな脇役的なコリドラスだけを飼う愛好家も多いというが、翼にはその気持ちがよく解る。翼はまずその魚たちを見るために、随分苦労して気配を消すことを覚えた。ずっと水槽の前に動かずにいると、やがて底に沈んだ餌を探して物陰から出てくる。砂に顔を突っ込んで餌を探しまわる様子は、可愛らしくてどれだけ見ていても飽きなかった。


 ふと、ポケットで携帯が震えているのに気付き、翼はそれを取り出した。その瞬間、コリドラスたちが慌てて何処かへ隠れてまったことにガッカリしたが、メールの差出人が和希であることが解ると、途端に嬉しくなる。

『バイト中?』

『いま、水族館にいるの』

『行っていい?』

 翼は、以前玲子から提案されたことを実行しようと、ずっと考えていた。しかし、何処かへ誘うにも、翼のまだまだ狭い行動範囲ではどうしようもなく、なかなか言い出せないでいる。

 そこで待ってて、と言われた通りに水族館の中で待っていると、やがて裏口のほうから和希がやって来た。翼を見つけて、いつもの笑顔を見せ、

「もうちょっとだけ休憩しても大丈夫?」

と尋ねた。水族館に入っている客もいないようで、頷くと、和希は翼を近くのソファに座らせ、自分も腰を下ろした。

 この水族館には至る所にこうやって休憩できる椅子やソファが設置されていて、大きな水槽の前にはそれを眺めるための椅子も置かれている。休日になるとそこに座って、時間を忘れて魚を眺めている客も多かった。椅子の種類は色も素材も雑多で、統一感がないようにも見えたが、それが不思議と、この薄暗い空間に溶け込んでいて、面白い。水槽の中に色とりどりの魚が泳いでいるからかも知れなかった。

「翼はホントによく頑張ってるって、崇さんが褒めてたよ」

 そう言われて、嬉しくなる。仕事にも慣れてきて、土日のドタバタにも動じなくなってきた。

「手、痛そう。大丈夫?」

『崇さんにもらった絆創膏を貼ったから、痛くないよ』

「そうか。崇さんは、普段そっけない感じだけどさ、優しいだろ? そういうとこが、好きなんだよな」

 和希は本当に崇を信頼している。それが手に取るように解った。翼も、崇には本当に世話になっているし、甘やかし過ぎもせず、突き放し過ぎもしない接しかたに、父親がいたらこんなふうだろうか、と想像してしまう。本当の、父親……。過去の記憶を、未だ朧げにも思い出せないことが、もどかしかった。

 翼は、しばらく迷っていたが、思い切って和希の目を見た。

『どこかに遊びに行こうよ、』

「……翼がそんなこと言うなんて、珍しい」

 意外そうな顔をして、

「いいよ。何処に行きたい?」

『和希の行きたいところ』

 すると、今度は驚いたような表情になったが、やがてジッと翼の目を見た。

「……俺は翼と、」

 和希がそう言いかけたその時、いつまでも戻ってこない翼を心配したのか、崇が姿を見せた。

「なんだ、和希も一緒だったのか」

「暇そうだったからさ、引き止めちゃったよ」

「悪い悪い、邪魔するつもりはなかったんだ」

 ふざけた様子の崇を、和希が睨む。すると、

「翼、たまには和希と遊んでやれよ。最近、おまえが一人でなんでもできるようになって、頼ってくれないから寂しいんだってさ」

「崇さん!」

 本気で怒っているように見えた。崇は笑いながら戻って行き、その背中が見えなくなると、和希は再び翼の隣に腰を下ろす。

「……、」

 溜め息をついて、困ったように翼の顔を見た。

「翼は、好きな子、いるの?」

 突然、尋ねられて、驚いたが、

『和希が好き』

 すると今度は和希が驚いた顔をして、

「ありがと、でもそういう好きじゃなくってさ、……」

 何故か悲し気な表情を浮かべる。

『キスしたいってこと?』

 翼からその言葉を聞くとは思っていなかったのか、和希は少し、怪訝そうな顔をした。

「……誰に教わったの、」

 そう聞かれて、翼は一瞬ためらったが、玲子とキスしたことと、その話をして美和に叱られたことを話した。あれから、何度か玲子に誘われて夜のドライブに行ったり、街のカフェに出掛けて一緒にケーキを食べたりしたが、キスをしたのは最初の一回きりだった。

「翼は、その玲子って子、好きじゃないのか」

 その質問には、また答えられない。好きという言葉の持つ、二つの意味を使い分けることは、翼にはまだ難しかった。ただ、どちらの言葉を使っても、一番好きなのは和希だ。

「難しいこと聞いてごめんな」

 和希はそう言って、そろそろ戻ったほうがいいよ、と翼を促した。

『ねえ、行きたいところは?』

「……そうだな、じゃあ、考えとくよ。思いついたら、メールするから」

 その約束ができたことで、翼はようやくスッキリして厨房に戻った。


 それから一週間が経ち、和希から何の連絡もないことに少し不安を覚えながら、翼はいつもの夜道を歩いていた。本当に、行きたいところがないのか、それとも、そんな時間がないのか。先日、製図室で見た彼らの様子は、翼とは比べ物にならないほど忙しそうだった。手伝ってやれるような内容ではないし、つくづく何もできない自分がイヤになって、翼は星空を見上げた。冬の大三角形の中でも、ひときわ明るく輝くシリウスを見つめ、何か良い考えはないかと問いかけてみる。翼の中で、あの魚を死なせたという心の傷が、ようやく癒えつつあった。最初のうちは、水族館でシリウスのいた水槽を眺めるたびに涙を零したものだが、今はそれもなくなり、相変わらず弱い者いじめをする魚たちをジッと睨んで、ほどほどにするように、と言い聞かせることが、翼の日課になっていた。

 ふと、和希のアパートがすぐそこなのを思い出し、訪ねてみることにした翼は、方向を変えてまた歩き出した。……出会ったあの日のこと。初めて訪れた時は、自分が何者か解らない不安で一杯で、ただ、翼のために一生懸命になってくれている彼の姿を、縋るように見つめることしかできなかった。あのとき彼がいなければ、どうなっていたかと考えるだけで、怖くて涙が出そうになる。翼は目をギュッとつむってそれを堪え、早足で歩いた。

 リリ、リリ、リリ、

 和希の部屋の灯りが見えた時、翼の耳元で何か音が聞こえた。立ち止まるとその音も消え、気のせいかとまた歩き出す。すると、また、リリ、リリ、と聞こえてきた。翼は再び立ち止まり、音は消えていたが、ジッと耳を澄ませながら、辺りを見回してみた。バイトが終わって帰るこの時間には、ほとんど人の姿はない。堤防の向こうから聞こえる波音だけが、風に乗って届いた。

『誰、』

 心の中で、そう尋ねた。気のせいではない、確かに何かの気配がする。すると、暗闇からあの黒猫が、姿を現した。目が鋭く、水色に光る。

『何なの? 僕に何か用?』

 口に出せなくても、その言葉は届いた。そして黒猫の言葉も、届いた。

『……これ以上人間に関わるな』

『どういうこと?』

『言葉の通りだ』

 忠告したぞ。黒猫はそう言って、走り去った。

 翼はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、急に怖くなって走り出す。和希のアパートの階段を駆け上がり、インターホンを鳴らした。明かりがついているのに返事がなく、もう一度インターホンを鳴らす。すると、しばらくしてようやくドアが開いた。

「……翼、」

「誰? 友達?」

 中から、聞いたことのない女性の声が聞こえた。

「どうした、」

 翼の怯えた様子に、ただ事ではないと思ったのか、和希はフッと表情を変える。

『怖いの、』

 翼は体が震えて止まらなかった。和希の手が、翼に触れようとしたとき、奥から一人の女性が姿を見せた。

「……ちょっと、誰よ? こんな時間に来るなんて、」

 その女性の表情に、明らかに敵意を読み取った翼は、どうしていいか解らず俯いた。

「ユキ、この子は、」

 和希が何か言おうとしたが、それを遮るように、

「ずっと変だと思ってたのよね。そういうことだったんだ」

 翼を睨みつけていたユキだったが、突然泣き出した。

「信じられない、和希が浮気してたなんて、」

 そう言ったかと思うと、いきなり翼の頬を叩いた。

「帰ってよ! 二度と来ないで!」

「ユキ! 何するんだよ!」

 今度は、和希がユキの頬を叩いた。翼は頬の痛みと、見てはいけないものを見てしまったような罪悪感で胸が苦しくなり、その場から逃げるように走り出した。

「翼! 待てよ、」

 和希の声が聞こえたが、振り返らずに走った。涙が溢れて、前が見えなくなっても、構わずに走り続けた。

 自分の部屋に戻った翼は、そのままベッドに潜り込んだ。怖くて、苦しくて、悲しくて、涙が止まらない。頭の中には、黒猫の言葉が渦巻いていて、離れなかった。今思えば、あの猫はずっと、翼を見ていた。まるで翼の行動を、見張っているかのように。


 翌日から、翼は水族館からの帰り道が怖くて、バイトが終わる時間が近づくと途端に憂鬱になった。あの黒猫は、きっとまた闇に紛れて翼に近づいてくるに違いない。今までは何でもなかった、水族館の通路に出来る魚の影にさえ怯えた。そんな翼を心配した崇は、カフェのカーテンを下ろしながら、

「翼、何がそんなに怖いんだ?」

『猫、猫が怖いの』

「猫?」

 猫なんてこの辺にいたか? と准一に尋ねている。

「ああ、時々この前を通る、灰色の太った猫のこと?」

『違う、真っ黒で、目が青く光る猫だよ』

 翼はホワイトボードに、その黒猫を描いて見せたが、二人とも見たことがないと首を傾げる。その様子に、翼はますます怖くなった。自分にしか、見えないのかも知れない。そう思うと、体が震える。

「そんなに怖いんなら、家まで送ってやるよ」

 また人に頼ってしまうことになって、翼は落ち込んだが、今はどうしようもなく怖い。崇の車の中から、いつもあの猫が潜んでいた場所をうかがったが、その姿はなく、ようやくホッと息を吐いた。

「和希にそのこと話したのか?」

 アパートに着き、運転席でタバコをふかしながら、崇が尋ねた。

『話せなかった、女の人に、叱られて』

 あの日のことを話すと、崇は声を上げて笑った。

「叩かれたっていうのはひどいな。二度と来るなって? 和希は何も言わなかったのか、」

『その女の人を、叩いてた。それを見たら何だか悲しくなって、』

 あれから、和希からの連絡はない。翼からも、していなかった。

「まったく、和希は……。もうほっとけ、あんなヤツ」

『でも、』

「いいんだよ。おまえが気にしてやる必要はないんだ。今度会ったら、おまえなんてもう知らないって言ってやれ」

 崇はそう言って、大きく煙を吐き出し、帰って行った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ