不思議な力
三ヶ日が過ぎ、帰省していたバイト仲間が帰ってきて、水族館はまた、賑やかになった。静けさに包まれた水族館も神秘的で好きだったが、やっぱりこのほうがいい。何より、それぞれが帰省先で翼のためにお土産を買ってきてくれたり、写真を撮ってきてくれたりしたことに、翼は感動していた。
「遠くに行ったことがないって言ってたから、」
翼とペアになることが多く、何かと翼を気にかけてくれる美和が、魚の様子をチェックしながら言った。平日のカフェはいつも、崇と二人のバイトでこなしていて、翼が厨房で洗い物の手伝いをし、もう一人はフロアで接客をする。と言っても、珈琲を出してしまえばフロアにいる必要もなくなり、二人とも厨房の中にいることが殆どだった。
翼と同い年の美和は、近くの短大に通っているらしい。小柄で、子供っぽく見られることを気にしているが、翼は自分と近い気がして、親近感を持っていた。いつも元気で明るくて、その上、面倒見が良く、一緒にいて安心できる相手の一人だ。そんな美和は翼が年齢よりもかなり幼いことを承知しているのか、いつも歳の離れた弟に接するように、翼に接する。それが翼にも自然で、気が楽だ。
『でも、この間、ちょっとだけ遠くに行ったよ』
携帯に言葉を入力するのも、随分早くできるようになった。些細なことでも、技術を習得できたと感じる瞬間は、言いようもなく嬉しい。
「え、ホント?崇さんと?」
『大学の先輩と』
「和希さんじゃなくって?」
翼は玲子と山頂までドライブしたことを美和に報告した。山頂での出来事が何を意味するのかが知りたくて、尋ねてみる。すると、予想に反して美和の表情が険しくなった。
「大好きな人とじゃなきゃ、キスなんてしちゃダメだよ、」
咎めるように言った後、戸惑う翼の顔にハッとしたように、
「ごめん、翼を責めちゃいけないよね。悪いのは、その女だよ。何にも知らない翼に、いきなりキスするなんて、」
それでもまだ自分が責められているような気分だった翼は、俯いてしまう。美和はそれに気付いて、翼は悪くないよ、ともう一度言った。そして、
「……その先輩って、翼のこと好きなんだよ。翼はどうなの?」
聞かれて、答えに困る。玲子は、好きにならなくてもいい、と言っていた。好きになってほしい、とも言った。翼にとって玲子は、言葉を喋れないにも関わらず、気安く接してくれる、数少ない理解者。好きか嫌いか、なら、間違いなく好きだけれど。
「とにかく、好きでもない人と、キスはダメ。もちろん、それ以上もダメだからね」
美和はそう言って、そろそろカフェが忙しくなるから、行こうか、と翼を促した。
久しぶりの、昼間のカフェ。翼がいる厨房からもフロアがよく見えるように一段高く設計されていて、すごく眺めがいい。本来なら、水を使う厨房は、フロアより一段下げるべきところを、崇はどうしても譲らなかったらしいが、翼はその気持ちが解る気がした。自分が入れた珈琲を美味しそうに飲んでいる客の表情が見えるし、心地良い空間でゆったりとした時間を過ごす贅沢を、裏方のスタッフでも味わえる。厨房の中の壁や床も白いタイルで食器も全て白。白いものはいつも綺麗にしていたいという心理を利用した作戦は大成功で、いつも隅々までピカピカだった。
翼は、客がいなくなると、フロアに出て行って、お気に入りの席に座った。窓から射す光と水槽の気泡が淡い影を作り出し、真っ白なテーブルに映る。気泡が生まれてくる微かな音に耳を傾けながらそれを眺めていると、心が和んだ。
「いい天気だな。そこはあったかいだろ、」
崇もやることがなくなったのか、翼のいるテーブルに来て腰を下ろした。硝子張りで、窓際は温室のように暖かい。窓の外に餌を探す雀を見つけ、その動きを追っているうちに、だんだん眠くなってきた。
「こないだ、和希は何か言ってたか?」
和希のことを聞かれて、少し目が覚める。
『実家に帰るって、』
「他には?」
『寂しそうだった』
「……へえ、」
意外そうに目を丸くしたが、フッとその表情を崩す。
「そういうことか。そりゃ、納得だ」
崇がそう言って席を立つのとほぼ同時に、翼は完全に眠りに落ちた。暖かくて優しい光に包まれて、明るい海の中を漂う魚になる。泳ぐのと、飛ぶのは似てるな……。そんなことを思いながら、いつまでも微睡んでいた。
冬休みが終わって一週間が経ち、ようやく今までの生活に戻りつつあった。寒さはますます厳しく、北風が容赦なく頬を切る。この辺りは地形のせいで風が強く、体感気温は、実際のそれよりかなり低い。いつにも増して大学までの道のりが長く感じられた。
そんな寒さの中、翼は玲子と山に行ってから、少しずつ行動範囲を広げていた。今までは、見慣れた景色から少しでも離れるのが怖かったが、自分の中に、もっと遠くへ行きたい、という願望があることに気付いた翼は、まとまった時間ができるとすぐに、行ったことのない方角へと足を向けていた。講義の行われる教室と食堂以外は知らなかったのに、最近は全く関係のない学部の研究棟を覗いてみたり、敷地の周囲を探索してみたりと、徐々に大学の中のことに詳しくなってきていた。
昼からの講義が休講になり、途端に時間を持て余すことになった翼は、ふと思い立って、工学部の建築棟へと足を向けた。翼がいる文学部のある建物からは最も遠い位置にあり、雨でも降ろうものなら、びしょ濡れになる距離だ。雲行きが怪しかったが、すぐに戻るつもりだった翼は、灰色の空の下を歩き出した。
学食と図書館の間を通り、草むらのようなところを抜けたところに工学部の建物はある。近づくほど地盤が高くなり、建築棟のすぐ裏に海が見えた。同じ大学でもこんなに景色が違うものかと驚きながら、その建物の中に入ると、入り口の壁に数点、建築物を描いた大きな額縁が飾られているのが目に入った。まるで学生の作品とは思えない見事さに、思わず近寄って眺める。校舎の中の匂いもまるで違って、心なしか、学生たちの雰囲気も文学部のそれとは違うような気がした。ロビーには他にも、学生が設計した建物の模型や図面などがあちこちに展示されていて、美術館にでもいるような気分でそれらを眺めていたが、ここへ来た目的を思い出した翼は、おもむろに内部の探索を始めた。
一階は、実験室。何か物々しい機材が並ぶ、コンクリートでできた薄暗い空間が殆どを占め、中には入れないようになっている。二階、三階は、ゼミを行う教室や専門書庫、教授たちの部屋が並んだ。最上階の四階に辿り着くと、何処からか賑やかな話し声が聞こえて、翼はその声のするほうへと近づいて行った。どうやら声は、「製図室」と書かれた部屋の中でしているらしく、翼は半開きになったその扉からこっそり中に入った。あちこちから笑い声が起こったり、立ち上がって歩き回ったりと、まるで講義中とは思えない光景に驚いたが、こそこそする必要のないことを悟った翼は、その薄いパネルでいくつかに仕切られた空間で何やら作業している学生たちの様子を見学した。
斜めに傾けた机の上の図面、パネルにはラフに描かれた建物や、色褪せた写真などが雑多に画鋲で貼ってあり、文字ばかり眺めている翼とは、全く違うことを学んでいるのが解る。雑談しながらではあるものの、皆、手にはペンと三角定規を持ち、器用に滑らせて細いラインを引いた。
「見学? 何年生?」
ジッと手元を見る翼に気付いた一人の男子学生が、そう尋ねた。途端に後ろめたくなり、咄嗟に首を横に振る。
「さては講義をサボってるんだな? 大丈夫だよ、先生は誰もいないから」
勝手な想像でそう言って、再び作業を続ける。少し安心した翼は、その次のパネルのところへ進んだ。すると、窓際の机で、図面に向かう和希の姿。向かい側の学生と、時折話をしながら、真剣な眼差しでペンを動かしている。その表情は今までに見たことがなくて、翼は思わず釘付けになった。
「……誰か探してるの?」
通路側の席の女子学生が翼に声をかけると、気付いた和希が顔を上げた。
「翼?」
驚いたように声を上げ、ペンを置くと、和希は翼のところへやって来た。
「どうした、何かあった?」
こんなところまで訪ねてきた理由が、ただ来てみたかっただけと解ると、和希はホッとしたように息を吐いた。
『何を描いてるの?』
すると和希は自分の机の前に翼を連れて行き、今描いていた図面を見せた。
「小学校だよ。今月中に仕上げなきゃならないんだけど、なかなか進まなくて」
和希はそう言いながらも、興味津々の翼に、その図面を細かく説明してくれた。学校の中心にある図書館は三階までの吹き抜けで、自由に寝そべったりもできる。従来の堅苦しいイメージがなければ、子供はもっと本を読むだろうと思う、と語った。
チャイムの音が聞こえ、翼はまた、随分和希の邪魔をしてしまったことに気付いて謝った。一日にどれくらい進むのか、見当もつかないが、翼の相手をしている暇などないことくらいは解る。
「大丈夫だよ、気にしなくても。今日はもう帰ろうと思ってたしね」
和希はそう言って、机の上のペンや定規を片付け始める。
「おいおい、可愛い後輩とデートじゃないだろうな。さっきは朝までやるって言ってたくせに……」
「さあ、帰ろうか」
隣の学生の言葉を遮って、製図室の外に出た。翼は申し訳ない気持ちで一杯になり、和希の目を見つめる。
「……いいんだって。俺がそうしたいんだから。確かに、さっきまでは朝までやろうと思ってたけどさ、翼の顔を見たら、一緒に帰りたくなったんだよ」
その言葉に、和希の優しさを痛いほど感じた翼は、ジッと和希の目を見てお礼を言った。やっぱり、和希といると、ホッとする。言いようのない安心感が、そこにはあった。頼ってばかりはいけないと思いつつも、その優しさに触れるたびに寄りかかってしまう。フワフワで暖かい毛布のように、翼を包んでくれるから。
「今日は木曜日か。翼は、バイト?」
頷いて、携帯を取り出すと、カレンダーの画面にして見せた。休みの日に、しるしを付けてある。一ヶ月ごとに、休みの曜日が他のバイトたちと入れ替わるシステムで、今月は月曜と金曜が休みだ。和希はそのカレンダーを確認し、
「俺、今日バイト休みなんだ。翼と一緒に、崇さんのとこに行くよ」
二人は冬休みの間の出来事を話しながら、水族館へと歩いた。途中、とうとう降り出した雨を見上げ、和希が透明な傘を開く。翼もその下に入った。ビニールを弾く音が、次第に大きくなってきて、傘の下にいても濡れる。和希のほうを見ると、入れてもらっている自分よりも濡れていて、翼はできるだけ、和希にくっついて歩いた。雨の中、一人だととてつもなく遠く感じる距離なのに、あっという間に硝子張りのカフェが見えてくる。
「久しぶりだな、和希」
誰もいないカフェで珈琲を飲んでいた崇は、厨房のほうを指差して、飲みたけりゃ自分で入れな、と立ち上がろうともしない。翼は和希の目を見て、
『僕が入れてあげる』
と、和希を座らせて厨房に入った。いつも崇がやっているのを見ているから、勝手は解っている。何より、カプチーノの泡を、一度作ってみたかったのだ。
「火傷しないでね、」
美和が後ろから心配そうに声をかける。翼はイメージ通りに泡を作り、和希のところへ持って行った。
「へえ、見よう見まねで出来るようになったのか」
感心したように、崇が珈琲カップを覗き込んだ。
「うまく出来てるよ。今度から忙しいときは、翼にも頼めるな」
褒められたことに満足した翼は、更衣室で制服に着替えた。白いシャツに、下は黒いズボンとエプロン。華奢な翼は、女性ものの制服を借りていた。
「今日は天気もこんなだし、暇だよ」
厨房にいても、窓際の崇と和希が話す声が聞こえるほど静かだ。翼は少しだけあった洗い物を片付けてしまうと、美和に断って水族館のほうへ行った。気になる水槽があるのだ。
アフリカのマラウィ湖に住んでいるシクリッドという魚たちは、体が鮮やかなブルーやイエローで、とても美しい。しかし、縄張り意識が強く、小競り合いが絶えなかった。先日、暇な時間に覗いた時、他の魚たちに寄ってたかっていじめられた一匹が、息も絶え絶えに岩陰に隠れているのを見つけた。その怯えた様子は他人事とは思えず、翼はジッとその魚の様子を見守っていたのだ。
『優しいな、おまえは。でも、そいつらの世界では、常に勝ち負けが決まってるんだ。勝ったヤツは餌をたらふく食べて生き残り、負けたヤツは食べられずに死ぬ。アフリカにいたって、ここにいたって、それは変わらないんだよ』
今にも泣き出しそうな翼に、崇はそう教えた。手を貸して生きながらえさせることが良いことなのかどうかは、俺にもまだ解らない、とも言った。
翼はその水槽の前まで来て、底に沈んだ一匹の魚を見つけ、涙を堪えることが出来なかった。他の魚に比べてあまりに小さい体。翼は水槽に張り付いてその死んだ魚を見つめ、何度も何度も謝った。崇が助けないなら、自分が助けてあげれば良かった。どうしてそうしなかったのだろう。まさか死んでしまうとは思っていなかったから? 翼は泣きながら脚立を運んできて、水槽の蓋を開け、網でその小さな体を救い上げると、そっと両手で包んだ。
「翼、」
いつの間にかそこにいた崇が、翼の肩を叩いた。
「今度からは、助けてやろう。今のおまえを見てたら、そのほうが良いって解ったよ」
涙が冷たい魚を包むその手に幾つも零れ落ちる。すると、死んだと思っていた魚が、少し動いたような気がした。
『ありがとう』
「!!」
何処からか声が聞こえた。直後、手の中で、今度は確かに尾びれが動くのを感じ、翼は手を広げた。
「……こんなことが、あるのか?」
崇はとても信じられないという表情で、翼の手のひらの魚を見つめていたが、慌ててバケツを取りに行った。そこへ水槽の水を入れ、助かった魚を泳がせる。消えかけていた鱗の青色が、徐々に戻っていた。
「翼、そいつはおまえにやるよ。倉庫に余ってる水槽があるから、好きなのを探して来い」
その日、翼は、崇に手伝ってもらって小さな水槽と魚を部屋まで運び、濾過装置と一緒に机の上にセットした。元気に泳ぐ姿を眺めて、自然と笑顔になる翼に、崇は、
「その魚は一匹で飼ってると、なつくんだよ。手から餌を食べるようになる」
楽し気な様子を想像して、しばらくその水色の魚を眺めていた翼だったが、ふと和希のことが気になって、崇の目を見た。
「ああ、和希なら、大学に戻るって言ってたぞ」
『何か、悩んでるみたい』
「……うーん。……まあ、今までに聞いた中では一番やっかいそうだな」
崇は和希の悩みを聞いたようだった。
『助けてあげて、』
「俺にはどうすることもできないんだよ。……こればっかりは、」
崇は困ったように肩をすくめ、魚を大事にするんだぞ、と帰って行った。
和希は一体、何を悩んでいるんだろう。非力な自分に相談しても仕方ないと思われていることは百も承知だが、それでも翼は寂しかった。何とか力になりたくても、打ち明けてくれなければどうすることもできない。翼は久しぶりに隣に座った玲子に、相談してみることにした。
『友達が、何かすごく悩んでるの。どうしたらいいかな』
すると玲子は、私も悩んでるんだけどな、と翼を睨みながらも、詳しく話を聞いてくれる。
「仲良しなのに何も言わないのは、当然、翼に心配かけたくないからよ。そういうときは、私だったら……何処かに連れ出して、思いっきり遊ぶ!悩みを忘れさせてあげるの。どう?良い考えじゃない?」
それは良い考えだと思った。翼は玲子にお礼を言って、和希にメールしようとしたが、ふと思いとどまる。今は図面を仕上げるのに忙しいはずだ。今月中、と言っていたから、誘うのは来月になってからにしよう。そう決めて、久々に気分よく黒板の文字をノートに写し始めた。
ところが、帰宅した翼を、思いもよらない事態が待ち受けていた。元気になって泳いでいた魚が、死んでいたのだ。水温も、水質も、問題なかったはずなのに……。翼はあのときしたように、魚を手のひらで温めてみた。しかし、今度はぴくりともせず、静かに横たわったままだ。翼は魚を手のひらに乗せたまま、部屋を飛び出した。泣きながら水族館まで走り、何事かと驚く崇にその魚を見せる。
「……そうか。やっぱり、そいつはもう生きられない運命だったんだよ。おまえの不思議な力で少しだけこの世界に戻って、最後に幸せな思いができたんだ。良かったじゃないか」
泣きじゃくる翼に、崇はそう言って聞かせた。
「そいつを埋めてやろう」
崇は翼を連れて水族館の裏口から出ると、舗装していない一角に穴を作った。翼は手のひらの魚をその穴に入れ、そっと土を被せる。
「生き物の相手をするっていうのは、こういうことなんだよ。ずっとこんな仕事をしてると、慣れてきてしまうけどさ、それじゃダメだよな」
いつまでも泣き止まない翼に、今日はもういいから、と崇は家まで送ってくれた。空になった水槽を見つめ、名前もつけてやれなかったことに、また涙を零す。翼は何度も涙を拭いながら、画用紙にその魚の絵を描き、『Sirius』と名前を入れた。今度生まれ変わったときは、誰よりも強く光を放つあの星のようになってほしい、そう願いを込めて。