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another way  作者: kanon
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冬休みの出来事

 冬休みになり、翼の生活は、アパートと水族館を行き来するだけになった。魚の世話というのは意外に大変なもので、水族館が休みであろうと水質のチェックをすることは欠かせない。それに加えて普段はできない部分の掃除や水草の手入れなど、やることはいくらでもあった。

「餌は二、三日やらなくてもどうってことはないんだよ」

 崇はそう言って、逆に与えすぎるほうが良くないことを教えた。食べ残しで早く水質が悪化するのだそうだ。

「目の前に一杯弁当があっても、食べきれないだろ?残しておいても腐っていってしまうしさ。それと同じだよ」

 なるほど、と翼でもすぐに納得できる説明をしてくれる。普段はバイト同士で水槽の掃除をしていて、その時にいろいろ魚の知識を分けてもらっていたが、年末は他のバイトたちは帰省するため、崇と二人で水族館のメンテナンスをしながら学んだ。やはり崇がする話はひと味違う。それに加え、若い頃に比べて好きな魚の種類が変わってきた話や、熱帯魚が住む現地の生態についての話など、翼の興味は尽きなかった。

 崇は市内に自宅があり、そこから毎日車で通っている。本当は、自宅兼水族館にしたかったらしいが、それだけは家族の猛反対に遭って諦めたらしい。今も、魚の世話ばかりしていることをしょっちゅう咎められるのだと、翼にこぼした。

「そういえば、和希は実家に帰るつもりかな」

 翼なら知っていると思ったのか、崇がそう言ったが、翼は首を横に振った。あの雪の日から、和希とは一度も連絡を取っていない。こんなことは珍しかったが、あまりに和希に負担をかけていたことを反省した翼は、あえて連絡を控えていた。

「こないだ昼時の忙しい時間に来やがってさ、何か相談したいことがあるって言ってたけど聞いてやれなかったな……。あいつの相談事はいつも面倒なんだよ、」

 独り言なのか翼に語りかけているのか、水槽の中の珊瑚の配置を組み替えながら呟いている。崇の手が動くたびに、魚たちがざわめいた。魚の種類によっては、人の手を全く怖がらず、指先にまとわりついてくるものもあれば、怯えるあまり水槽の壁に激しくぶつかって気絶しそうになる臆病なものまで様々だ。大抵は、人影が通ると餌の時間だと勘違いして、水槽に近づけた指に群れて内側からつついた。

「よし、今日はこのくらいにしとくか」

 ようやく珊瑚の配置が決まって気が済んだらしく、崇はタオルで濡れた手を拭いて脚立を降りた。

「おまえがいてくれてホント助かるよ。できればずっとここにいて欲しいもんだ」

 その言葉に、翼は嬉しくて涙を零した。言葉も記憶も無くして、自分の居場所が何処なのかも解らず、不安に押しつぶされそうになりながらも必死に耐えていた翼には、少しでも、自分を必要としてくれる人がいることが、心の支えだった。

「翼……」

 崇は何も言わず、翼の肩を抱いて慰めた。身寄りのない者の孤独を、無理に理解しようとはせず、側に誰かがいる温かさを与えようという姿勢。それは最初から和希がそうしたように、翼の心に響いた。

「腹減ったな。今日はあいつの所に行って何か食べよう」

 翼が泣き止むと、崇はそう言って水族館を閉め、翼を車に乗せた。いつもとは逆の方向に走り出す車に、越えてはいけない結界を侵したような気分になる。翼の行動範囲はごく狭く、それは単に、記憶を無くして地理も解らない上に、自分が臆病だからだと思い込んでいた。しかし、遠ざかって行く水族館を後部座席から眺めながら、フッと心が軽くなったような、体が宙に浮くような不思議な感覚を味わい、それを心地良い、と思っていることに気がつく。ずっと前に感じたことがあるような、何かを思い出せそうな、そんな感覚。失った過去の景色が見えそうな気がして目を閉じたが、幾重にもかかったベールが邪魔をして、街灯の残像が映っただけだった。

 車が止まり、翼は崇に促されてその建物に入った。キャンドルの灯りが揺れて神秘的な店内には、嗅いだことのない、不思議な香りが漂って、まるで異世界に入り込んだような気分。様々な動物を象った、奇妙な置物が店のあちこちに飾られていて、翼の目をひいた。翼が座ったテーブルの横の壁には、丸い目を見開いた鳥のような生き物の面があり、今にも恐ろしい鳴き声を上げそうに見える。崇はそれを、インドネシアという国の神様が乗る鳥だと翼に教えた。壁のくぼみに並んだゾウは、インドの神様。よく見ると、体は人間のようだ。不思議なものが次々に目について、いつまでもキョロキョロと落ち着きのない翼を崇が咎めようとした頃、和希が姿を見せた。

「相変わらず待たせる店だな」

 和希は二人の姿に驚いたように、

「崇さん、……翼も、」

「おまえもここに座れよ。もう終わりだろ?」

 半ば強引に、和希を同じテーブルに座らせると、崇は席を立った。

「あいつに断ってくるわ」

 そう言って厨房らしきところへ勝手に入って行く。

「崇さんと、ここのオーナーは友達なんだ。崇さんの紹介でバイトさせてもらってるんだよ」

 向かい側に座った和希がそう説明した。

「……久しぶりだね。元気にしてた?」

 ほんの十日ほど会わなかっただけだったが、その笑顔も声も、すごく懐かしく感じる。

「俺もだよ、……意地を張らずに、連絡すれば良かったな」

 和希は翼の瞳から言葉を読み取り、自嘲するように言った。さらに、何か言おうとしたが、崇が戻って来るのを見て、口をつぐむ。

「今日の食事代は、おまえの給料から引いといてくれって頼んできた」

「ひどいよ、崇さん、」

 冗談だよ、と笑いながら、崇は和希を奥へ押しやってシートに腰掛けた。メニューを開いて目で追いながら、

「で、話って何だよ」

「……後でいいよ、」

「後って言ってると、また今度になるぞ?」

「……、」

 その困ったような表情に、翼は、ふと自分がいてはできない話のような気がして、和希を窺った。

『外に出て待ってる、』

「いいよ、そんなことしなくても。ごめんな、気を遣わせて」

 翼と和希のやりとりを、崇は感心したように眺め、

「何でおまえにだけコイツの言葉が解るんだ? 俺には目を見たって、何にも、……」

 そう言ってジッと翼の目を見つめる。

「……魚が泳いでるぞ、プリステラ、レモンテトラ、ブラックエンペラー……、地味な魚ばっかりだな」

 その言葉に翼は驚いた。崇も和希と同じように、翼の心を読むことができるのだ。

「翼の好きな魚なんだって。……なんだ、俺だけが翼と会話できるんだと思ってたのにな」

 少し寂しそうに、和希が言う。

「さっきまでは、できなかったんだよ。和希がいないとダメなのか?」

 おかしいな、と首を傾げる崇に和希は、

「違うよ、多分。翼が、心を開いてくれてるかどうかだよ」

 そう言って翼に微笑みかける。

「崇さんもやっと、翼に認めてもらえたってことさ」

 得意げに言う和希の頭を、生意気なヤツだな、と崇はメニューで叩いた。


 店を出て、崇の車で送ってもらった翼は、ずっと返せずにいたコートと傘を持って戻った。和希はそれを受け取ると、しばらく考え、

「崇さん、俺、ここでいいや。ちょっと翼の家に寄るから」

「そうか、じゃあまたな」

 崇は窓から二人に手を振って車を発進させた。そのランプが消えるまで見つめ、アパートの階段を上って行く。鍵を開けて中に入ると、

「翼の部屋に来るの、すごく久しぶりだよな」

 言われてみると、バイトをするようになってからは、ほとんど部屋で会っていない。

「……携帯って便利だけどさ、……会わなくて済んじゃうっていうのも、何か寂しいよね」

 店で会ってからの和希の言葉は、今までと違って寂し気で、翼は何だか心配になった。崇に話があると言っていたのも、きっと何か悩みがあってのことなのだ。翼はキッチンでココアを作ってくれている和希を手伝いながら、その悩みを尋ねていいものかどうか考える。簡単に口にできないということは、きっと、簡単に触れてはいけない、そう判断できたが、ソファに腰掛けてからも、思い詰めたように黙っている和希の様子に不安になって、

『どうしたの?』

 尋ねても、和希は取り繕うように微笑んで、何でもないよ、と首を横に振る。翼には、和希のように心を読む術が無く、ただ言葉にしてくれるのを待つしかなかった。しかし、まだ口にする気はないらしく、全く別のことを喋った。

「……明日から、実家に帰るんだ。って言っても、隣の県だから、近いんだけどね」

『崇さんが、実家に帰るのかどうか、気にしてた』

「ああ、多分、親父に何か用事があるんだろ。自分で言えばいいのにさ、仲が良いんだか悪いんだか……」

 いつものことだよ、と言って笑う。崇は普段、自分の兄弟のことなど口に出さないが、常に心の何処かには、その存在があるのだろう。翼は、自分の心の中の何処を探しても、肉親の姿を見つけられなくて、言いようもなく寂しくなる。それを察したのか、和希は思いついたように、話題を変えた。

「そういえば、バイトのみんなとは、仲良くやってる?」

 翼は頷いた。休憩時間に崇が作ってくれる食事はいつも美味しかったし、食べながらそれぞれが飼っている色んな魚の話を聞くのも楽しかった。皆、水族館で働くだけあって、海水、淡水にかかわらず魚のことに詳しい。魚の名前も、バイト仲間から教わったのが殆どだった。

「良かった。翼は大人しいから、上手くやっていけるかどうか、心配してたんだ」

 ホッとしたように言った。その表情から、ようやくいつもの彼に戻ったようで、翼もホッとする。改めて部屋を見渡した和希は、壁に星座だけでなく、魚の絵が増えたことに気付き、

「翼は絵が上手だね。すごく特徴を捉えてる」

 崇さんに見せたいよ、と褒めた。


 和希が帰って行き、翼はまた画用紙に魚の絵を描いていたが、どうしても落ち着かなくて携帯を取り出した。何を悩んでいるの?と入力したものの、悩んでいるのが自分のせいのような気がしていた翼は、送信することが出来ずに携帯を閉じる。自分は足手纏いに違いないのに、和希は持ち前の優しさで、面倒を見てくれている。尋ねても答えられないわけは、それが原因だから。悪いほうへ考え出すと、そうとしか思えなくなってきて、翼はまた、せっかく入力した携帯を閉じた。そんなことを繰り返していると、意外な人物からのメールが届いた。玲子だった。

『今何してるの? 暇だったら遊ばない?』

 地元がこの街である玲子は、帰省するというイベントもなくて年末は退屈だと言っていた。部屋に一人でいると余計なことを考えてしまうと判断した翼は、玲子の誘いに乗ることにした。迎えに来てくれると言うので窓から外を眺めて待っていると、やがて赤い車が前の道路に停まり、小さくクラクションを鳴らした。

「急に誘ってごめんね」

 そう言って、車を走らせる。崇の車は大袈裟なエンジン音がしてよく揺れるが、玲子の車は静かで、振動も少なかった。それに、タバコの匂いではなく、甘いお菓子のような香りがする。

「夜のドライブ、一度行ってみたかったんだ。免許取ったばっかだから、誰も付き合ってくれないの」

 かと言って、一人じゃ怖いし、と翼を誘った理由を述べ、どこに行きたい? と尋ねた。

「今はね、ナビがあるから、何処でも行けるんだよ」

 近くのコンビニに車を停めた玲子は、小さな画面で何やら操作し、

「流星群が見れるって言ってたけど、もう終わっちゃったかな」

 そう呟いて、ドライブと言ったら、山だよね、と同意を求めた。

 二人はコンビニで飲み物を買い、その小さな画面が示す道を走り出した。少しの不安と、期待。知らない場所へ行くことの快感を、翼はまた感じていた。しかし、車がすれ違うのがやっとな細い山道は、一歩間違えたら暗闇に引きずり込まれそうで、急に怖くなった翼は玲子のほうを窺った。彼女はそんなことお構いなしで、もうすぐ頂上だよ、と嬉しそうに言って、さらにスピードを上げる。翼は再び、窓の外に目をやった。道の脇はガードレールも何もなく、ライトに照らし出される木々の太い幹が、何処までも奥深く続く。その木の影に、何か恐ろしいものが潜んでいる気がした。それは車のライトが届かなくなった瞬間、姿を現して、襲いかかってくるに違いない。翼はとうとう恐怖に耐えきれず、ギュッと目をつむった。

 どれくらい経ったのか、ようやく車が止まり、恐る恐る目を開けた翼は、そこが舗装された駐車場で、ちゃんと灯りがついていることに安心してホッと息を吐いた。玲子はそんな翼に呆れたような顔をする。しかし、玲子がスピードを上げてくれたおかげで、恐ろしいものに捕まらずに済んだのだかも知れない。翼は心の中で、玲子に感謝した。

 辺りを見ると、他にも何台か車が停まっていて、下に見える夜景を眺めたりベンチで談笑したりしている。時間が遅いためか、宝石箱のようにキラキラと輝いていた景色も、少しずつ、光を失っていった。

「ここの夜景、有名なんだって。カップルに人気らしいよ」

 ちゃんと下調べをしてきたことをほのめかし、玲子は突然翼の手を握った。

「年下なんて、興味なかったのに、……翼だけは何か違うのよね」

 翼は事態が飲み込めず、何度も瞬きした。すると玲子は、解っているというふうに、

「初めてなんでしょ? こういうの、」

 頷いた翼に、ぴったりと寄り添う。その態度も口調も、教室で話す玲子とは全く雰囲気が違っていて、別人なのではないかとさえ思えた。

「キスしていい?」

 玲子は、何のことか解らず戸惑う翼をしばらく見つめていたが、やがて顔を近づけ、そっと唇を重ねた。繋いだままの手に、少しだけ力が入る。

「別に私のこと、好きにならなくてもいいよ。カレシいるから」

 翼には、その言葉の意味もよく解らず、ただ玲子の目を見つめる。

「でも、ホントは、好きになってほしいのかな……」

 そう言って、今度は翼をギュッと抱きしめた。

 帰り道、何も言わなかった玲子だが、翼のアパートの前まで来ると、

「ねえ、私のこと、嫌いになった?」

と、いつになく不安げな表情で尋ねた。翼はその根拠も解らず、首を横に振る。

「良かった。また誘っていい?」

 頷くと、玲子は安心したように微笑み、じゃあまたね、と手を振って帰って行った。うっすらと明け始めた空に、思ったより時間が経っていることを知った翼は、いつもと違う経験に少しは気が紛れたことに満足して、部屋に戻った。


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