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another way  作者: kanon
3/15

白く降るもの

 翼が住むアパートから大学までは、徒歩で四十五分。それが遠いのかどうかすら、最初は解らなかった。車も、バイクも、自転車の乗り方さえ知らない翼には、他に選択肢がなく、歩くことに疑問など持ったこともなかったが、新鮮だった景色が退屈なものに変わってくるにつれて、その距離をようやく把握した。特に、飛ばされそうなほど北風が強く吹き付ける日には、部屋から外に出るのも億劫になる。

「翼、講義終わったら、先週のノート、見せてくれない?」

 いつの間にか隣に座った玲子が翼に声をかけた。翼より一つ上の二年生だが、偶然隣になることが多く、それに気付いた玲子が話しかけてきてから、親しくなった。

「今度は落とせないのよ。留年したら学費払えなくなっちゃう」

 必修科目であるにもかかわらず、単位を落としてしまったらしく、今年は後が無いのだ。

「先週ね、飼ってる犬が病気になっちゃって。病院へ連れて行ってたの。保険がきかないから、一万円もかかっちゃった」

 翼のノートを写しながら、講義を休んだ理由を述べた。

『犬の名前、なんていうの?』

 邪魔になるかな、と思いながらも、知りたくなって聞いてみる。

「スピカよ」

『Spica, in Virgo?(乙女座のスピカ?)』

「……よく知ってるわね、星の名前だって」

 玲子はノートを写す手を止め、感心したように翼を見つめながら、

「翼って、ホント不思議よね。時々、人間じゃないのかも、って思えるときがある」

 急にそんなことを言い出して、翼を不安にさせた。それが伝わったのか、慌てた様子で、

「違うの、悪い意味じゃなくってね、ホラ、天使とか、神様とか、そういう感じ。間違って人間界へ降りてきちゃったんじゃないかって」

 それくらい、キレイなんだもん、男のくせに、と翼の頬を抓る。

「それとも、何処かの時代から、タイムスリップして来たのかな、」

 マジマジと見つめた後、そんなわけないよね、と笑ったが、何にしても、翼の不安は消えなかった。

「ごめんね、変なこと言って。気にしないでね」

 玲子はノートのお礼を言って、教室を出て行った。

 その日の夜、バイトが終わって外に出た翼は、カフェの前に設置されたベンチに腰掛けて、星空を見上げた。良く晴れて雲一つなく、星の瞬く音が聞こえてきそうな夜だ。いつもは憎らしいほどの北風も、今日は何処かへ姿を消して静まり返っている。真正面にはオリオン座のリゲルとベテルギウスが明るく輝き、やはりプロキオンは影が薄い気がした。スピカは次の季節まで待たないと見えないな。翼は、昼間、玲子に聞いた犬の名前を思い出していた。

「翼、まだこんなとこにいたのか」

 戸締まりをして出てきた崇が、驚いたように声をかけた。寒いだろうに、と言いながらも、翼の隣に腰を下ろす。

「どうした?」

 気遣うように翼を覗き込むその仕草は、和希に似ていて、二人の血のつながりを感じた。身寄りのない翼には、それが何だか羨ましい。崇はタバコに火を点けながら、

「他のバイトの子とモメてるなんてことは、ないよな」

 翼は慌てて首を横に振る。水族館のほうも含め、翼の他にも何人かの学生が働いているが、顔を合わせたことのある者は皆、翼に良くしてくれていた。先週も、仕事中は手が濡れていることが多く、携帯で会話をするのも面倒だろうと、ホワイトボードとペンを持ってきて壁にかけてくれた。

「いろいろ大変だろうな。でも、おまえは偉いよ。頼ってばっかりじゃダメだと思って働いてるんだろ?」

 頷いて、翼はポケットから取り出した携帯を崇に見せた。きっと、お金がかかって大変だったに違いない。

「あいつは人の世話を焼くのが趣味なんだ。好きでやってるんだから気にすることないんだよ」

 地面でタバコの火を消した崇は、送ってやるよ、と自分の車を指差した。夜でも目立つ、山吹色のクラシックカー。街で見かける他の車とは明らかに違うのが、翼にも解った。タバコの匂いの染み付いた車内で窓の外を眺めていたが、いつもと同じはずの景色の中に、白く光りながらに舞い降りてくるものを見つけて何度も瞬きをする。

「ああ、とうとう降ってきたな。どうりで寒いわけだ」

 アパートに着き、車から降りた翼は、走り去る車にお辞儀をし、おもむろに空を見上げた。白い粒は頬に当たると微かな冷たさを残して消え、すぐにまた新たな冷たさを運んでくる。しばらくその感触を楽しんでいたが、さすがに寒くなって部屋に入った。今度は窓越しにその光景を眺めながら、ずっと心から消えない言葉を取り出してみる。

『人間じゃないのかも、って思えるときがある』

 翼は小さく息を吐き、壁に貼った星座を端から順に追っていった。アンドロメダ、ペガスス、白鳥、さそり、天秤、おおぐま、こぐま、カシオペヤ……。ここに、乙女座のスピカが現れる頃には、記憶が戻るのだろうか。今の翼には、言葉より、記憶が欲しかった。せめて、人間らしく見えるだけの記憶が。

 不意に思い立って、クローゼットの奥から姿見を取り出すと、翼はその前に立って自分の姿を眺めた。この部屋に来た時、その存在がどうしても嫌で、見えないところに仕舞い込んだのだ。あれから、一度も姿を映してみたことがないが……。人間らしくないところって、何処なんだろう。恐らく玲子が言うのは、見た目のことではない。翼の不安定な内面から表れる、他の人にはない感情のせいだ。翼は鏡の間近に寄り、自分の目をジッと見つめた。しかし、どれだけ頑張っても和希のように心の中を見ることは出来ず、諦めてベッドに仰向けになる。しばらく天井を仰いでいた翼は、急に起き上がった。和希なら、心の奥に眠っている記憶も、見つけることが出来るのではないだろうか。普段は、翼が伝えたいことを心の表面に浮かべるようにして見つめると、和希がそれを読み取ってくれる。それを、今翼がしていたように、もっと近くでジッと見つめれば……。

 翼は部屋を飛び出し、今送ってもらった道をまた逆に走った。白い粒はいつの間にか大きく、柔らかく、天使の羽根のように降り注ぐ。車のライトが通り過ぎるたび、白く浮かび上がった。


「翼、どうしたんだよ? そんなに慌てて」

 コートも着てないじゃないか、と驚いたように言って、和希は翼を中に入れた。

「こんなに雪をつけて……」

 タオルで、濡れた髪を拭いてくれる。初めて聞く言葉に首を傾げていると、和希は窓を開けて翼に見せた。

「雨が凍ると、雪になるんだよ。雨は流れて行っちゃうけど、雪は積もって真っ白になるんだ」

 見ると、隣の住宅の屋根が、うっすらと白く染まり始めていた。和希は窓を閉め、翼をベッドに座らせると、お湯を沸かしてホットココアを作った。熱いから気をつけな、と翼に手渡し、椅子を翼の向かい側に持ってきて座る。

「で、何があったの?」

 翼は、懇願するような目で、和希を見つめた。

「……やってみるけど、できるかな」

 そう言いながら、椅子から降り、翼の目の前に近づいた。

「翼は、何も考えないで」

 つけていたテレビを消すと、今度は時計の音が大きく響いた。和希の真剣な眼差しが閉ざされた記憶まで届くことを願って、翼はただジッと、その瞳を見つめていた。


『僕は、誰なの?』


『何処から来たの?』


『どうして、何も思い出せないの?』



「……ごめん、翼。やっぱり、無理みたい」

 その言葉に、翼はガッカリして俯いた。涙が溢れて、零れ落ちる。

「ごめんな、役に立てなくて」

 和希の声も沈んでいて、翼は慌てて顔を上げる。和希のせいで泣いてるんじゃない。早く元通りになりたいと思うあまり、また和希に頼ってしまったことを瞬時に後悔した。和希はそんな翼の目をいつになく硬い表情で見つめ、しばらく黙っていたが、

「翼のために何でもしてやれるって思ってたのに、できなかったことがさ、……なんか、自分で思ってた以上にショックで……」

 そう言って困ったように笑う。どうしてこんなにも優しいのだろう。自分のことで精一杯の翼を、どんな時も笑顔で励ましてくれる。そんな和希に、悲しい顔をさせてしまうことは罪に思えて、一生懸命に謝ると、

「大袈裟だな、翼は」

 いつもと同じとまではいかないが、笑顔に戻った和希に、翼もホッとして涙を拭いた。和希は立ち上がって再び窓を開けると急に慌てたように、

「翼、早く帰ったほうがいいよ。こんなに雪が積もってきてる」

 自分のクローゼットからコートを取り出し、翼に着せた。傘も持たせてくれて、

「階段とか、滑るから、気をつけて帰るんだよ。家に着いたら、メールして」

 翼は頷き、真っ白に染まった道を歩き出した。いつもの車も、街灯も、何もかもが雪のベールを被って沈黙している。スニーカーの下で、圧縮された雪がギュッ、と音を立て、何か踏んでしまったかと振り返ると、自分の足跡だけが見えた。前も、後ろも、降り続く雪に囲まれて、このままかき消されてしまいそうな気がしたが、怖い、と思う反面、消えてしまっても構わない、そんな気持ちが心に浮かび、また涙が出た。


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