携帯電話
言葉を話せない翼に、携帯電話を持つことを勧めたのは和希だ。彼の不思議な力のおかげで、面と向かっていれば意思の疎通は簡単だったが、離れていると途端に不自由で、それこそ生きているのかどうかさえ解らない。和希は心配のあまり、様子を見てからでないと眠れないから、と、バイトが終わると毎日のように遠回りをして翼の部屋を尋ねた。和希の学部では、時々難しい課題が出されるらしく、さすがに大変だったのか、ある日携帯を自分の名義で買ってきて、翼に届けてくれたのだ。
「翼には、白が似合うと思って、」
勝手に決めたことを詫びた後、そう言って笑った。全く使い方の解らない翼に、根気よく、文字の入力の仕方を教えてくれる。翼の中からは、言葉や過去の記憶だけでなく、誰もが常識的に知っているはずのことも、多く抜け落ちていたが、それは徐々に、和希に教えられて身につけてきていた。
「大丈夫。翼は全部忘れてるわけじゃないよ。だって、最初、名前を教えてくれただろ」
ようやくメールの送信ができるようになった翼は首を横に振った。あれは、突然現れた鳥から連想する名前を、和希が呼んだだけ。
「そうだったとしても、翼の目を見てて思いついたんだから」
あの時の白い鳥は、和希が帰宅すると姿を消していたという。窓は閉めていたし、当然玄関も閉めたはずなのに、と腑に落ちない様子だったが、何にしても俺が逃がしてしまったことに変わりはない、と何度も翼に謝った。しかし翼には、あの小鳥が現れたことも、そして突然いなくなったことも、必然であることのように感じていた。困っている翼を見て、手を貸してくれたような、そんな気がする。
「そうか、そうなのかも知れないな。じゃあ、今度見かけたら、お礼を言わないと、」
和希の言葉に、翼も頷いた。何より、あの小鳥なら翼の記憶の破片を持っている気がして、外を歩くときはいつもその姿を探したが、手助けは一度きりだったようで、一向に現れてはくれなかった。
相変わらず、なくした記憶はその尻尾すら見せなかったが、和希と出会った日から一ヶ月あまりが経ち、空っぽだった心の中に、少しずつ、新しい記憶が住み着いてきた。小さな想い出たちは、翼を寂しさや孤独から救う力を持っている。一人になって不安な時、いつも心の中から取り出しては、眺めた。もしかしたら、和希は、想い出がたくさんあれば寂しくないことを知っていて、翼との時間を過ごしてくれているのだろうか。そうに違いないと思えてきて、テーブルの上の白い携帯を手に取った。最近は、これがあるだけで、幾らか安心できる。流れ星のような音が聞こえるたび、嬉しくて笑顔になれた。
二人は時々、大学の食堂でも会うようになっていた。携帯を持たせてもらってから、何処ででも待ち合わせができる。時間も把握できるし、誰かに話しかけられても、自分に言葉が話せないことをメールの画面で説明できて、翼からかなり、不安が減った。それで、今までは行くのが億劫だった大学へも、少しずつ、足を運ぶようになった。ただ、白くて飾り気がないため、携帯を枕元に置いたまま出掛けてしまうことも多く、そんな日はすごく大切なものを忘れてきてしまったようで、一日中、気分が晴れなかった。
翼は学生証を持ってはいるものの、実際、記憶をなくす前の自分が選択したはずの講義に、数える程しか出席していなかった。講義の内容が、理解の域を遥かに超えていて、全く意味がないことのように思えたから。同じ言語とは思えず、頭痛がするほどだった。しかし、得るものもある。講義中、学生たちが小声で話す内容に、教えられることが多いからだ。今日も、前の席に座った二人組の女子が気になることを話していた。
「携帯代、親が払ってるんだけどさ、2万越えちゃって。親から電話かかって来たんだ」
「マジで? どんだけ携帯使ってんのよ?」
その会話を思い出した翼はポケットから携帯を取り出し、和希に見せた。
「ああ、気にすることないよ。俺が勝手にしたことだし」
何でもなさそうに、和希は言った。それでも、和希に頼り切ってしまっている現状が申し訳なくて見つめると、
「……じゃあ、いいこと思いついた。週末、翼の家に行くよ」
それだけ言って、和希は午後の講義のために少し離れた教室へ戻って行った。
翼が大学に通うための学費や家賃は、海外にある孤児院から振り込まれているようだった。それも和希が大学側に掛け合って調べてくれたのだが、さすがにその連絡先までは解らなかったようだ。自分の身元がハッキリせず、不安に思っているであろう翼を励まそうと、和希はバイトや課題で忙しいにもかかわらず、しょっちゅう連絡をくれる。彼の優しさに心底甘えてしまう自分が時々イヤになって、そんなときはいつも夜空を眺めた。不思議なことに、星の名前だけはスラスラと思い出せる。季節が変わって星座が変わっても、その位置と色と明るさで、簡単に変換できた。もう何も忘れたくない翼は、その星座の形と名前を画用紙に書いて、部屋の壁や天井に貼った。
「星の名前って、ギリシャ語なんだってね」
約束通り、金曜日の夜に翼の部屋を訪れた和希は、また壁の星座が増えたことに気付いてそう言った。翼が書く星の名は、何故か原語で、そのままでは読めなかった和希は、読み方と日本語訳を調べてきたらしい。何にでも興味を持つ彼には何でもないことだったが、それに翼は感動して、自分の書いた綴りの下に、日本語の読み方を書き込んだ。
和希は食事をしたかと尋ね、首を横に振った翼を水族館へ連れて行った。カフェが夜はバーに変わるが、ちゃんとした食事も提供してくれるという。夏になると、屋上やカフェの前のスペースにもテーブルが並び、ビアガーデンの雰囲気が楽しめるらしい。
メニューを見てもよく解らない翼に、一応何を頼んだか説明した和希は、ちょっと待ってて、と翼を待たせて席を立った。昼間に来たときはその白さと水が眩しくて綺麗で、雲の上にいるような気分になったが、夜は蒼いライトに照らされて、エアーの音に耳を澄ませていると、夜の海の世界を見ているような感覚になれた。
「お待たせ、」
店内の幻想的な雰囲気に我を忘れかけていた翼は、和希の隣に知らない男性を見つけた。体格が良く、白髪混じりの髭をたくわえている。
「ここのオーナーで、俺の叔父さんの崇さん。で、この子が翼」
突然紹介されて、翼は立ち上がったものの、どうしていいか解らず和希の目を見た。
「崇さんにさ、バイトできる子探してくれって言われてて。奥でお皿洗ったり、コップを洗ったりするだけなんだけど、翼にどうかな、って思って」
簡単な仕事だから、すぐにできるようになるよ、と説明してくれる。
「へえ……、綺麗な顔してるな。フロアで働いてほしいとこだけど、」
ホントに男か?と言いながら、崇はマジマジと翼の顔を見つめたあと、
「君さえよかったら、明日からでも来てよ。前の子が突然辞めちゃって、困ってたんだ。和希は薄情だから、自分のバイトがあるからって頼んでも来てくれないしさ」
その会話で、この二人の親しさが知れた。いくらか安心した翼は、和希の目を見つめる。
「そっか、良かった。崇さん、明日から来てくれるって」
「よし! じゃあ、簡単にここの決まりだけ説明しとくか」
崇はあらかじめ持ってきた紙を翼に渡した。大きな字で、①水槽と食器は綺麗に! ②静かに! とだけ書かれている。
「大事なのはそれだけ。あとは給料だけど、ビックリするほど安い代わりに、いつでも水族館にタダで入れるようになる。って言っても、平日は暇だから洗う皿もないし、水族館の掃除をやってもらうから、イヤでも入ることになるんだけどな」
その代わり、休みの日は忙しいぞ、頑張ってくれよ、と言って厨房のほうへ戻って行った。
運ばれてきた食事をしながら、和希は少し不安げに、翼を窺った。
「……ホントに良かった? 無理矢理じゃなきゃいいんだけど」
翼は慌てて首を横に振る。実際、願っても無いことだった。話すことのできない自分にも与えられる仕事があっただけでなく、水族館にいつでも入っていいなんて。何より、これで和希に携帯の料金を払うことができる。
「崇さんは、俺の親父の弟なんだ。子供の頃から熱帯魚が好きで、大学の頃には家に水槽を置くスペースがなくなって、水槽のためにもう一部屋借りてたとか。実際にアフリカやアマゾン河まで魚を見に行ったこともあるらしいよ」
と、自分の叔父について説明し、少々、熱帯魚を愛しすぎる嫌いはあるが、人柄は問題ないと付け加えた。
帰り道、和希と別れたあと、言い忘れた言葉を思い出した翼は、携帯を取り出し、ありがとう、とメールした。たったの五文字なのに、携帯にまだ慣れなくて、時間がかかってしまう。
『明日から、バイト頑張れよ。翼のこと、ちゃんと説明しといたから、仕事で困ったことがあったら崇さんに何でも相談しな』
すぐにそう返事が来て、翼は再び、ありがとう、とメールを送った。