家に帰ろう
まだ薄暗い、早朝の砂浜。夜の間に打ち上げられた貝殻を集めながら、桟橋のほうへと歩いた。誰もいない。カモメの姿もなくて、優しい波音だけが耳に届いていた。
飛ぶことが苦手だった翼に、兄はこう教えてくれた。練習するなら風が動き出す前の早朝がいい。誰も見ていないし、急な突風に煽られることもないから。翼はその教え通り、毎朝早く起きて、何度も練習をした。そんな翼を、兄は影からそっと、見守ってくれていた。言わなくても、翼には解る。いつも同じ木の下に、真っ白な羽根が、落ちていたから。もしかしたら、兄も、小さい頃は飛ぶのが下手だったのだろうか。皆が起き出す前に、一生懸命、練習したのかも知れない。翼はふと、そんなことを思った。
まだペンキの匂いのする白いステージの上で、翼は膝を抱え、遥か遠い水平線を眺めていた。今生まれたばかりの朝日にキラキラと縁取られ、まるで翼を誘っているかのようだった。こっちへおいで、翼。そんな声が聞こえた気がして、翼は立ち上がり、まだ一度も行ったことのない、そのステージの先へと歩き出す……。
「翼!」
突然、遠くから和希の声がした。振り向くと、ステージに駆け上がり、翼のところへ走ってくるのが見えた。
「行っちゃダメだ、」
そう言いながら、翼を抱きしめた。夢かと思いながら、その温かさにホッとして力が抜ける。
「夢を見て、……翼が、俺に手を振って、何処かへ行ってしまう夢を、」
和希はしばらくの間、震えながら翼を抱いていたが、自分を落ち着けるように、深呼吸をした。
「こんなものを作って、まるで、翼に何処かへ行ってほしいみたいだよな」
翼を胸に抱いたまま、呟くように言った。
「……最初は、そのつもりだった。元いた場所に帰るのが、翼にとって一番の幸せに違いないって、思ってたから。崇さんには、綺麗ごと言うな、って怒られたけどさ」
殴られたんだぜ? と笑いながら、続ける。
「でも、俺がそれ以上に、幸せにしてやればいいんだって、気がついたんだ。兄さんと別れるのは寂しいかも知れないけど、今度は俺が、翼の兄さんになってあげるよ」
和希はそう言って、翼の目を見つめた。
「だから、一緒に家に帰ろう」
何よりも、嬉しい言葉だった。涙を零す翼の手を強く握り、和希は砂浜へと戻って行く。帰る場所がある……これ以上の幸せは、何処にもない気がした。
ステージから降り、桟橋がどんどん、遠ざかって行く。安心したのか、和希がようやく手を離すと、翼は足元に見つけた綺麗な貝殻を拾い上げた。その時、鳥の羽ばたく音がして、振り返ると真っ白な羽根が一枚、空から舞い降りてくる。翼は立ち止まってその羽根が静かに消えるのを見送っていたが、ふとポケットの鍵が音を立てた気がして、取り出してみた。
『Good bye』
キーホルダーのその文字を確認して、涙を拭った翼は空を仰いだ。今そこから飛び立ったのは、翼の過去。最後に手繰り寄せた記憶とともに、兄の元へと帰って行ったのだろう。でも、忘れたくはない。翼は、最後に兄が見せた、優しい笑顔を、そっと心の中に仕舞った。
「和希」
翼は、そう呼んでいた。驚いて振り返る和希に、思い切り抱きつく。和希の優しい声も大好きだけど、自分の声も、悪くないな。そう思うと嬉しくて、何度も和希の名を呼んだ。
「水族館へ行こう。崇さんが来たら、きっと驚くよ、」
二人は風が動き出した砂浜を、再び手をつないで歩いた。初めて会った時から、思いが通じたのは、和希が運命の人、だったから。翼はようやくそのことに気がついて、何だか可笑しくなった。
今日も、あの黒猫は、何処かで見ているのだろうか。もし見ているのなら、兄に伝えて欲しい。翼は、ずっとここにいるから、またいつか会いに来て、と。
「another way」は、いかがでしたか?
もう一つの道、別の生き方、というような意味のタイトルですが、翼のように、自分にとって居心地の良い場所を見つけられたら、と思って書きました。
幸せを得るためには、失うものもあるとわかっていても、なかなか決心がつかないものです。
葛藤と妥協の毎日を繰り返している自分にはできない決断を、主人公に託しました(^^;
最後まで読んでくださった皆様、本当にありがとうございました!