宿命の相手
体が回復し、今まで通りにバイトを再開した翼は、できるだけ、余計なことは考えないように努力した。和希が言ったように、自分は人間なのだと強く信じていればいい。考えてみれば、もしこの場所にいてはいけない存在なら、どうして部屋まで与えて、あたかもずっとそこで生活していたかのように装ってあるのか。自分は何らかの拍子に記憶をなくしてしまっただけで、生まれた時から当たり前のように人間なのだ。そう心に思うだけで、幾らか安心する。
「翼、一緒にメシでもどうだ」
土曜日の忙しいバイトを終えて着替えを済ませた翼に、崇が声をかけた。崇と食事をするのは久しぶりで、迷わず頷く。
「和希のとこへ行こう」
崇は翼を車に乗せ、和希のバイト先の店に向かった。入り口には、ちょうど客を見送りに出ていた和希がいて、二人に気付いて手を振る。いつものように、崇がオーナーに話をつけ、和希も同じテーブルに座った。
「和希、もうここを辞めるんだってな、」
タバコに火をつけながら、崇が言った。カエルの形をした灰皿を、自分のほうへ引き寄せる。この店には、不思議なものが溢れていて、来るたびに翼を楽しませてくれた。
「卒業設計が、死ぬほど大変でさ。毎日明け方までかかってやってるんだけど、全然終わんないよ、」
卒業できなかったら、せっかく就職が決まってもダメになるから、と説明する。これからは、拘束される時間の短い、家庭教師を幾つか掛け持ちするつもりらしい。実際、和希は最近、メールで連絡は寄越すものの、翼の部屋にはたまにしか現れなかった。
「それに、今そこの海岸に、市から依頼されたオブジェを作ってるんだ。夏休みまでに、って言われてて、そっちもやんなきゃいけないし、」
天使の桟橋は、あれから様子を見に行っていない。和希の悲しい顔を思い出し、意図的に海岸に近づくことを、避けていたから。しかし、もうある程度はできているような口ぶりに、早く見たくなってきた。
「翼は、寂しい時は寂しいって言わなきゃダメだぞ。おまえは何でも我慢しすぎるところがあるからな、」
崇は不意にそう言って、運ばれてきた料理を取り分けてくれる。
『大丈夫。寂しくないよ?』
「ならいいけど、」
こいつの具合が悪くなる時は、大抵、寂しいときなんだぞ、知ってたか?と今度は和希を咎めた。
「知ってるよ、翼に我慢させてしまってることもね」
『ホントに寂しくないよ? いつもすごく優しくしてくれるから、』
真剣にそう伝えると、和希は笑って頷いた。
「もしある日、目が覚めて、何処か知らない場所にいたら、どうする?」
唐突に尋ねられ、翼は不安げに兄の顔を見つめた。
「そんなの、イヤだよ。兄さんの側にいるもん、」
「……もしそんな時が来ても、泣いてちゃダメだぞ? 何とかして、生きて行くことを、考えるんだ。人に頼らず、一人でも生きていけるっていう自信を持たなきゃ」
翼には、どうして兄がそんなことを言うのか、理解できなかった。ただ、最近頻繁に、もし一人になったら、というたとえ話をする。そういう時にどうすればいいのか、答えられない翼に、ちゃんと答えも教えてくれていたが、一人で知らない場所へ行くつもりなど毛頭なかった翼は、しっかりとそれを頭に入れていなかった。そんな翼を、兄が咎める。
「翼? ちゃんと聞いてるのか?」
「聞いてるよ? でも、もし、知らないところに行ってしまっても、兄さんが迎えに来てくれるから、安心だもん」
そう、仲間たちの意地悪で、遠い辺境の地へ置き去りにされても、いつも帰りの遅い翼を探しに来てくれた。必ず見つけてくれる、そう信じていたからこそ、心細くても、一人で待っていられた。
「おまえの甘えん坊は、筋金入りだな」
呆れたように言って、溜め息をついた。その時の翼には、兄と離ればなれになることなど、想像もつかないことだった。
夏休みを目前にして、ようやく和希たちのオブジェが完成した。真っ白にペイントした木材と強化硝子を組み合わせてあり、所々、足元が透けて下の地面が見えるようになっている。バンドの演奏ができそうなくらいのステージが砂浜に広がり、そこから真っ直ぐ、海に突き刺さる感じに伸びる細い歩道の終点は、人がジャンプしても飛び移れない高さの足場が点々と続き、最後は空に向かって途切れた。『天使の桟橋』と名付けられたこのオブジェは、地上に落ちてしまった天使がまた大空へ旅立つための滑走路。しかし逆に、空から天使が舞い降りてくる時の目印にもなるのだ。和希たちのそんな思いも知らず、さっそく新しい遊び場を見つけた近所の子供たちが、ステージの上で走り回っていた
『ねえ、僕、ずっと和希の側にいてもいい?』
その問いかけに、和希は驚いたような顔をする。
「なんでそんなこと聞くんだよ、」
『……この桟橋は、僕のために作ってくれたんでしょ?』
翼はもう、自分の正体に気付いていた。帰る場所も、自分を待つ者があるということも。しかし、偶然にも二つの世界を知ってしまったなら、本当に自分がいるべき場所を選びたい。自分で見つけた、この場所を。
「翼、……」
和希は恐らく、翼を空へ返してやろうと思っていたのだ。そうすれば、記憶も声も戻るに違いない、そう信じて。
『僕ね、思い出したことがあるんだ』
翼はいつになく明るい表情で、和希に語りかける。
『僕たちのところには言い伝えがあってね、』
幾度となく聞かされて、空で言えるようになっていた。人の世界は近い。近いが、一歩足を踏み入れてしまったら、帰り道は、果てしなく遠い……。そんなふうに始まる物語は、語り聞かせる年寄りたちの口調のせいか、時折、幼い子供を泣かせる。翼もそんな臆病な子供の一人だった。人の世界に迷い込むことは、近さ故、日常茶飯にあること。すぐに気付いて引き返せば良いが、ある日、知らずに深入りしてしまった仲間がいた。見慣れない景色に不安がよぎった時には既に遅く、鮮明だった記憶がどんどん、失われていく。そして、自分が誰なのかも解らなくなって彷徨った末に、一人の人間に出会った。人間は彼に、無償で住む場所を与え、生活していくに困らないよう、計らってくれた。共に生活するうちに、彼は自分を人間だと信じて疑わなくなる。ようやく探し当てた仲間が迎えに行った時には、もう、戻れなくなってしまっていた……。
『そんな仲間が、他にもいたって、言ってた。迎えに行けば帰って来れる仲間が殆どだけど、帰って来れなかった仲間はみんな、共通点が、あったんだって。何だと思う?』
真剣な面持ちで翼の話を聞いていた和希だったが、その問いかけに、首を傾げる。
『いつまでも遊んでて帰って来ない子供に、大人が叱る代わりに言う言葉があるんだ。……同じ日に生まれた人間に捕まったら、もう逃げられないよ。同じ人間になって、死ぬまで一緒に暮らすしかないんだよ、って』
大人たちはそれを、あたかも恐ろしい呪いの伝説のように話した。帰ってきたくても、帰って来られなくなることがあると、子供たちの記憶の中に植え付けるためだ。しかし、その運命とも言える出逢いを、翼は一生、大切にしたい。
『僕ね、解ったんだ。その仲間は、帰って来れなかったんじゃなくって、帰りたくなかったんだよ』
翼の目をジッと見つめていた和希は、思い切り、翼を抱きしめた。体が震えて、泣いているのだと解り、翼も和希の背中に腕を回す。
「ごめんな、翼」
どうして謝るの、と尋ねようとしたが、翼の目からも涙が溢れ出し、ただその温かい胸に抱かれて泣いていた。
リリ、リリ、リリ。
何処からか鈴の音がして、翼は目を開けた。携帯の時計は午前三時。部屋の中には水槽の濾過器の音だけが聞こえている。カーテンの隙間から射し込む月明かりがやけに明るく、ちょうどその水槽をスポットライトのように照らしていた。魚たちは夜、体の色を失って透明になる。目を凝らさなければ全ての魚を確認することができないほど、水の色に同化していた。
リリ、リリ、リリ。
やっぱり、気のせいではない。翼は恐る恐るカーテンを開け、窓の外を見回した。何処かに潜んでいるはずの黒猫の姿が見えなくて、余計に気にかかる。しばらく窓から様子を窺っていたが、意を決して外に出てみると、そこには一人の青年の姿があった。
「やっと、会えた」
明らかに、聞き覚えのある声だった。塞き止めていた血流が勢いよく流れるように、急激に記憶が巡る。翼は目眩を覚えた。
「一緒に帰ろう。今なら、まだ間に合うから」
全身を覆えるほど大きなマントのようなものに身を包み、頭にはフードを被っている。まるで、姿を人に見られては、困るかのように。その青年は強引に、翼の腕を掴もうとした。
「イヤだよ、僕は何処へも行きたくない」
翼は後ずさりし、それを避けながら、声を出せたことに驚く。
「……おまえの恐がりを治すためにしたことが、こんな結果になろうとは、」
その言葉に翼は、全てを悟った。目覚めたら突然、ここにいた訳。それでも、翼が困らないように、生活する場所は与えてくれたこと。そして、和希に出逢った日に現れた、白い小鳥の正体も。
「このままだと、おまえは何もかも無くすことになるんだぞ? それでもいいのか、」
そのとき、アパートの屋根の上から、あの黒猫が飛び降りてきた。青い目を光らせ、翼のほうを窺うと、今度はその目を「兄」に向けた。
「こいつはもう、人間だ。連れて帰ることはできない。諦めて帰るんだな、」
意外なことを口走り、細長い尻尾をゆっくりと揺らす。まさか味方をしてくれるとは思わなかった翼は、その背中を頼もしく見つめた。
「人間なもんか。そう思い込んでいるだけだろう。さあ、早くこっちに来るんだ」
翼は首を横に振りながら、また一歩、後ろに下がる。その足元を、まるで結界を張るかのように、黒猫がぐるりと回った。
「こっちにおいで、翼。スズランのところまで、一緒に飛んで行こう。そしたら、何もかも、思い出すから」
ハッとするような、優しい笑顔だった。懐かしい、と感じた。涙が溢れて止まらなかった。差し出された手は、いじめられて泣いている翼を助けてくれた時と同じで、思わず縋り付きそうになる。しかし、本当に結界があるのか、指先が触れた瞬間、弾き返されてしまった。その様子を一瞥した黒猫は、さも可笑しそうにかすれた笑い声を上げる。
「何が可笑しい、」
弾かれた手を胸の前で握りしめ、忌々しそうに、睨みつける。
「まだ解らないのか。兄弟揃って、頭が悪いとみえる。こいつが出逢った人間は、ただの人間じゃない。……同じ日に生まれた、宿命の相手なんだよ、」
黒猫は後ろ足で耳を掻きながらそう言って、意地悪く薄笑った。その瞬間、兄の顔に絶望の表情が浮かぶ。
「……どうりで、簡単に近づけなかったわけだ、……まさか、おまえが、そうなってしまうなんて、」
最後は呟くように言った。呆然と立ち尽くし、それでも諦めきれないというように翼の目を見つめる。翼も、その目をジッと見つめ返した。確かに、似ている。大嫌いな鏡で見た自分の顔に、よく似ていた。
「兄さん、」
翼は自分の声を確かめるように、そう呼んだ。
「あの言い伝えは、呪いのお話なんかじゃないんだよ。すごく素敵な、出逢いのお話なんだよ。……そのことを、みんなに教えてあげて。人間は怖くない。怖がっているから、いつまでも仲良くなれないんだ、って」
翼の言葉に、兄は首を横に振った。
「じゃあ、あの白い桟橋は何だ? 俺たちをおびき寄せて、捕まえるためのものだろう。人間のところへ行って、幸せになったヤツなんかいないんだ。おまえにはまだ解らないだけだよ」
「ひどいよ! 何も知らずにそんなことを言うなんて、……あれは、そんなことをするために作ったんじゃないのに、」
翼はまた泣き出した。和希の気持ちを思うと、苦しくてたまらない。
「それに、僕は、すっごく幸せだから。今も、これからも、ずっと、幸せだから。誰も幸せになったことがないなんて、もう言わせないから、」
自分の泣き声で、目が覚めた。涙を拭きながら起き上がると、そこは真っ暗な部屋の中で、水槽の水が循環する音が聞こえている。
「兄さん、」
そう呼びたかったが、声を出すことはできず、ただ涙が溢れ出した。