兄とスズラン
翌朝、すっかり元気になった翼がベッドから起き上がると、ちょうど和希が外から帰ってきた。翼が食べられそうなものを、買いに行ってくれていたらしい。起きるのは熱を測ってから、と言われて再び寝かされた翼は、もう大丈夫だよ、と言おうとして、言葉を話せないことを思い出した。夢、にしてはあまりにも鮮明で、それなのに、すぐに記憶から消えて行こうとする。翼はもう一度自分の声を聞きたくて、必死にその記憶を繋ぎ止めようとした。
「翼? どうした?」
思い出せば、和希は悲しむ。それが解っていた翼は、記憶の糸から手を離し、首を横に振った。
「まだ、具合が悪いんじゃないのか」
それでも、体温計で熱が下がったことを確認すると、起きていいよ、と翼の体を起こしてくれる。
「どう? 何処かまだおかしい?」
『ううん、もう平気。お腹減った』
昨日から何も食べていなかった翼は、和希が買ってきたヨーグルトを二つも平らげ、それだけ食欲があれば、もう大丈夫だね、と笑う和希と一緒に大学へ向かった。
講義中、集中力が途切れた翼が何気なく窓の外に目をやると、真っ白な小鳥が木の枝に止まっている。よく見ると、それは和希と出会った日に翼の肩に止まったあのインコにソックリで、ジッと翼のほうを見ているように思えた。また、翼を助けようとしてくれている? それより先に、あの時のお礼を言わなきゃ。翼はコッソリ、教室を抜け出し、窓から見えていた木を探した。が、既にそこには小鳥の姿はなかった。……何かが心の奥にひっかかっていて、取れない。そんなもどかしさに、溜め息をつく。すると、
『今日、講義が終わったら一緒に帰ろう』
和希からのメールが届いた。途端に嬉しくなって、携帯を抱きしめる。一緒にいられる時は、いつも一緒にいたいと言ってくれた和希に、自分も同じ気持ちだと早く伝えたかった。
自分は一体、何者なのか。その答えは、もうすぐそこに見えている気がした。それでも、自分は人間なのだと信じたい気持ちが、その記憶を遠ざけている。もしあの黒猫が言った通り、このままここに留まることで人間になれるのなら、過去の記憶など捨てて、和希と暮らしたい。翼は、そんなことを思いながら、初めて和希に会った木陰のベンチで、彼が来るのを待っていた。ふと見上げると、キラキラと降り注ぐ木漏れ日が綺麗で、風が吹くたび揺れる梢の音に、だんだん眠くなってくる。そよ風が優しく頬を撫で、その心地良さに、翼はとうとう、目を閉じた。
『もう、充分だろう。帰っておいで、翼』
暗い空間に、静かな声が響く。自分が何処へ向かおうとしていたのか、急に解らなくなり、翼は足を止めた。今の声、……兄さん? 翼は声のしたほうへと、歩き出した。すると、
『翼、そっちに行っちゃダメだ!』
翼の背後から、今度は和希の声が聞こえた。途端に暗かった視界に光が満ちて、思わず目を伏せる。眩しさは涙を呼び、翼の頬を伝った。
『お願いだから、ここにいて、俺の側に、』
『僕は、何処へも行かない、ずっと……』
「翼、翼、」
激しく揺り起こされ、翼は重い瞼を開けた。涙で霞む視界に、和希の心配そうな顔がある。
「……良かった、……全然目を覚まさないから、怖かったよ」
和希は大きく息を吐きながらそう言って、起き上がった翼の隣に腰を下ろした。涙を拭う翼に、心配そうに、
「大丈夫か? 怖い夢でも見た?」
『……思い出すのが、怖いの』
翼は、ついにそう打ち明けた。眠ると、少しずつ、思い出してしまう。今も誰かが、翼を連れ戻そうとしている。
「そんなことないよ。大丈夫。翼は人間なんだから。きっと、夢のせいで、そう思い込んでしまってるだけだよ」
和希はいつになく力強く言って、翼を抱きしめた。
「俺も、ずっと、怖かった。朝起きたら、翼がいなくなってて……、どれだけ探してもいなくて、……そんな夢を毎晩のように見るんだ。でも、それは、自分の思い込みなんだよ。翼は人間に決まってるのに、こんなに綺麗な顔をしてるから、天使なんじゃないかって思えるだけなんだって。だから、翼、もう何も心配しないで、俺の側にいれば大丈夫。夢は、すぐに消えて行くよ」
その言葉に、翼の心の中の不安が、大きく和らいだ。自分が何者なのか。そんな疑問を持つ根拠など、最初から何処にもないのだ。和希の言う通り、夢の中で生まれた猜疑心が現実にまで現れているだけで、それは全く無意味な感情なのかも知れない。
「さあ、そろそろ行こうか。遅刻して崇さんに叱られるといけないからな」
和希はそう言って翼の手を取り、歩き出した。
カフェに着くと、相変わらず暇そうに窓際の席で美和と崇がコーヒーを飲んでいた。
「もういいのか? 夏風邪はしつこいから、あんまり無理しないほうがいいぞ」
『大丈夫。もう治ったよ』
「おまえは人一倍鈍感だから、心配なんだよ」
崇は和希に、ホントに大丈夫なのか? と念を押す。
「多分ね。今日は俺が休みだから、翼を手伝おうと思ってついてきたんだ」
手伝うほどの仕事もなさそうだけど、と崇の隣に腰を下ろす。翼は更衣室で着替えて厨房に入った。
「そう言えば和希、来年から住む部屋は何処にするつもりだ」
崇と和希が、そんな会話を始めたからか、美和が空のカップを持って厨房へ戻ってきた。
『昨日は、休んじゃってごめんね』
「ホントだよ。暇すぎて、死ぬかと思った」
もう大丈夫? と翼の額に手を当てていたが、
「そういえば昨日ね、不思議なお客さんがあってね、」
翼が食器を洗い始めた横で、美和が思い出したように言った。
「和希さんくらいの歳の、すっごくカッコイイ男の人が来たの。席に案内しようとしたら、店の中を見るだけだから、って、ホントにフロアをジッと見てたんだけど、」
今思えば、誰かを探してるみたいな感じだったな、と独り言のように言って、
「突然、小さな鉢植えのスズランを取り出して、これを店に飾って欲しい、って」
ガシャン!
思わず、洗ったカップを床に落としていた。また寒気がして、体が震える。力が抜けて、その場に座り込んだ。
「どうした、」
崇と和希が慌てて様子を見に来た。
「昨日の変なお客さんの話をしたら、急に震え出して、」
美和も狼狽えているのが解った。和希は震える翼を優しく抱き寄せ、大丈夫だよ、と声をかける。
「ああ、ちょっと不気味だったな。そんな話を翼にするなよ、恐がりなんだから、」
割れたカップを拾い集めながら崇が咎める。翼はまた吐き気を覚え、口を押さえた。
目を開けると、いつの間にかアパートのベッドの上だった。どうやら、恐ろしさのあまり意識を失ってしまったらしい。ゆっくりと起き上がると、魚に餌をやってくれていた和希が気付いて側に来た。
「良く寝てたね」
そう言って、額に手を当てる。
「俺がいけなかったんだ。まだバイトに行くには早すぎたのに、」
ごめんな、と謝って翼を優しく抱きしめた。翼はまだ怖くて、和希の胸にしがみつく。しばらくすると和希は、少し躊躇いながらこう口にした。
「美和から聞いたよ。……その人に、心当たりがあるんだね」
翼は咄嗟に首を横に振った。和希には心配をかけたくない、そう思う気持ちが翼に嘘をつかせる。
「翼、俺にだけは、ちゃんと話して。もしその人が悪い人でも、何も知らなきゃ、翼のこと守れないよ」
思えば、最近、隠し事が増えたせいか、和希の目をしっかりと見つめることができなくなっていた。和希はこんなにも、自分のことを思ってくれているのに。
『ごめんなさい』
翼は初めて逢った頃のように、心の全てを和希に見せた。和希の瞳に見つめられて、翼の心はどんどん軽くなっていく。一つ残らず話してしまうと、体調まで良くなってきた気がした。
「そうか、……翼の兄さんか、」
複雑な表情で、和希は溜め息をつく。
『夢で見ただけだから、解らない、』
「そうだね。あんまり気にせずに、今まで通りにしていれば大丈夫だよ」
和希はそう言って、翼の頭を撫でた。カフェにスズランを持ってきた人物は、ここに高校生くらいの男の子がいるだろう、その子がいつも座っている窓際の席に、この鉢植えを飾って欲しい、と言ったという。崇が、高校生は雇っていない、と言うと、何も言わずに立ち去ったらしい。
「でも、もし本当に翼が……」
そこまで言って、和希は口をつぐみ、こう言い直した。
「もし翼に、帰るべき場所があるのなら、そこで待っている人がいるってことだよ。ずっと、翼が帰ってくるのを、待ってる、」
そう言って閉じた和希の瞳から、涙が零れ落ちた。翼も、堪えきれずに涙を零す。帰るべき場所、それはここなのだと、誰でもいいからそう言って欲しかった。
『和希、僕は、天使なんかじゃない』
「うん、解ってる」
二人は抱き合って、いつまでも泣いていた。