天使の桟橋
午後の講義が休講になり、アパートに戻った翼は、窓の外の青空に惹かれて再び外に出た。白いフワフワした雲が流れていて、それを追って行く。雲はどんどん海のほうへ流れて、やがて堤防の向こうへ逃げた。翼はコンクリートの急な階段を降り、砂浜を歩いて波打ち際へ佇んだ。さっきの雲の行方は、僅かに湾曲した、遥か遠い水平線。徐々に海との境界線に近づき、やがて姿を消した。
ふと見ると、少し離れた砂浜で、十人ほどが何やら作業をしている。気になった翼は、波打ち際に沿って貝殻を集めながら歩いて行った。どうやら学生のようで、長いメジャーや大きな物差しのようなものを使いながら、楽しそうに声を上げている。さらに近づいて行くと、学生たちが気付いて手を止めた。
「あ、君さ、和希の友達だよね、」
どうやら、建築学科の四年生のようだ。いつか製図室で顔を合わせた学生が、翼のことを覚えていて声をかけてくる。見たところ、和希の姿はなかったが、
「和希、もうすぐ来るよ」
それを聞いて、さっきから目の前で学生たちがしている作業が気になっていた翼は、和希が現れるのを待つことにした。邪魔にならないように、少し離れたところに腰を下ろし、彼らの様子を眺める。どうやらここに、何かを作るようで、海の中にまで入って測量している。
「翼?」
作業に見入っていた翼は、和希の声に驚いて顔を上げた。
「どうしたの、こんなところで」
どういうわけか、その表情に、明らかに不安の色が窺えて、翼も急に不安になる。
『何をしてるのか、見てただけだよ、』
「……そうか、ごめん、」
和希は取り繕うように微笑み、講義は休み? と尋ねた。
『ここに何を作るの?』
「ずっと海のほうまで、歩いて行けるように、木を組んで道を作るんだ」
和希は、砂の上に簡単な完成図を描いて、教えてくれた。二十メートルほどの長さのその歩道は、満潮の時の海面より高く設定してあるため、いつも海の上を歩けるらしい。翼は急に、その完成が待ち遠しくなった。
「天使の桟橋、っていうタイトルなんだ。歩道の一番先は、だんだん高くなっていって、最後は空へ向かっていくイメージで……天使がそこから、空へ飛び立てるように、」
その開放的で明るいイメージとは裏腹に、和希の声は沈んでいた。自分たちで作る桟橋の完成が楽しみではないのだろうか。翼はそれが気になった。やがて和希は翼の側を離れ、他の皆と同じようにメジャーや三脚のついた測量機器を使って作業を始める。翼は、これから、ここへ様子を見に来る楽しみができたことに満足し、今集めてきた貝殻を白鳥座の形に並べ、来た道を戻った。
バイトを終え、部屋でプリステラの泳ぐ水槽を眺めていた翼は、和希たちが作ろうとしている「天使の桟橋」のことを考えていた。地元の若者が少ないこの街の、活性化のためのオブジェとして、市から依頼されて考えたものらしいが……。どうして和希はあんな顔をしたんだろう。まるで、翼にその桟橋のことを、知られては困るみたいに。その理由は……? 翼は、砂浜と浅瀬にまたがるステージから細長く伸びた歩道の先へ走り、その先の柱の上へジャンプして飛び上がる自分の姿を想像して、ハッとした。急に寒気がして、体が震える。もう、思い出したくない。そう感じたのは、初めてだった。
その夜遅く、いつものように和希が翼の部屋を訪れた。部屋の明かりをつけ、ベッドで震えている翼に驚いて駆け寄って来る。
「翼、どうした?」
翼は和希にしがみついた。呼吸がうまくできなくて、苦しい。
「大丈夫か? 具合が悪い時は、すぐに連絡しておいで」
和希は翼を抱き起こし、優しく抱きしめた。その体の熱さに気付いて、体温を測らせる。
「風邪ひいたのかな、」
体中が自分の思うようにならず、まるで借り物のようだった。心と体が分離してしまいそうな感覚。息苦しさはどんどん酷くなり、やがて、翼は嘔吐した。
「翼、」
大丈夫か、と心配そうな和希の声が、遠くに聞こえる。何度も何度も嘔吐して、ようやく苦しさから解放された翼は、ぐったりと和希にその体を預けて眠った。
「おまえの羽根だけ、なんで白いんだよ?」
「できそこないだからだろ?」
中傷されることには慣れていた。翼はただ、ジッと俯いて、相手の気が済むまで待つ。
「今度、泥の沼に落としてやろうぜ。そしたら、色がつくだろ」
他の子供たちは皆、淡いグレーなのに、翼だけ真っ白な羽根。その上、成長が遅いのか、体が小さく、飛ぶ能力も低いため、いつもバカにされていた。ただ一つの救いは、歳の離れた兄の存在。翼が理不尽にいじめられているのを見るといつも助けてくれる。しかし、ただ甘やかすだけではなく、出来の悪い弟に厳しさと優しさを持って接した。兄も翼と同じ白い羽根の持ち主だったが、翼のような扱いを受けることはなく、それどころか、その堂々とした振る舞いと美しい容姿で、一目置かれている。狡猾な子供たちは、その兄の目の届かないところで、翼をいじめた。
目が覚め、翼は真っ先に自分の体がそこにあることを確認してホッと息をついた。和希も安心したように、翼の髪を撫でる。
「気分は良くなった?」
頷きながら、昨夜の異様な苦しさを思い出した。
「熱もあるし、夏風邪だよ、きっと」
病気に慣れない翼には、ただの風邪も人の何倍にも辛く感じるらしい。今日はもう学校は休みな、と言って、和希は温かいミルクを作ってくれた。
「バイトも休んでいいから。俺が崇さんに連絡しておくよ、」
さすがにまだ起きる気力のなかった翼は、素直に頷いてミルクを飲み、また横になる。平日だから、店もそれほど忙しくはないはずだ。しかし、講義の時間なのに、翼の側にいてくれようとする和希に申し訳なくなり、翼は再び起き上がった。
『僕、一人で大丈夫だよ。ちゃんと寝てるから』
「……解ってても、心配なんだよ。学校に行ったって、講義どころじゃないから」
気にしなくていいよ、と優しく翼を寝かせる。
「後悔したくないんだ。……翼の側にいられる時は、いつも一緒にいたい。そうしないと、絶対に後悔するから、」
和希は自分に言い聞かせるようにそう言って、また、あの悲し気な表情を見せた。
『どうしたの? すごく、悲しそう』
「馬鹿みたいなことだから、気にしないで」
もう寝たほうがいいよ、と翼の瞼を塞ぐ。その手のひらから伝わる温かさが何とも言えず心地良くて、翼はすぐに眠りに落ちた。
「翼、早く来いよ、」
「待って、そんなに急がなくてもいいでしょ?」
翼は懸命に兄の後を追っていた。朝一番に咲いたスズランの花を、ある場所へ届けなくてはならないというのだ。しかし、まだ辺りは薄暗く、目的地もそれほど遠くない。
「夜明けはビックリするほど早いんだ。水平線から光が見えたら、あっという間だぞ」
兄はそう言って、ますますスピードを上げる。翼はついてこなければよかったと後悔しながらも、遥か前を行く兄の姿を見失うまいと、必死でスピードを上げた。兄は他の仲間たちと違って、翼に対する厳しさはあるものの、冷たく見捨てたりはしない。いつも本当にはぐれてしまう前に、速度を緩めて待っていてくれた。
「ねえ、スズランを持って行って、どうするの?」
「……何だ、そんなことも知らずについてきてたのか?」
呆れたように、兄は朝露に濡れたスズランの花をそっと手折る。
「これは、サインなんだよ。もし誰かが『他』の世界へ行って、こっちの世界のことを忘れてしまったら、それっきりになってしまう。でも、ここにいる俺たちが思い出させてやれば、また戻って来れるんだ。朝一番のスズランの香りには、その強いチカラがあるんだよ」
「じゃあ、僕がもしそうなった時は、スズランをいっぱい持ってきてね」
「バカだな、おまえみたいな恐がりが、人間のところへなんて行くもんか」
突然眩しい陽射しが降り注ぎ、夜明けは早いという兄の言葉が本当だったことを知った。あまりの眩しさに目を閉じた翼は、そのまま意識を失ってしまった。