夢の中の記憶
初夏の香りが、真っ青な空を吹く風に乗って届いた。日に日にたくましくなる陽射しは、若葉の色を徐々に濃くしていく。カフェの窓ガラスにはブラインドが下ろされ、冬の間はあんなに世話になった太陽の光を遮っていた。外の景色は見えて、陽射しは遮る、その微妙な角度を調整した翼は、満足していつもの席に座った。一年で、今と秋口だけが、エアコンを切って天然の風を感じられる貴重な季節なのだと、崇は言う。翼も、開け放った窓から入り込んでまた何処かへ飛んで行く風が、時折連れてくる花の香りや潮の香りを感じながら、その気持ち良さを味わっていた。
「おまえがここに来て、半年か。もうすっかり慣れたみたいだな」
崇が向かいの席に腰を下ろした。相変わらず平日の午後はヒマで、一時間に一組、客が入れば良いほうだ。
「何か、思い出したことがあるか?」
その問いに、翼は少し迷った後、
『思い出したのかも知れないけど、……でも、夢なのか、よく解らない』
「……例えば?」
『小さい頃、空を飛ぶ練習をしてて、いつも木の枝にひっかかって、落ちちゃうの。他のみんなは僕より全然上手で、僕を置いて先に行っちゃって……。悲しくて、毎日泣いてた』
崇はしばらく何も言わず翼の目を見つめていたが、
「……もし誰にも話してないなら、まだ言わないほうがいい。特に、和希には、黙っとけ」
翼はその言葉の意味を理解して、すぐに頷いた。先日、和希は、何も思い出してほしくない、と言っていたから。
「思い出したっていいんだ。全部思い出した上で、ここにいるか、元いた場所に帰るか、翼が決めればいい。……まあ、俺は、ここにいてずっと店を手伝って欲しいけどね」
そう言って、崇は、魚の様子を見てくるわ、と水族館のほうへ歩いて行く。まるで翼に、ちゃんと帰る場所があることを知っているかのようなその言葉に、強い不安がよぎった。自分の過去を取り戻したいと思う反面、何かを思い出すのが怖い、と感じることもある。自分が何者なのか、それを知ることがすなわち、ここから去ることだという気がして。その葛藤の中にいる時、翼はいつも、言いようのない寂しさに涙を零した。
水族館の屋上に並べたパラソル付きのベンチが賑わう季節になった。無料で開放していて、すぐそこが海ということもあり、サーフボードを抱えた水着姿の学生も多い。前もって崇から聞いてはいたが、この季節の土日は休む暇もないほどの忙しさだ。オープンテラスの席も使えるため、必然的に広くなった店内だが、それでも順番待ちの客が出るほどの盛況ぶりだ。
「この時期だけ、俺がもう一人いると助かるんだけどな」
皿洗いに追われる翼に、崇が言う。翼自身も、自分がもう一人いれば、と思っていたところだ。このカフェでは手のかかる料理などは出さないし、殆どが飲み物や冷たいスイーツのオーダーばかりだったが、それでも次々と客が入れ替わってまた新しいオーダーが入ると、厨房はパニック状態だった。フロアに出ている准一と美和も、空いたテーブルから食器を下げてくる間に、次のオーダーを受ける状態で、よく間違えずに覚えてくるな、と翼はいつも感心していた。
日が傾き始めると、夜のバーの準備のために一旦店を閉める。翼たちは、ようやく空になったフロアで一息ついていた。残りの氷で作ったかき氷に真っ赤なイチゴのシロップをかけてもらい、その甘くて冷たい食感に思わず顔が綻ぶ。
「でも、翼もすごく慣れてきたね。足りなくなってる食器を、すぐに解ってくれるから助かるよ」
准一も、同じようにかき氷を食べながら言った。夏のメニューに変わって一ヶ月経ち、暇な時間にその美味しそうなパフェやジュースの写真を眺めながら、自然に覚えたのだ。最近では、准一や美和とも携帯やホワイトボードを使わずに目で会話ができるようになり、それも仕事の効率を上げるのに貢献している。
「ああ疲れた。これだけ働けば、痩せるかな」
最近ますます腹が出てきたと嘆いている崇が、アイスコーヒーを片手にフロアに下りてきた。夏はビールが美味しいからいけないんだ、とよく言っているが、翼にはまだ、ビールの美味しさは解らない。以前に少しだけ飲ませてもらったが、ただ苦いだけでつまらなかった。
「最近和希の姿を見ないけど、元気にしてるか? そういや、就職先が決まったって、言ってたな」
翼は頷いて、
『家を建てる仕事をするんだって』
「ああ、そうだってな。あいつ、意外と細かい作業が向いてるみたいだから」
いつか、製図室で図面を描いていた和希を思い出した。あの真剣な眼差しを、もう一度見てみたい気がする。
「和希さん、こっちに残るんだ。地元に帰るんだと思ってた」
准一が驚いたように言うと、崇がチラッと翼のほうを窺い、
「誰かさんの側を離れたくないらしい。まあ、地元で就職しようとしてたあいつに、俺が翼を連れて行くなって言ったんだけどな」
「そっか、でも良かったね、翼。和希さんのこと、大好きだから」
准一の笑顔は柔らかくて、優しい。大らかで明るい和希の笑顔とはまた違った印象だったが、翼を癒してくれることには変わりなかった。驚いたのは、准一が好きだと言った相手が、美和だったこと。翼と二人だと、いつも喋ってばかりの美和だが、今日のように准一も一緒になるときは、人が変わったように大人しかった。
夜になり、すっかり静かになった屋上で、翼は星を眺めていた。時折、夜風にパラソルがはためいて、パタパタと音を立てる。こと座のベガ、わし座のアルタイル、白鳥座のデネブが、大きな三角形を描く、東の空。再び、優しい風が頬を撫で、その感覚にフッと体が軽くなるのを感じた。風に体が浮かぶ感覚……。それを容易に想像することができて、翼は急に不安に襲われる。人は、空を飛ぶことなど出来ない。誰もそのことを口にしないのは、当たり前すぎる事実だから。皆、当たり前の、人間だから。
リリ、リリ、リリ。
いつかの鈴の音が聞こえてきた。翼は、久しく忘れていたあの黒猫の姿を暗闇の中に探す。すると、隣の住宅の屋根に、青い目が光った。そこから二メートルほど低い水族館の屋上へ飛び移り、しなやかに着地する。翼の近くまで来て、その足を止めた。不思議と、以前ほどの怖さはない。翼を射るように見据えるその水色の目を、見つめ返した。
『闇を怖がらなくなったな』
『いけないの?』
『……つくづく馬鹿なヤツだ。おまえはそれだけ、人として成長してしまったんだ。人間として過ごした時間が過去を越えるとき、おまえはもう戻れなくなる』
翼は、その言葉に驚き、
『僕、人間になれるの?このままここにいれば、』
黒猫はその光る目を細め、何も答えずに消えた。自分に過去がどれだけあったか知らないが、ここでずっと生活していれば、人間になれるというのか。今までは黒猫の言葉など、信用していなかった翼だったが、明るい希望の光が見えた気がしていた。
「翼、何してるの」
和希の声がして、翼は振り返った。こんな時間に現れるということは、今日はバイトが休みなのだろう。翼は、黒猫のことを話そうかとも思ったが、和希に心配をかけてしまう気がして思いとどまり、
『星を見てたの、』
そう嘘をついた。和希は翼の隣に並んでそっと肩を抱き、翼の額にキスをした。和希に抱かれているとき、翼は全ての不安を忘れられる。それは、和希が、翼の正体にかかわらず、大事に思ってくれているから。きっと、僕は人間になれる。翼は強く心に思い、和希の胸に顔を埋めた。