バースディプレゼント
待ちわびていた春が訪れ、その風の香りと空の色、緑の景色に、気分まで明るくなるようだった。分厚いコートもマフラーも脱ぎ、身軽になった嬉しさで、通学路を歩く足取りも軽くなる。大学を囲む桜の木から、風とともに舞い降りてくる薄いピンクの花びらが綺麗で、その下を歩くのも楽しかったし、道端に咲く小さな花を見つけては、立ち止まって眺めた。二年生になって、少しだけ翼を取り巻く人間が変わった以外は、生活に特に目立った変化もなく、バイトも順調にこなしている。そんな中、翼にはもうすぐやってくる、和希の誕生日に何をプレゼントするかが、最大の課題だった。
『和希は、何がほしいかな』
水族館の掃除をしながら、准一に尋ねてみた。
「うーん。何だろう。何にもいらない、って言いそうだけど」
以前尋ねたときに、そう言われたことを思い出して、少し驚いた。
『どうして解るの』
「だって、和希さんってすごく大人だしさ。気持ちだけでいいよって、言いそうじゃない?」
翼はまさしく和希が言ったそのままを言い当てた准一を、尊敬の眼差しで見つめた。そんな准一なら、もっとよく考えれば和希のほしいものが解りそうな気がしたが、自分に解らないのが何だか悔しくて、携帯を閉じた。日頃、和希と会話をしていても、和希は翼に色々尋ねはするものの、自分のことはあまり喋らない。翼が尋ねれば答えてくれる、という程度だった。
翼はつくづく、和希や崇のように、目を見て心の中の言葉を見つける力が羨ましくなり、厨房の崇に、どうすればできるのかと尋ねた。すると崇は途端に呆れた顔になり、
「馬鹿だな、おまえは。それは、俺たちの力じゃなくて、おまえの力なんだぞ? 現に、准一や和希が何を考えてるかなんて、目を見たってさっぱり解らないしさ。でも、目は口ほどに物を言うって、納得だな」
感心したように言いながらフロアに出て行き、ブラインドを閉じて、閉店の準備を始める。照明を落とし、仕切りの水槽の中のエアーの電源を切ると、途端に静寂がやってきた。美和と一緒だと、いつも喋っているせいでエアーが切れたのかどうかも解らないが、口数の少ない准一と一緒の時は、その何とも言えない瞬間を味わえる。
家の方向が似ている准一とはいつも、途中まで一緒に帰ることにしていた。猫が恐いと言った時、そう申し出てくれたのだ。今はその恐怖も薄れて、だんだん慣れてはきたが、それでも誰かが一緒なのは心強い。
「和希さんは多分、翼と一緒にいられるなら、それだけで幸せなんじゃないかな」
分かれ道まで来た時、不意に准一が言った。
「僕だったら、誕生日は好きな子と一緒にいたいって思うから」
『好きな子、いるの?』
「いるよ」
最近になって、ようやく、『好き』という言葉を使い分けられるようになった翼は、准一にもそういう相手がいることを、少し意外に思った。
「店にもう一人、山本さんって人がいるんだけど、その人が一番和希さんと仲が良いから、何かほしいものを知ってるかも知れないね」
じゃあ、おやすみ、と准一は手を振って、自分のアパートのほうへと姿を消した。山本という人物とは、まだ顔を合わせたことがない。というのも、翼たちが大学に行っている時間帯を主に手伝っているからだ。歳は翼たちとは少し離れていると、崇が以前言っていた。一人になった翼は、久々に空を見上げ、そこにスピカが輝いているのを見つけた。そういえば、玲子と最近顔を合わせていない。あの講義の単位は無事取れたのだろうか。そんなことを考えながら、また歩き出した。
翌日、午後の講義が休講になったのをいいことに、翼はそのまま水族館に向かった。昨夜、准一から聞いた山本に会うためだ。和希の誕生日はもう三日後に迫っていて、未だに何の準備もできていない。焦るあまり、走ってカフェに飛び込んだ翼は、そこに和希の姿を見つけて驚いた。翼の知らない男性と食事をしながら何か話していたようだったが、和希のほうも驚いた様子で、会話が止まった。
「そんなに慌てて、また黒猫が出たか?」
厨房から、からかうように崇が声をかける。他の客もあったため、翼は大人しく、厨房に入って行った。
『ねえ、山本さんってどこにいるの?』
「なんでおまえがそいつに用事なんだ?」
『准一から教えてもらったの。和希と仲が良いって、』
翼は、誕生日のプレゼントを早く準備したいのだと訴えた。すると崇はフロアを指差して、
「和希と一緒にいるのが彰だよ、山本彰」
翼は親しそうに話す二人を見て、
『和希にナイショでやりたいの』
難しいことを言うな、と面倒くさそうに言いながらも、
「彰、そっちの話が終わったら、ちょっと手伝ってくれ、」
と、山本に声をかけてくれた。早く来たって、給料は変わらないからな、と翼に釘を刺し、水族館のほうで待ってろ、と言った。
言われた通りに水族館の大きな水槽のところで待っていると、やがて山本が姿を現した。翼を見つけて、ああ、君か、と近づいてくる。
「聞きたいことがあるって?」
翼は頷いて、携帯の画面を見せた。
『和希の、誕生日に、プレゼントを渡したいんだけど、何がほしいかな』
山本はその画面を見て、腕組みをする。
「欲しいものか……。物欲のないヤツだからな……」
首を傾げる翼に、物じゃなくていいなら知ってるよ、と、意味ありげに笑った。
「今も話してたんだけどさ。あいつ今、就職活動をやってて、地元に戻るか、こっちで就職するか、悩んでるんだ。ここは田舎だし、給料も安いから、戻れば? って言ったら、どうしても一緒にいたい子がいて、その子を連れては行けないから、って言うんだ」
山本はそこまで話して、翼をソファにかけるように促した。自分も隣に腰を下ろし、
「最初は連れて行くつもりでいたけど、崇さんがダメだって反対するから困ってる、って。もし地元に戻って就職したら、その子と会える時間はほとんどなくなるし、それじゃあ、何のために働くのか解らない、ってさ」
翼は、言葉が出てこなかった。ただ、山本の目を見て、次の言葉を待った。
「まあ、最後は本人が決めることだけど、そこまで思ってもらえるなんて、幸せ者だよな、その子も、」
山本は、そう言って翼の肩をポン、と叩き、お先に、と裏口から出て行った。幾つも涙が溢れて、頬を伝う。自分の存在は、和希にとって、邪魔になっているのではないかと思うこともあった。優しいから、気にかけてくれるけれど、本当はすごく負担なのではないかと心配していた。翼は自分が許せなくなって、そのまま外に飛び出し、屋上への階段を駆け上がった。目の前に海が見える。穏やかで、空の青を映していた。和希の、心の中のようだ。大きくて、深くて、優しい。
「翼、こんなところにいたのか」
和希の声。翼は慌てて涙を拭いた。
「彰さんと、なんの話をしてたの?」
翼の目が赤いことに気付き、心配そうに顔を覗き込む。
「もしかして、……いじめられた?」
からかうように言う和希は、彰が話した内容に、察しがついているようだった。
「そういえば、翼の誕生日、解ったよ。書類を見て、ビックリした。俺と同じだったから」
思いもよらなかった言葉に、翼は呆然と和希の顔を見つめた。
「何が欲しい? 誕生日のプレゼント。なんでもいいよ」
逆に尋ねられて、翼はようやく、和希の気持ちが解った。何もいらない、和希がいてくれれば。
「……、」
和希は何か言おうとして声を詰まらせ、代わりに翼を抱きしめた。翼の瞳からも、また涙が溢れる。翼は、初めて和希の背中に腕を回して、ギュッと抱きついた。
カモメの声が、遠くに聞こえる。優しい風が二人を包むように通り過ぎて、潮の香りを運んできた。翼は和希の腕の中で、心地良く響く、彼の鼓動を聞きながら、いつまでも泣いていた。
二人の誕生日に、崇はなんと店を貸し切りにして待っていてくれた。何も知らない翼は突然のクラッカーの音に驚いて、思わず和希の後ろに隠れる。和希は知っていたようで、今日はバイトは休みだよ、と、髪についたテープを取ってくれた。美和も准一も山本もいて、おまけに崇の家族も来ている。料理の手伝いをしに来てくれたようだった。二人の男の子はテーブルの隙間を走り回って、叱られては大人しくなり、また走り回った。
「翼ー!ハタチの誕生日、おめでとう!」
美和が、小さなグラスを二つ、運んできた。
「崇さんがね、翼のためにカクテルを作ってくれるんだよ」
厨房から崇と准一が、瓶に入ったお酒を幾つか持ってきてテーブルに並べる。崇は銀色の容器にそれらを量って入れていき、カタカタと軽快な音を立てて振った。何色の液体が出てくるのか、ドキドキしながら見つめていると、それは淡い綺麗なブルーで、細かい気泡が幾つも浮かんでくる。翼はその色に、シリウスのことを、思い出した。
「少しずつ、飲むんだぞ。まあ、和希が見てるから大丈夫だとは思うけど」
崇はそう言って、また厨房に戻って行った。和希は、小さな気泡のはじける音に耳を傾けていた翼に、
「お酒を飲む前に、翼に話したいことがあるんだ」
いつになく真剣な表情の和希に、翼は少し、不安になる。それを察したのか、難しい話はしないから大丈夫だよ、と笑った。
「翼は、ここが好き?」
迷わず、頷いた。
「大学を卒業しても、ここで働いてほしい、って、崇さんが言ってるんだけど、それでもいい?」
翼は再び、頷く。言葉を話せない翼には、他にできることがあるとは思えないし、何より、水族館の仕事もカフェの仕事も、すごく気に入っていた。
「良かった」
和希はホッと息を吐いて、いつもの笑顔になる。翼も、それにつられて笑った。
「それで、ここからはまた別の話なんだけど、」
今度は少し、緊張したような面持ちで、大きく息を吸い込んで、深呼吸すると、
「……俺、翼とずっと、一緒にいたいんだ。今はまだ学生だから、自由な時間も多いし、学食で会ったり、バイトの帰りに様子を見に行くことだってできるけど、就職したらそうはいかなくなる。……それでね、考えたんだけど、来年の四月から、同じ家に住まないか?もちろん、翼さえよければ、だけどさ。そしたら、遅くなって帰っても、翼のこと心配で眠れないってこともないし、……」
そこまで話して、和希は困ったように翼の目を見た。
「なんか、俺、自分のことしか考えてないね」
そう言って溜め息をつく。翼は、その申し出に涙が出そうになりながら、
『すごく、嬉しい。僕も、和希と一緒にいたいの。和希のこと、大好きだから』
家族もいない、記憶も戻らない、そんな孤独と不安から抜け出せる日が本当に来るのかと、翼はずっと心配だった。しかし、その不安が心を覆ってしまう前に、いつも和希が安心をくれる。そばにいるだけで、幸せだった。
「翼……」
和希はようやく、安心したように、微笑んだ。翼も安心して、
『もう、これ、飲んでいい?』
「いいよ、少しずつね」
そう言って、少しだけ、飲んでみせる。翼も真似て、少しだけ、飲んでみた。
「どう? 美味しい?」
翼は嬉しくなって、頷いた。それは記憶のない翼にも、何だか懐かしい、という気持ちを呼び起こすような、不思議な味だった。ふと、これをたくさん飲めば、記憶が戻るかも知れない、と思った翼は、和希が崇に呼ばれて目を離した隙に、一気に飲み干した。
フワフワと、雲の上を漂っている感覚。小さい頃、上手く飛べなくて、何度も練習したことを思い出した。少し飛んでは、休憩し、他の子供たちはどんどん先へ進んで行くのに、自分だけ、取り残されて、いつも泣いていた。
「へたくそ!」
疲れきって座り込んだ翼を、バカにする声。
「おまえ、ホントは人間だろ」
「きっとそうだよ、人間が、ニセモノの羽根をつけてるんだ」
「おまえみたいなヤツ、人間のところへ行ってしまえ!」
そう言って、さっさと行ってしまった。翼を置き去りにするために、わざと、遠く離れた場所まで来る。ついて来るのがやっとな翼が、周囲の地理を覚えているはずがなかった。
「待って、」
次々に飛び去って行く仲間たちの背中。最後の一人が飛び立つと、翼は再び力なく座り込んだ。でも、一人なら、どれだけ泣いても大丈夫。そう思うと、涙が止まらなかった。
「翼、しっかりしろ、」
『お願い、置いてかないで、』
「……翼?」
そこは、カフェのシートの上のようだった。皆が心配そうに見ているが、眠くて、眠くて、目を開けていられない。今、見ていた夢を、思い出さなくてはいけない気がして、必死に記憶の糸を辿っていたが、
「翼、起きろ。そっちに行っちゃダメだ、」
その強い口調に、翼は我に返った。ようやくしっかりと目を開けた翼を見て、皆ホッとしたように、
「もう、少しずつって言われたじゃない」
「初めてなんだから、慣らしてからじゃないとダメだよ」
和希だけは、何も言わず翼を心配そうに見つめている。
『ごめんなさい、』
謝ると、和希は首を横に振って、
「何処にも行くな、翼」
そう言って、翼を強く抱きしめた。
誕生日のプレゼントだと言って、崇からプリステラを十匹もらった翼は、和希と二人で水槽の準備をし、さっそく泳がせてみる。すぐに群れを作り、元気に泳ぎ回る姿に、翼は嬉しくて和希の顔を見上げた。
「良かったな。大事にするんだよ」
以前にシリウスを死なせてしまったことで、すごく落ち込んだ翼だったが、今度は長生きさせてあげたいと、まだ小さいその魚たちを見つめた。
「……翼、」
和希の、躊躇うような声に、翼は顔を上げた。
『どうしたの?』
和希はしばらく口にするべきかどうか迷っている様子だったが、思い切ったように、
「何か、思い出したのか?」
意外な質問だった。夢なのか、記憶の破片なのか、曖昧すぎて判断ができない。翼は、戸惑いながら首を横に振った。その朧げな映像も、刻一刻と色褪せて行くのを感じながら。
「……こんなこと言ったら、怒るかも知れないけどさ、俺、翼が何も思い出さなきゃいいのに、って思ってる。思い出してしまったら、翼はきっと、自分のいるべき場所へ、帰ってしまう。そんなの、考えただけでも寂しくて、」
思ってもみないセリフに、翼は何も言えず、ただ視線を落とした和希の悲し気な姿を見つめた。翼の中には、記憶を取り戻したいと思う気持ちは前と変わらずに存在していたが、同時に、ずっとこの場所にいたいと思う気持ちも強く持っていた。一度無くした記憶より、和希と出会ってから積み重ねてきた記憶のほうが、今は大切に思える。翼は、和希の顔を覗き込んだ。和希が悲しい顔をしていると、自分まで、悲しくなってくる。和希にはいつも、笑っていてほしかった。
「ごめん、変なこと言って。悲しい顔する日じゃないのにね」
和希は思い出したように、翼の携帯を貸して、と言った。背を向けて、何かしていたが、やがて携帯を翼に返す。青い、星の形をしたストラップがついていた。キラキラと、蛍光灯の光をとらえて、反射するのが綺麗だ。
「プレゼント、って言っても、もうずっと前から持ってたんだけど。ほら、携帯を持ったばかりの頃、よく家に忘れてきてただろ?それで、何かつけたら目立つようになるんじゃないかと思って買ったんだけどさ、」
いろいろあって、渡せなかった、と恥ずかしそうに謝った。青く光る星といえば、シリウス。翼の、一番好きな星だ。
『僕も、何かプレゼントしたいよ。今からじゃ、遅いかな、』
壁の時計は、午前零時を少し回っていた。ガッカリした翼は、俯いてしまう。
「俺は、翼といられるのが一番嬉しいって言わなかったっけ?」
少し怒ったように聞こえ、翼は慌てて顔を上げる。すると、和希は翼に一歩、近づいて、
「じゃあ、キスしていい?」
翼が頷くと、和希は顔を近づけ、そっと唇を重ねた。今までに感じた何よりも優しくて、温かくて、自然に涙が溢れる。何度もキスをしているうちに、体が宙に浮かぶような気がして、
『僕は、空を飛べるのかな』
和希は一瞬真剣な表情を見せたが、
「……多分ね、」
そう言って微笑み、もう一度翼にキスをした。