小さな水族館
以前の作品にも書いたような気がしますが、私の小説の「ボーイズラブ度」は10段階で1.5くらいしかありません(^^;
なので、苦手な方も、きっと最後まで読んでいただけると思います。
読んで良かったと言っていただけるように頑張りますので、よろしくお願いします!
濃紺の夜空に、冴えた光が幾つも瞬いている。さっきから、そのひときわ明るく光って三角形を描く星の名前の一つを思い出せなくて、ずっと考えていたが、記憶の糸はプッツリと切れてしまったらしい。ついこの間までは容易くその糸を辿れたのに、と思うと悔しくて、立ち止まって空を仰いだ。白く凍る息。自分は生きた人間なのだと確認できて、ホッとする瞬間。冷えきった空気にさらされた頬が痛くなってきて、手袋をした手のひらで温めてみる。……もう、何も忘れたくないのに。心でそう呟いて、再び歩き出した。
ふと翼は、普段は通り過ぎる交差点を海のほうへ曲がってみた。この寒いのに、回り道をすることを思い立ったのだ。そうすれば、何かの刺激で星の名前を思い出すかも知れないと思ったから。バイトの帰りに通る道は、時折車の下に潜む黒猫の位置が違うだけで、あとは毎日、同じ。いつも吠える犬の声、路駐する車のタイヤの角度、真夜中なのにキャップを目深に被ってウォーキングをする男性。住宅の窓から漏れる明かりが消されるタイミングさえ同じで、時々、これが毎日繰り返すようにプログラムされた、3Dの映像なのではないかと疑いたくなる。アパートの近くに一カ所、切れかけた街灯があり、翼が真下を通る時、いつもスパークするように光った。
波の音が聞こえてくると、翼は誘われるように堤防の階段を降りて行った。誰一人いない真冬の砂浜を、細いナイフのような三日月が、弱々しく照らしている。翼は波打ち際に佇み、遥か向こうの、暗く深い果てを見つめた。何があるのか、どうやったらそこまで行けるのか、翼には想像もつかなかったが、その場所に自分が探し求めているものがあるような気がして、ジッと目を凝らしてみた。闇に浮かび上がるのは、その漆黒をさらに塗り潰す黒いもの……。つかみ所のないものを見ていると、不意に吸い込まれそうな錯覚に襲われる。何かとてつもなく大きな力で、翼を闇に取り込もうとしているように思えた。その引力に負けまいと何度も瞬きをしながら、爪先の痺れるような痛みに足元を見ると、スニーカーが海水に浸っている。……さっきまで、波はもっと穏やかで、遠かったはずなのに。寄せる波の曲線が、翼を捕まえようとする巨人の指先に見えてきた。急に怖くなった翼は、足をとられそうになりながら砂浜を走り、階段を駆け上がると、そのまま振り返らずにアパートまで一気に走った。
「はぁ、はぁ、はぁ、」
部屋に飛び込んだ翼は、肩で息をしながら、部屋中の灯りをつける。まだ持ち歩く癖のついていない携帯をベッドの上に見つけて、和希にメールした。
『怖いよ』
すると、少しの間もなく、和希からの返事があった。
『すぐ行く』
それを見た翼は、ホッとして床にへたり込んだ。まだ体が震えている。呼吸が落ち着いて、ようやく濡れた靴下を脱いだとき、インターホンが鳴った。
「翼、入るよ」
和希の声がして、ドアが開く。裸足で床に座り込んだ翼の姿に驚いた顔をして、
「どうしたんだよ、何があった?」
「……、」
翼は和希の瞳をジッと見つめ、今の出来事を心に浮かべた。星の名前を思い出したくて、いつもと違う道を通って海に行ったこと、海の向こうを見つめていたら、闇に引き込まれそうになったこと。
「プロキオンだよ、」
いとも容易く口にしたその名前に、翼は憎らしささえ感じた。探しても探しても見つからなかったものは、結局何度も見た引出しの中から現れる。三角形の頂点は、シリウス、ベテルギウス、プロキオンだ。自分で壁に貼った画用紙にその名を見つけて、溜め息をついた。
「海まで行く前に、俺にメールすれば良かったのに、」
呆れたように、和希は笑った。
和希と翼が知り合って、ようやく三ヶ月が経とうとしている。鰯雲がレースのように薄く広がる頃、大学の庭のベンチで眠っていた翼は、誰かに揺り起こされて目を開けた。翼を心配げに見つめる瞳。それが和希だった。
「ビックリした、死んでたらどうしようかと思ったよ」
屈託なく、そう言って笑い、自分がこの大学の三年生で、提出期限の迫った課題のために休日を返上していることを語った。和希は、何も言わない翼を特に咎めることもなく、
「水族館へ行かないか、」
と誘った。
波音が届くほど海に近い、和希のアパートのそばに、小さな水族館がある。コンクリート打ちっ放しの箱のような外観をしたその建物は、殆どが壁でできていて、道路からは硝子張りの明るいカフェしか見えないため、一見、ここが水族館だとは解りにくい。辺り一帯には古い家屋が多く、時の流れもゆったりと感じる街並みに、そこだけ突如として近代的な空間に切り替わっていた。金持ちの熱帯魚好きが高じて始めたというその水族館は、魚の名前や生息地などの説明は一切なく、知識のない者はただ、色とりどりの魚を眺めて楽しむしかない。しかし、自分でも魚を飼っていたり、専門家並みの知識のある客には好評で、そのコミュニティから評判が広まり、今では休日になると遠方から足を運んで、時間の許す限り、水槽を眺めて楽しむという客が増えた。最初は建物の風貌の異様さに近づこうとしなかった近所の人たちも、その盛況ぶりに安心したのか、休日に子供を連れて来たり、暇を持て余す老人がのんびり過ごす場所に選んだりと、ようやく受け入れられつつある。
和希に案内されて入った水族館の中は、トップライト(天窓)から射し込む柔らかな太陽光を利用して、本当に海の中に光が射し込んでいるようだった。壁に映る、魚や波の影。実際にはないはずの浮力を微かに感じる。魚たちは、そこを水槽の壁だと知っているのか、勢い良く泳いで来ては、ぶつかる寸前で向きを変えた。
「ここは、ホントは夜がすごいんだよ」
和希は、水槽に張り付くようにして魚を眺める翼に、そう教えた。
「彼女と喧嘩してて、もうダメかと思った時、ここに連れてきたら、仲直りできた」
種類ごとに群れて泳ぐ小さな魚が光を反射し、スパンコールを縫い付けた布が風になびくように見える。悠々と単独で泳ぐ大きな魚がその布を引き裂いて通り過ぎる。破れたはずの布はやがて自然に修復され、何事もなかったかのようにはためいた。
いつまでも魚に飽きない翼が満足するまで待ち、和希はもう一つ、お気に入りの場所を教えた。地面に埋まったコンクリートの箱の外に一カ所、階段が設置されている。それを上ると、住宅の二階の床程の高さの屋上にたどり着く。天気の良い日には、そこにパラソルやテーブルが並び、海を眺める人たちで賑わうのだ。所々に、強化硝子がはめ込まれたトップライトがあり、昼間は光を取り込んでいるその窓が、夜は柔らかな光を放ち、それは幻想的なのだと自慢げに話した。
翼には、和希にあの場所で起こされるまでの記憶がない。水族館を出て、自分の帰る場所が何処なのか解らなくて、ようやくそのことに気がついた。そんな翼を見て、和希は驚いたような顔をしたが、
「俺の目を見て」
不安でどうにかなりそうな翼の目を、ただジッと見つめる。
「心の中で、何か思い浮かべてみて。……そうだ、名前は?」
そう尋ねられても、何も浮かばない。自分がどうしてあんなところで眠っていたのか、どれだけ考えても思い出せなかった。するとその時、突然耳元で大きな音がして、何かが肩に乗った。恐怖に目を閉じた翼に、
「大丈夫、インコだよ。きっと何処からか、逃げてきたんだな」
和希の言葉に恐る恐る目を開け、自分の肩に目をやると、それは真っ白で可愛らしい、小さな鳥だった。
「名前、思い出すまで、翼って呼んでいい?」
和希はその小鳥を自分の指にとまらせようとしながら、言った。翼は、根拠など何処にもなかったが、それこそが自分の名前であると確信しながら頷く。
「じゃあ、翼。ポケットの中に何か、入ってない?」
言われて確かめると、一つだけ、鍵が入っていた。小さなキーホルダーはそれ自体が何かの鍵のような形の金属で、『Good Luck』という文字が彫り込まれている。和希は自分のアパートに翼を連れ帰り、まず街中の不動産屋に電話をかけた。たった一つの鍵を頼りに、M大学の近くに物件があり、そこの学生に部屋を貸しているという店を一軒一軒回ってようやく翼の家を突き止め、最後はその場所まで、翼を送り届けてくれた。
鍵が開いて電気がつくのを確かめると、和希はホッとした様子で、
「疲れただろ、ゆっくり休めよ」
自分こそ、わけの解らない家探しに付き合わされて疲れただろうに、笑顔でそう言った。翼は感謝の気持ちを心にいっぱい浮かべて、和希の目を見る。
「お礼なんていいよ。宝探しみたいで、楽しかったし」
意外すぎるセリフに、驚いてしまう。何の得にもならない人助けを、楽しいと言えてしまう包容力の大きさ。迷惑をかけてしまったと翼が気に病む前に、その必要はないと言ってくれる心遣いに、翼はひどく感動した。
ふと、さっきの白い鳥のことを思い出し、翼がジッと見つめると、
「ああ、あのインコなら大丈夫。ちゃんと預かっておくよ」
餌を買ってこなきゃ、と呟く。それでようやく、翼に笑顔が戻った。不思議なことに自分から逃げ出そうとしないので、そのまま連れて帰ったのだ。
「そうだ、何か書くもの、ある?」
和希は部屋の中から紙と鉛筆を探し出し、自分の名前と住所、電話番号、学部と学生番号まで書いて、翼に渡した。
「何かあったら、連絡しておいで。……って言っても、無理か」
しばらく考えた後、
「じゃあ、翼に会ったあの場所、いつも通るから、あそこで待ってて」
そう言って、帰って行った。
初めて見る部屋の中で、それでも誰かがちゃんと生活していた形跡をあちこちに確認して、翼は途方に暮れた。何一つ、思い出せない。さっき不動産屋で和希と見た契約書から、自分が佐々木 翼という名前で、M大学の一年生だということは解ったが、両親は既に亡くなっていて兄弟もいないらしく、同意書の欄には当然知らない人物のサインがあった。
翼は、居心地の悪いその部屋のベッドに腰掛け、握りしめていた和希のメモを眺めた。杉本 和希、という名前なのだ。それだけでホッとして、涙が溢れてくる。初対面にもかかわらず、和希は本当に親切にしてくれた。思わずつられてしまいそうな笑顔と、明るい声は、記憶のない翼を容易に安心させる力を持っている。そして何より、あの瞳。見つめると、フッと心が軽くなった。それは、外に出られないでいる翼の心の中の言葉を救い上げてくれるから。人は、思いを伝えると、心が軽くなるのだということを、知った。
翌朝、目が覚めた翼は、そこがやはり、見覚えのないアパートの一室であることに愕然とした。どうやら自分が置かれている状況は夢でも何でもなく、現実。何処かへ行ってしまった記憶は、たった一晩眠ったくらいでは戻って来てはくれなかったらしい。窓の外には雲一つない澄んだ青空が広がっていたが、翼は心細さに涙が出そうになってきた。どれだけ部屋の中を見回してみても、記憶に結びつくものはなく、諦めてソファに腰を下ろす。すると、小さなテーブルの上に、たった一つだけ、くしゃくしゃになった白い紙が目についた。翼にとって、唯一の記憶。翼はその紙を、今度は丁寧に四つ折りにし、ポケットに仕舞うと、意を決して部屋の外へ出た。昨日の記憶は辛うじて翼を、大学へと導いてくれそうだ。帰り道を忘れないように、何度も何度も振り返って景色を焼き付けながら、歩いて行った。
昨日のベンチを見つけ、そこに腰を下ろすと、翼はようやくホッと息を吐いた。辺りに学生の姿が見えないのは、今日が休日だからだとも知らずに、ただ時間が過ぎるのを待っていると、二羽のキジバトが飛んで来て、近くの木の枝にとまった。翼が危害を加える存在ではないと判断したのか、やがて羽音を立てて地面に舞い降り、餌を探して歩き始める。二羽はつがいらしく、時折話をするかのように、お互いに顔を向けながら、だんだん翼の足元に近づいて来た。その可愛らしさに、今日初めて翼が笑顔になる。しかし、手が届きそうなところまで来て、その羽根に触れようと身を乗り出した途端、驚いて飛び去ってしまった。ガッカリして俯いたが、それは翼のせいではなかったようで、後ろから靴音が、聞こえてきた。
「翼?」
その声に、今度は翼が驚いた。
「やっぱり。アパートにいなかったから、ここじゃないかと思って来てみたんだ」
鍵もかけないで出掛けちゃダメだよ、と咎める。和希は、翼が心配で、朝から様子を見に来てくれたようだった。不安と悲しみに満ちていた翼の心に、明るい光が灯る。
「お腹減っただろ?一緒にご飯食べよう、」
和希はそう言って、翼を再び水族館へと連れて行った。開店前のようだったが、和希の知り合いらしく、すんなりと席に案内してくれる。その真っ白で光に満ちた空間に、翼は目を見張った。白を基調にした店内は、テーブルの仕切り代わりに薄いアクリル水槽が設置されていて、エアーの細かい泡でその視界を遮る工夫がされている。オープンテラスにもなる硝子張りのカーテンウォールは、まだ昇りきっていない太陽の光を取り込んで、驚くほど明るかった。
「眩しいくらいだろ?丁度、朝日が真っ直ぐに入って来るんだよ」
特に計画したわけではないが、偶然、光の通り道に建ててしまったらしい。
『雲の上にいるみたい、』
翼の感想に、和希は驚いたような顔をし、すぐに目を細めて笑った。
「翼は子供みたいだな、」
ホントに大学生?と尋ねられ、途端に不安になる。何も、解らないから。何も、思い出せなくて、心細くて、和希に会いに行ったのだ。
「……、そうだよな、ごめんな。俺に出来ることがあったら、何でもするから。心配しなくて大丈夫だよ」
その言葉に、ようやく安心した翼は、さっきからずっと耳元で鳴っている小さな音が気になって、耳を澄ましてみる。妖精の内緒話のような、小人の奏でるメロディのような、その可愛らしい音の正体を探ると、それは水槽の中で気泡がはじける音だった。
『どうして、魚がいないの?』
水族館なのに、と不思議に思って尋ねてみる。すると、
「いるよ?ホラ、そこ、」
和希は翼の真横の水槽を指差した。しかし、そこも細かい気泡の壁があるだけで、魚の姿はない。
「あ、今度は後ろに行った、」
翻る魚の尾ひれを見た気がして、後ろの水槽を振り返るが、そこにも魚はいない。見つけられないのが悔しくてジッと目を凝らしていると、突然和希が笑い出した。
「ウソだよ、翼は疑うことを知らないね」
からかわれたにも関わらず、和希の笑顔につられて、翼も笑った。和希は簡単に、翼に笑顔をくれる。一人でいたら、とても笑うことなどできないのに、和希といることの安心が、そうさせるのだろう。孤独と不安の闇から、少しでも遠ざけてやろうという、優しい心遣いに気付いて、翼はまた、感謝の気持ちで一杯になった。
「翼が笑うと、何だかすごく嬉しくてさ、」
和希は照れたように言って、翼の笑顔が見れて良かった、と、また笑った。
そこへ、二人分の朝食が運ばれてくる。そして、見つけた。カプチーノの泡に描かれた、小さな魚を。