第105話 春の嵐の最終ホール
新緑芽吹く琵琶湖畔のゴルフフィールドに春の嵐が吹き荒れている。
17番ホールのティーグラウンドに立った時、グリーンとの間を隔てる大きな池の岸部に波しぶきが上がるのが見えた。まるで目に見えない龍が池の中から天空に駆け登るかのように高々と飛沫が上がっていき、ザザーッと岸部の芝に降りかかる。隔てる樹木がないから水面を突風が吹き抜けて行ったのだろう。
≪ひでえ風になって来たもんだ≫
≪ああ。こりゃあやってる選手は大変だ≫
≪前の組は風に煽られてショートだってえのに一番よかったのでボギー。あとはダボ2人にトリプルだったもんな≫
≪上空と下で風向きも強さも違うだろ? まるで渦巻いているみたいだ≫
≪こんな嵐じゃあプロだって風向きは読めないよ≫
≪こりゃあ最終組もよくてボギーってところじゃないか?≫
≪あと残り2ホールだから競技委員も今さらここで延期にはできんだろうしな≫
ティーグラウンドを取り囲むカメラマンや取材記者たちの会話が、風にのって思いがけない近さで聞こえてくる。
「嫌なことが聞こえちまったぜ」
一緒にラウンドして来た水府中将学園の勝野君がボソッとつぶやく。
「さながら池とバンカーにプラスして吹き荒れる突風というハザードが増えたってわけだ」
前のホールでバーディーを取ってトップに並んだ陸奥高校の田中君も口調とは裏腹、直面する困難に緊張した面持ちで言う。
「さあて、まずはランちゃんのお手並み拝見。われわれはそれを見てから攻め方を考えますかね、ご同輩」
こういう意地悪な言い方をボクみたいな“可愛くて綺麗な女の子”にも言えるところがいかにも東郷君らしい。彼は錦旗学園の人気No.1男子なのだそうで、優しくすれば優しくした、冷たくすれば冷たくしたで、キャーキャー女の子たちが騒ぐんだとか・・・全国放送の方の女子アナが教えてくれた。そんな東郷君といっしょにラウンドしているボクは見栄えがして、テレビ的にはとってもいい絵になるんだと。ボクとしては何ら、そう“何ら”興味を抱かない“埒外”の対象でしかないのだが。
さてと、どう攻めたものか・・・。17番はパー3のショートホールながら距離は205ヤードと長い。ボクの飛距離は3番ウッドで210ヤード、5番ウッドが200ヤードだから、風次第では池ポチャにも大オーバーにもなってしまう・・・と、その時ティーグラウンドにも猛烈な風が吹き付けて来て上半身を煽られた!
「おっと。大丈夫かい?」
ボクがよろけたところを東郷君がすかさず支えてくれる。すぐに女の子に手を差し伸べて来られるところも彼らしい。
「あ、ありがとう」
「そんな華奢な身体つきじゃあメリーポピンズみたいに飛んで行っちゃうよ」
「じゃあ、試しに傘を広げてみようかな」
「あはは。その意気その意気。バーディーオナーさんのベストショット期待しているよ」
確かに結構な強風だけど自分で自分の身体も支えられないなんて・・・やはりこの身体で3日間大会はキツかったのかな。男子に交じって10キロを超える重いキャディーバッグを背負って戦い続けてきたんだもの、知らず知らずに疲労が蓄積されているのかもしれない・・・。ボクは東郷君の腕の中から抜け出ながら「あと2ホールあと2ホール頑張るだけだ」と心の中で拳を握りしめた。
ティーペグの上に球をセットし、後方からピンまで実際の距離感とレイアウトを見通してみる。
横に細長く広がったフランスパンのようなグリーンが、手前の池と奥で待ち受けるバンカーにしっかり守られている。ただでさえ狭く小さく見えるのだが、今日は風のせいでいつも以上に遠く感じられる。こんな強風の中でどこへ打てばいいって言うんだ・・・。
この距離だとボクのショットでは落ちてからの球足を殺すのは至難のワザだ。距離を合わせて打てばグリーンで跳ねて奥のバンカーだろう。スピンのかかる高い弾道を打てば飛距離が足りず池の中・・・うまく追い風にのれば届くかもしれないけど、それじゃあ運任せになってしまう。
となるとギリギリ届くクラブで池の際に落として球足を殺し、なんとかグリーン内に止めるしかない。ボクはキャディバッグから5番ウッドを抜き出すと、寒さで強張っている身体をほぐす為に2度3度とスイングした。
勝利する為には絶対ミスは許されない。今は自分を信じるのみ。精神を集中・・・静止した位置から上体をトップポジションまで回転させたとき、
≪ビューッ≫
突然強い風が吹き出した。ボクはそのまま一歩下がるとショットを中断する。
「すみません。仕切り直しさせてください」
競技委員と同伴競技者の方に向かって言うと頷いてくれた。時間が掛かっているから遅延行為と取られる危険性もあるのだが、競技中断となってもおかしくないような強風だから大目に見てくれているみたいだ。
風が収まったので再びスタンスをとる。クラブを構えながら弾道をイメージする、そしていつものように球を打ち抜くことだけに集中・・・無心に・・・無心に・・・と、そのとき頭の奥に懐かしい感覚が沸き出して来た・・・あれ?・・・これって?・・・ひょっとして?・・・あの感覚じゃないか! 次の瞬間、突然頭の中でイメージが炸裂した!
あ・・・風が見える! 赤く色の付いた風が上空を右から左に大きな河のように流れていく! そのすぐ下には緑色の風が渦を巻く様に時計まわりに旋回している! ボクを中心に全天周360度に感覚が拡大していく! 知覚半径は300メートル以上あるみたいだ! あ・・・ボクの後方からは黄色い風が地表面を滑走するようにもの凄い勢いで迫ってくる! 振り向いてもいないのに後ろの風の動きまで見えた!
と、イメージの中に突然金色の龍が現れた。キラキラ光る航跡を残しながら龍は黄色い風から緑の風の流れに乗ると高く舞い上がり、右に流されてからストーンと急降下してグリーンに舞い降りる。これだ!
ボクは躊躇うことなくバックスイングすると、いま見た龍の軌跡に乗れとばかりに球を打ち抜いた。
≪パシーーーーン≫
打ったと同時に後方から突風が吹いて来る。吹き上げるフォローウインドに乗った球は、まるでティーグラウンドから離陸するみたいに急激に高度を上げると、途中から大きな時計盤に乗せられたように右旋回していく。
「ああ、風に持っていかれたぞ!」
「いいショットだったのに惜しい!」
「ん?」
「待てよ・・・」
「これは・・・」
「ひょっとして・・・」
グリーンを外し右のガードバンカーも越えて風に流れて行くように見えた球が上昇をやめて上空で一瞬停まった。まるで大きな見えない手のひらで行く手を押えられたみたいだ。
すると落下しながら左に戻り始めた。
「な、なんだ?」
「み、右に旋回していた球が左に曲がって行くぞ!」
「そ、そんなバカな!」
そしてボクの球はグリーンの上空に押し戻されると放り投げた小石のように真下にストンと落ちた。
≪トーン トン≫
≪ツツーッ≫
≪カシャッ≫
落下して転がった球は真っ直ぐピンへと向かうと、ピンフラッグに当たってしまった。
≪うおおおおっ!!≫
≪ピンそば30センチ!!≫
≪バーディーチャンス!!≫
大会関係者や取材していたマスコミから声が上がる。
「・・・」
「・・・」
「・・・」
ティーグラウンドから球の衝撃でピンフラッグが揺れているのが見えたが、同伴競技者たちからの声はなかった。3人とも相当衝撃を受けている様子だ。
ボクは強烈な疲労感に襲われて座り込みたい衝動にかられたけれど、なんだかとっても懐かしくとっても幸せな気分だったので、今のショットの余韻を楽しみながらどうにか足を踏ん張ることができた。
≪パシーーーーン≫
≪パシーーーーン≫
≪パシーーーーン≫
他の3人が打ち終わったグリーン上には、ボクの球しか乗ってなかった。先に打って見せたボクのショットは、全然参考にならなかったみたいだ。
「“終盤に来て大変なことになっています・・・はい? そうです・・・え?・・・これからですね?・・・では、そういう感じで・・・分かりました!”」
18番ホールのティーグラウンドに上がって行くと、カメラクルーと打合せしている女子アナの声が風にのって切れ切れに聞こえてきた。
「キリュウ君。凄いショットだったわね。テレビ局の人たちが大騒ぎしているわよ」
日本ゴルフ連盟の河原理事がボクを待ち受けていた。
「ああ、河原さん」
「あら? キリュウ君、キミまた少し痩せてない?」
河原さんにはボクが今のショットで消耗しているのが見えているんだ。思えばいきなり360度全方位であの感覚を拡大してしまったのだ。感覚の全方位解放は重力の少ない惑星ハテロマですらままならなかった。イージス艦のフェーズドアレー・レーダーのように方向をギュッと絞り込むことで、ようやく1試合持たせられたのだ。地球の重力では疲労感も格段に違ってきて当然だろう。
「そ、そうですか? そんなことより、やっと現れましたね。ずっと河原さんの姿が見えないなって思っていましたよ」
「あら、嬉しいわね。キリュウ君、わたしのことを気にかけてくれていたんだ」
「津嶋さんの要請でもう一度ボクをチェックしに来たって言ってましたから・・・」
ボクがそう言うと破顔した。
「もちろん見ていたわよ。テレビ局のモニターでね」
「テレビ?」
「そうよ。キミは人気者だから、キミだけを追いかけるカメラチームがいたのよ。数台のカメラで打つところと球の落ちるところを押えてくれるから、実際について歩くよりもしっかりチェックできたわけ。それにズームレンズでキミの可憐な姿をアップで見せてくれるでしょ? 可愛い仕草や何気ない表情も楽しめるしね」
「・・・」
そうか、ボクはずっとカメラで追いかけられていたんだ。ん? じゃ、じゃあ・・・ひょっとしたら・・・オッパイを持ち上げて見せたところも録られていた? ううっ、恥ずかしい・・・。
「なに照れちゃっているのよ。あ~わかった。男の子たちにキミの形のいいバストを持ち上げて見せていたことね? いっしょにモニター見ていた先生方もキミの可愛い仕草に夢中だったわよ。ま、いいじゃないの。そんなことができるのも女の子の身体だからだものね。で、話は戻るけど、いまテレビ局の人たちが大騒ぎしているのは最終ホールの生中継が決まったからなのよ」
「生中継?」
「そう。後半に入ってもキミがずっとトップ争いしているもんだから、急遽生中継したいって申し入れがあったのよ。ナニワ放送ってこの時間、丁度ワイドショーで生番組だからそこに最終ホールの様子を差し込みたいんだって。大会の後援をしている放送局からの申し入れだし大会本部としても否やはないわけ。高校ゴルフをテレビが生中継するなんて初めてなんじゃない?」
グリーン方向を見ると、パラボラアンテナを乗せた銀色の4輪駆動がクラブハウスの前に停まっていた。衛星で中継車からテレビ局まで映像を送るのだろう。
「で、私がここにきているのは、最後のホールだけは直接この目で見ようと思ってなの。18番ホールは放送されるから、後でビデオでもチェックできるしね。そうそう、全国放送の女子アナさん。地方局に独占生中継されてしまうってとっても悔しがっていたわよ。試合が終わったらインタビューでフォローしてあげてね」
「“はい、こちらは春高ゴルフが行われている鳰海ゴルフ倶楽部18番ホールのティーグラウンド前です”」
生中継に入ったのか小さい声ながら女子アナのテレビ向けの張った声が聞こえてくる。
「“17番ホールを終わった時点で、トップは3アンダーのキリュウ君と東郷君のふたり。1打差で田中君と勝野君が追う展開です。現在、最終組はティーグラウンド上で前の組のプレーが終わるのを待っています。ではその間を利用して、先ほどバーディーでトップに並んだキリュウ君の素晴らしい17番のプレーをご覧ください”」
静かになったところで、東郷君が話しかけて来た。
「ランちゃん。さっきのショットは偶然だったのかい?」
「・・・どう思います?」
ボクは質問に質問で答える。
「そうだな、偶然とは思いたいけれど打った後のキミの自信に満ちた表情がね」
「ボク、自信があるように見えました?」
「うん。武道で言うところの“残心”っていう奴? 相手を斃した後、微動だもせずに振り切ったままでいるみたいだった」
「残心ね・・・偶然かどうか、ご想像にお任せします」
そう言ったのを聞くと、東郷君は探るようにジッとボクを見つめた。ボクは何気ない表情で見つめ返したけれど、疲労感から回復しきれず時おり吹く強風に立っているのも辛かった。
「ま、いいさ。それにしてもキツイぜ。さっきはグリーンを外したものの上手く寄せてパー。危うくランちゃんに追い抜かれるところだった」
「ボクに追い抜かれちゃいけません?」
「俺は男だよ。男の大会でキミみたいな女の子に負けるわけにはいかないんだ」
「ボク、戸籍は男ですけど」
「どう見たって女の子だろッ!」
珍しく東郷君は苛立った口調になった。と、セカンド地点にいた前の組のショットが終わったのを確認して、競技委員がボクにスタートするよう合図した。
ボクはポケットから球を取り出しながら「お先に」と同伴競技者たちに軽く会釈をした。
「じゃあ、最終ホールよろしくお願いします」
そう言いながらボクは球をセットする。どう攻めたらいいかとコースの方を見やる。
18番はパー5、全長510ヤードのロングホールだ。コース全体が大きな波が繰り返すみたいに、打ち下し打ち上げ打ち下しの構成になっている。しかもグリーンは縦長の3段グリーン。今日のピンポジションは2段目の左端なのでピンと同じ段に乗せなければ難しいパットとなってしまう。
その上、グリーンの縁には小川が平仮名の「し」の形でなぞるように流れているのだ。ショートしたり左に曲げればウォーターハザードの中に落ちてしまうことになる。セカンド地点からはグリーンが見えないので、ツーオンを狙うにせよ3打勝負でレイアップするにしろ、攻めの難しいホールなのだ。
この最終ホールで決着がつかずプレーオフになったとしたら、多分この身体ではもたないだろう。勝負するしかない。ボクは第1打をこの2日間とまったく同じ位置に打つことに決めると、ゆっくりと始動しながらドライバーをトップポジションまで引き上げた。
一瞬の溜め。
そして一気に振り下ろすと球を打ち抜いた。
≪パシーーーーーーン≫
風の影響を避けるように低く飛び出した球は、少しホップしてから打ち下しの長い下り斜面に沿って球足を延ばしながら落下する。まるでスキーのジャンプ選手が飛距離を伸ばすみたいに着地直前にフワッと浮き上がると、さらにひと伸びした。
≪トーン トン トン≫
着地した球は勢いよく転がりながら最下点を過ぎ、今度は上り斜面を駆け上る。そして斜面の中で唯一傾斜が緩やかな一画で停止する。
「お見事!」
「ナイスショット!」
「昨日おとといとまったく同じ、判で押したようなショットだ。よくもまあ、あの狭いところに球を置きに行けるもんだぜ」
「ありがとう」
打ち下しを利用して290ヤード地点まで持ってくることができた。最終ホールのティーショットを無事に打ち終えて、思わずボクは笑顔になる。
≪か、可憐だ・・・≫
今日は関係者しかいないはずなのに、誰かの声が風にのって聞こえてきた。
「確かにキミは可憐だよ。でも、その可愛い笑顔に騙されると痛い目に遭う」
と言いながら前のホールでパーだった東郷君がティーアップする。
「ひどいなあ。ボク、誰も騙してなんかいませんよ」
「キミは存在そのもので男を騙すんだって。さて、ここは勝負どころ。心を鬼にして可愛い子をやっつけるか!」
≪パシーーーーーン≫
これまでにない目いっぱいの満振りで打ち抜かれた東郷君の球は、猛烈な勢いで飛び出すと高々と舞い上がった。上空を流れる強い横風に針路を右へと変えて行ったが、向こう側の上り斜面のフェアウェイ右サイドに落下するとトンッと跳ねながら頂上手前のラフ、ファーストカットで停止した。
「すご~い! 頂上手前だから330ヤードは飛んでるんじゃない?」
「ふふふ。女の子とはパワーが違うんだよ」
≪パシーーーーーン≫
≪パシーーーーーン≫
負けじと勝野君と田中君も強振する。くるくる向きの変わる突風に煽られて左と右に流されたけれど、二人の球はどうにか両サイドのライトラフ320ヤード地点に留まった。
「皆さん飛ばしましたねえ。でも、パワーでは負けても正確さでは負けませんよ!」
と言うと、疲労困憊しているのに気づかれないよう、わざとキャディバッグを軽々と担いで見せながら歩き出した。
第2打地点に着くと斜面を風が駆けあがっていった。ここからはフォローウィンドか・・・。
ボクの球は、スキー場のような勾配の中でそこだけが緩やかな上り斜面になっている5メートル四方で停まっている。予選からの3日間を通じてここからセカンドショットを打ったのはボクしかいないので、ディボット跡のない素晴らしいライコンディションだ。
「ライはいいみたいだけど、グリーンがまったくのスタイミーだね。何と言ってもまだまだ距離が残っているし」
東郷君は、ボクの近くまで来て言った。ボクは無言で彼を見つめながらキャディバッグを置くと、克明にメモしたヤーデージブックを手に斜面を登る。
頂上に着くと、そこからは下にあるグリーン面がしっかりと見えてくる。縦長の3段グリーンの段々畑のような構造が立体的に捉えられ、その縁を堀のように囲んでせせらぎが流れている。
「ありゃあ城だな」
「守りの堅い要塞にも見える」
先に来ていた勝野君と田中君が、セカンドショットをどうしようか考えているボクにも聞こえるように言った。
確かにこうして見下ろすと難攻不落のお城のようだ・・・城攻めか。力押しで正面突破するのはボクのこの身体では無理。ボクの武器は正確さなのだ。そう思い至ると、最も得意な距離を第3打で打つことができる平らな場所の位置を確認して、傾斜面をもと来たところへと下って行った。
ボクの球の周辺は、生中継する女子アナとTVスタッフ、それに各紙のカメラマンが待っていた。ボクは大勢に見つめられていることなど気にせずに、思い描いた弾道をイメージしながら素振りを繰り返す。
「“さあ、キリュウ君が構えに入りました。持っているクラブはロフト19度のユーティリティ。細い腰を中心にゆったりと回転させたバックスイングから~優雅に振り抜きました!”」
≪スパーーン≫
ボクの第2打は傾斜面と平行に飛び出すとグングン上昇して丘の向こうに消えて行った。風の影響を受けにくい低い弾道で打ってみたのだが、問題は球の停止する位置だ。グリーンを取り囲むせせらぎまでは届いていないと思うけれど・・・。
≪パチ パチ パチ パチ≫
その時、丘の向こう側から拍手が聞こえてきた。どうやら上手く行ったみたいだ。
安心したらどっと疲れが出て来た。ダメ・・・いけない。ここでしゃがんだら立てなくなる。カメラにも写されているんだった。やっぱり女の子の身体で男子大会は無理だなんて思われては元も子もない。ボクはクラブをキャディバッグに戻すと、見えない程度に深呼吸をして背負い、元気なふりをしてキツイ勾配を登り始めた。
≪カシーーーーン≫
ボクの第2打を確認して、上の傾斜面にいる田中君が打った。
≪アアアアッ≫
丘の向こう側から風にのって嘆声が聞こえた。どうやら小川に捉まった様子だ。ラフからだったので上手にボールにコンタクトできなかったのかもしれない。1打差でボクたちを追う田中君と勝野君が優勝するには、どうしてもイーグルを狙うしかないのだ。
≪カシーーーーン≫
同じ標高で逆サイドのラフにいた勝野君が打った。
≪オオオオッ≫
≪パチ パチ パチ パチ パチ パチ≫
≪イーグルチャンス!≫
2オンに成功したみたいだ。これでボクは最低でもバーディーを取らなければいけなくなったわけだ。ボクは、すっかり細くなってしまった脚がプルプル震えてくるのに耐えながらやっと頂上に辿り着いた。少し下の傾斜面で東郷君がキャディバッグからクラブを選びながら独り言をつぶやいている。
「勝野は3段グリーンの一番上の右サイドにつけた。あそこから1パットでイーグルはないだろう。ということはバーディーで十分なわけだ。問題はトップタイのランちゃんか・・・ランちゃんの第2打はグリーン手前30ヤードにある。彼女の正確なショットならバーディーは確実、か。勝負を決めるにはツーオン狙いでイーグルだが・・・」
そう言うと、肩で息をしながら必死に呼吸を整えているボクを見た。
「よし。刻んで確実にバーディー狙いだ。どうやらランちゃんにはプレーオフを戦えるだけの体力はなさそうだ」
と言いながら東郷君が白い歯を見せてニヤッと笑いかけるのが見えた。
≪スパーーン≫
東郷君が6番アイアンで打った球は、ボクの球のある平坦な地点に落下するとバックスピンが掛かってトントンと2度バウンドして停止した。ほとんど並んでいる!
「同じポジションから3打目で勝負だ。さあランちゃん、いっしょに行こうか」
すぐ隣で東郷君の声がした。ボクが東郷君のセカンドショットの停止位置を見ている間に、早くも東郷君はキャディバッグを軽々と担いでボクの傍まで来ていたのだ。
「足元が覚束ない様子だけど、手をとってあげようか?」
「むっ・・・け、結構です!」
「あはは、強気だなあ。体力ないんだし女の子は素直じゃないと」
ボクはキャディバッグを担ぐと早足で第3打地点へと歩き出す。
「おいおい、冷たいなあ。同じ場所なんだし、いっしょに行こうよ」
東郷君は隣に並んで歩きながら話しかけてくる。
「それにしても、この強風の中じゃ歩くだけでも大変なんじゃないの? その上、重いバッグまで担いでるんだものな」
「・・・」
「女子なら予選1日決勝1日の2日間だったのに、相当無理しているんじゃないの?」
「ほっといてください!」
強がってはみたけれど、実のところはガス欠寸前、バッテリー残量低下で警告アラームが鳴りっぱなしなのだ。東郷君はそんなボクの様子を横からジッと観察している。
「生中継されているんだよな。ふふ。ランちゃんとこうして二人で歩いているところもテレビに写されているんだ」
「・・・」
「ランちゃんと二人だけでプレイオフを戦えばもっとテレビに写るだろうね。これから日の暮れるまで、二人だけで春高ゴルフ史上に残る名勝負と行きますか?」
「・・・」
「おや? 返事がないね?」
もはやボクに口を利く余裕はない。多分、このホールで決着がつかずサドンデスとなれば、東郷君はボクに男との体力差を思い知らせるつもりでいるようだ。
女の子の世界に入ると女同士の諍いには根深く嫉妬心が介在していることを嫌でも思い知るようになるのだが、ボクはいま改めて男の嫉妬の恐ろしさにも気づかされた。
東郷君は、ボクが極限まで疲労しミスショットして自滅するまで、真綿で首を絞めるように陰湿に勝負を引き延ばしてくるつもりなのだ。
「・・・となるとここで決着をつけるしかない、か」
「おや? ランちゃん、いや、キリュウ君。本気モードになったようだね? キミのその細い身体に残された力で、まさかボクに勝てるとは思っていないよな?」
「・・・全力を尽くすのみ」
「ふん。俺としてはキミがバーディーならバーディー、パーならばパー。どこまでもキミと同じスコアを並べてみせるだけさ。そうすりゃいずれ、とんでもないミスをしでかしてキミは自滅する。勝たないでいいんだから楽なもんだ」
東郷君は、テレビを意識して爽やかにほほ笑みながらそう言った。声が聞こえない限りは、女の子の緊張を解そうと軽口を叩いているようにしか見えないだろう。
「お先にどうぞ」
「あれ? 俺から?」
球の止まっている位置に来てみると、ボクの方がピンから近く東郷君の球の方が遠かったのだ。
「じゃあ、お先にバーディーチャンスと行きますか」
≪スパーーン≫
風が静まった間隙をついて軽々と舞い上がった打球は、ピンに向かって真っ直ぐ向かって行く。
≪フッ≫
球が曲がった。
「ああ! このタイミングで横風かよ」
グリーンを取り巻いて流れる小川沿いにだけ横風が流れていたのだ。
≪トン ツツッ≫
想定より右だったものの3段グリーンの2段目、ピンのある平面に着地した球はスピンがかかって停止した。
≪オオッ≫
≪バーディーチャンス!≫
「ピン横3メートルか。ま、ピンと同じ段に乗せたことだし、このうねる様な強風の中じゃ上出来の方だな。さて、キリュウ君、キミのお手並み拝見といこうか」
白い歯を見せて笑いかけながら東郷くんは皮肉っぽい口調で言った。遠目に見ているギャラリーからは、これから困難なプレーに挑戦する女の子を励ます爽やかなスポーツマンにしか見えないだろう。
さて、ピンまで残り32ヤード。通常ならばまったく問題のないアプローチの距離だが、この突風の中では手加減したショットとなる分、逆に風の影響を受けやすくなる。となると、風を読むしかないか・・・。
蠢く風と、グリーンに落下した後の転がり予測も必要だ。ショットから着地まで飛行時間は約3秒間。その間に球に影響を及ぼす可能性のある風の範囲を考えれば最低でも半径100ヤードまで感覚を拡大する必要がある。だけど今のボクは、M78星雲のヒーローで言えば胸のカラータイマーが赤く激しく明滅している状態だ。“能力”を使い過ぎればショットする体力までなくなってしまうかも・・・。
≪ビューッ≫
「おお、スゲエ! 強烈な風だ。その華奢な身体じゃ立っているだけでも辛そうだね」
「お構いなく」
段々風が強くなってきている。東郷君の言うとおり、ボクは身体を支えているだけでも両脚に力をこめなければならない。これは早いとこ勝負を決めないと体力がもたないだろう。
「ここで決めてやる」
ボクは一発勝負しかないと思い極めた。
アプローチウエッジを手にアドレスをとる。
スタンスしたまま目を閉じて意識を集中・・・この体力では全方位は一瞬しか使えない・・・ボクを中心点とする半径100ヤードに1秒間だけイメージを照射・・・予測軌跡が見えたら直ぐに意識を解放する・・・半径100ヤード・・・1秒間・・・軌跡を見る・・・意識を解放・・・・・・・・・・・・見えた!
≪スパーーン≫
すかさず振り抜いたボクの打球は低く飛び出すと真っ直ぐ小川に向かう。
≪ああっ!≫
≪トップした!≫
≪ミスショットだ!≫
周囲から悲鳴にも近い叫び声が上がった。
≪トーン≫
水面すれすれに小川の上を越えた打球は、対岸の土手に当たって大きく跳ね上がった。
≪おおっ!≫
≪うまく跳ねたが・・・≫
≪大きすぎる!≫
放物線を描いて飛ぶ球は、思ったより勢いがあってピンの上を通り過ぎかける。
とそのとき、
≪ビューッ≫
上空から突風が吹いて来た。球は下降気流に押し止められて急激に勢いをなくすと、そのまま落下した。
≪バサッ≫
球は激しく翻るピンフラッグに当たった。旗布に包み込まれて視界から消えた球は、布が解けると真っ直ぐ下に落下する。
≪コーン♪≫
カップから小気味よい金属音が響いた。
一瞬の間。グリーンの周りには大勢の関係者がいるのだが風の音しか聞こえてこない。そして次の瞬間、
≪うおおおおおおおおおおおおっ!≫
≪は、入った!≫
≪ちょ、直接カップインだ!≫
≪イ、イーグルだ!≫
大歓声が上がった。いっせいにボクに視線が集まり、大きな拍手とパシャパシャとシャッター音が溢れる。ボクは片手を挙げて声援に応えようとしたけれど、もう限界、そのまま両膝から崩れ落ちた。