第101話 2年生最後の戦いへ
冬休みが終わると3年生には大学受験が、ボクたちには学年最後の試練である期末試験が待ち受けていた。
受験組の先輩たちが寝る間も惜しんで猛勉強に励んでいる中、麗慶大学に推薦入学で進む先輩たちは余裕をかましていた。特にゴルフ部の元エースときたら・・・。
「ふあ~あ・・・ヒマだ~あ。おいキリュウ。遊ぼうぜぇ」
場所をはばかることなく大欠伸をしながら涙目で言い出した。
「明日の古文の試験の勉強中です」
「つれないこと言うなよ。図書室で勉強なんてランちゃんには似合わないよ」
「ほっといてください」
「なあ、キリュウ。昨日のバレンタインデーは期待していたんだぞ?」
「先輩だけじゃありません。ボクは誰にもチョコはあげていません!」
「佐久間ももらってないのか?」
ボクの隣で勉強していたカッちゃんが無言で親指を立てて同意を表わす。ボクが視線も合そうとしないものだから、元エースはカッちゃんに矛先を変えた。
「じゃあ佐久間でいいや。佐久間く~ん?」
「片山先輩。もし部長の俺が赤点とって落第したら、ゴルフ部はどうなると思っているんですか?」
「あ・・・そっか。いや、そりゃあマズイ」
「じゃあ、おとなしく一人遊びしていてください」
「ううっ・・・つまらん。それにしてもウチの姫は女としての基礎ができとらん。たとえ義理であったとしてもだ・・・大好きな先輩にはチョコを渡すもんだろ、普通は! 昨日はキリュウの一挙手一投足に全校男子が注目していたんだぞ? 特に3年は誰がもらえるかで賭けの対象になっていたんだぞ! 無論オレは自分に賭けたわけだが・・・」
「先輩うるさいです。みんなの迷惑になってますよ」
ボクは、見向きもしないで冷たく注意喚起した。
「ううっ、注意されちまった。姫にかまってもらうにはどうすりゃいいんだ・・・ん? 待てよ・・・≪パチッ≫ そうか! “あり”かもしらんぞ! フッフ」
呻き声を出して引き下がったと思ったら、急にパチッと指を鳴らして呟きはじめた。
「遊んでくれないならいいよお~だ。楽しい一人遊び思いついた! ウッシッシ」
先輩は、さも好いことを思いついたように意気揚揚と図書室から出て行った。
テスト漬けの5日間はこれまでの怠慢にゲンコツを喰らわすものであり、1年間の授業をどれだけ理解したか手加減なしに暴き出す。だから、試験までの2週間と試験期間は誰もがピリピリすることになった。
ボクとしては2回目の高校生活みたいなものだから、銀河の果てでも原理法則の変わらない理科系科目についてはもう一度同じテストをされている感覚だった。しかし数学や物理の苦手なサヤカたち3人娘にとっては、さすがにジトッとして辛い日々だったみたいだ。
≪キ~ン♪ コ~ン♪ カ~ン♪ コ~ン♪≫
「はい、そこまで」
そしてついに最終日の最終試験の数学が終了した。
「ああ、終わった~~~あ!」
「く、苦しみから解放されたぞ~~~お!」
「これで春休みだ~~~あ!」
ボクの背後左右からステレオサラウンドで自由になった雄叫びが聞こえてきた。
「で、ランちゃん。最後の数学はどうだったの?」
「ボク? まあまあ、かな」
「なんか後ろで見ていたら最後の30分、何もせずに物思いにふけっていたでしょ?」
「う、うん。早く終わったので今度の全国大会のことを考えていたんだ」
話しながら机の上を片づけていたクルミとユカリが、びっくりして鉛筆と消しゴムを取り落とした。
「あの難解なやつを終了時間の30分も前に解いちゃったのぉ?」
「昔解いたことのある問題とよく似ていたから」
「く~~~美少女でスポーツ万能の上に秀才と来たかぁ!」
「クルミ。ランちゃんは私たちとは違う次元に生きているのよ」
サヤカが、ボクを見ながら平静な声で言った。
「それにしても冬休みが明けてから、ランちゃん変わったよね」
ユカリがシミジミとした口調で言い出した。
「そうそう! 肩から力が抜けたって言うか、無理して女の子やっている感じじゃなくなったもん」
「そうかな?」
「以前のランちゃんは女の私たちから見ても言葉づかいが女の子っぽ過ぎて、なんて言うか女言葉を濃縮ジュースにしてさらに砂糖を増量した甘~い感じだったじゃない?」
「お、女言葉の濃縮・・・そ、そう聞こえていたんだ」
惑星ハテロマの女性化プロジェクトで女に見える為の訓練を受けてはいたが、言葉については星間ゲートを通る際にボクの脳の中の言語中枢に埋め込まれた翻訳機能を使って変換された女言葉だったのだ。多分その時に訓練された女言葉は、地球人の女の子から見ると変に思えるものなのかもしれない・・・。
「それが今じゃあ、アニメの美少女キャラボイスで喋る男の子って感じ?」
「そうそう! なんかセーラー服着ていても中性的っていうかぁ、背も高いしタカラヅカの男役っぽいんだよね」
やっぱりボクの声は女の子から見ても特徴的なんだ。ハヤテも声フェチになっちゃったし、元の声の出し方忘れちゃったから、この声は変えられないんだよな・・・。
「口調は元に戻したけど、声は女の子のまんまじゃない。どうする気?」
「このままだよ。もう自分の中では割り切っていることだから」
「ランちゃんのお父さんやお母さんたちは何て言ってるの?」
「アラシが決めたことだ全面的にアラシを応援するぞ、家族みんなでアラシを支えて行こうなって。女の子になり切るよう勧めてくれた女医さんにも『やめることにしました』って報告に行ってきたし、ウチでは戸籍は男、身体は女、精神はアラシって整理がついているんだ」
「そう。でも見掛けは前より輪をかけて少女っぽくなってない? その髪型いったいどうしちゃったわけ?」
そうだった。今朝も登校前の忙しい時間にもかかわらず、母さんにバッチリヘアメイクされてしまったのだ。女の子の格好するときには任せると言った手前、心を無にして母さんのするがままされるがままになっているから、ろくすっぽ鏡なんか見てこなかった。
「うっ・・・これはボクの趣味というより母さんの趣味なんだよ」
「へえ~そうなんだぁ。綺麗に編み込んであってとっても可愛いよ」
「あ、ありがとう」
「ランちゃん、可愛いって言われるのは平気なの?」
「そこが割り切ったポイントかな」
ボクがそう言うと、3人娘は不思議そうな顔をする。
「女の子の濃縮ジュースになる前には、あんなに女の子と思われるの抵抗していたよね?」
「そうそう、女子トイレや女子更衣室をもの凄く嫌がったよね!」
「それなのに今は平気なの?」
「身体が女の子なんだから仕方ないんだよ」
と言いながら立ち上がるとボクは、スカートに付いている消しゴムのクズを揃えた指先で払いながら裾を整える。そんな女っぽい仕草に、サヤカたちもなんとなく納得した様子だ。
「ね、ランちゃん。自分では男と女どっちだと思っているの?」
ふっと思ったことを口にしたみたいにユカリが尋ねる。
「どっちでもないよ。ボクはボクだから」
「そっか。でも扱いに困っているみたいだよ、男の子たち」
そうなのだ。昨日の2月14日だって勝手に期待しちゃっていたのだ。ボクとしては中身は男だから、男の子にチョコレートを贈ろうなんて発想は微塵もなかったし、サヤカたちからチョコの買い出しに誘われたときも「ボクは貰う方だから」と断ったくらいなのだ。
それから、男だったときみたいにボクがサッカーA代表の試合とかの話をしようと会話の中に入って行くと、男の子たちはなんとなく腫物にでも触るように扱うのだ。ボクは全然気にしていないけれど、見かけが女の子だというだけで、どうも男同士のようにはいかないらしい。
「でも、カッちゃんは平気みたいだよ?」
「佐久間君って偉いと思うわ。親友がいきなりこんな超絶美少女になってしまったというのに、見かけに惑わされることなくランちゃんはランちゃんだと見てくれているんでしょ?」
「うん。同性となるか異性となるかボクが決断するまで、ずっとこのまま待っていてくれるって。だから『アラシ、俺はチョコ要らないからな』って前の日の内に言ってくれてたんだ」
「なんか、究極の愛って感じぃ!」
恋に恋する夢見る乙女みたいに、胸の前で手を組むとクルミが言った。
「そうそう知ってた? ランちゃんが中性モードにシフトした途端1年の女の子たちが、ランちゃんお目当てで3階から用もないのに降りてきたりして、ちょっとした騒ぎになっているんだよ?」
サヤカに言われて思い出したけど、なんとなく遠巻きに見ている1年生たちの構成が変化しているのだ。これまで圧倒的に男の子だったのが、女の子と半々に変わってしまったのだ。
「見かけが美少女アイドルで態度が男っぽいんだもん、騒ぎにならない方がおかしいわよ」
「昨日だって『受け取ってください』って廊下にバレンタインチョコ行列だったじゃない?」
「おかげで相伴にあずかれたけど、男の子も女の子も両方惹きつけちゃうなんてランちゃんって罪作りな子だこと!」
サヤカの分析を聞いて、クルミがそう決めつけるように言った。
3学期は駆け足であっと言う間に過ぎて行った。
お陰様で卒業式の日にボクは全校生徒の前で「先輩の胸の第2ボタンください」をやらずに済んだ。けれどもその代りに、なぜか在校生を代表して送辞を読まされる破目になってしまった。普通は生徒会長がやるもんだろうに・・・。
聞こえてきた話では3年生の強い要望があって、さしもの伝統墨守タイプの校長先生も折れてしまったのだとか。
卒業生による送辞者指名なんて前代未聞のことで、職員会議でも「毎年恒例となっている晴れの舞台を生徒会長から取り上げてよいものか」という反対も出たらしいけれど、誰が仕掛けたのかA組からH組まで3年の全クラスで自発的に投票が行われて圧倒的多数でボクが選出されたとあっては、民主教育を建学の精神とする学園である以上仕方なかったみたいだ。
それにしても3年生は大学受験もあるし卒業前で忙しいはずだ。そんな最中に全クラスをまとめて投票させるなんて、余程のヒマ人か情熱のある奴でなければ不可能だろう・・・ん? ヒマ人でボクに対する情熱でいっぱいっていったら・・・こりゃあ絶対元エースの片山先輩の仕業だ!
「“春とは名ばかりの寒い日が続くなかにも、そこここに春の息吹が感じられる季節となりました。本日は素晴らしい晴天に恵まれケヤキ並木から降り注ぐ木漏れ日が卒業生の皆様のご卒業をお祝いしているようです・・・”」
ボクが壇上に上がると講堂内がざわめいてシャッターを切る音や歓声が飛び交った。でも、送辞を朗読し始めてひと言ひと言噛みしめるように言葉を紡いでいく内に場内は次第に静まっていった。
「“・・・先輩たちと共に過ごした日々は、私たちにとって大切な宝物です。これからお互い歩む道は違うことでしょう。でも、10年が過ぎ20年たって私たちが学生時代を振り返るとき、キラキラ輝く素晴らしい日々として想い出されるに違いありません。その日いっしょに語りあえることを楽しみに今日からしばしの間、お別れです。私たちは先輩方が築いてこられた学園の伝統を胸に勉学そして課外活動に励んで参りたいと思います。これからも麗慶高校を忘れることなく温かく見守ってください。本日はご卒業おめでとうございました。在校生代表 霧生嵐”」
途中でゴルフ部の先輩たちから「ラ~ンちゃ~ん♪」の掛け声がかかったりしたけれど、無事最後まで読み終えることができて、最後には盛大な拍手があがった。
ボクの送辞は先生方や父兄にも評判がよかったらしく、今後も3年生の自主投票による指名制を続け、うちの高校の伝統として育てていくことになったらしい・・・。
卒業式が終わって3年生が立ち去ると校内は急に寂しくなった。
校舎の1階からいつも立ち昇っていた300名のざわめきが一気に消えてしまったせいかもしれない。終業式も3学期は講堂に集まる生徒の人数が2年生と1年生の2学年だけになるため、いつもの3分の2しかいなかった。
「“・・・4月になって新入生が入学してくると、いよいよ2年の君たちは3年の最上級生、1年の君たちは2年生になります。先輩として模範を示し責任ある言動を心掛けなくてはいけない立場となるのです。今日から始まる春休みは、先輩としての立場をしっかり自覚する期間でもあるわけです。一生の中で一度しかない今、無為に休みを過ごすことなく昨日より今日、今日より明日と自分を成長させることに励んでください。皆さんよい休暇を!”」
校長の長い挨拶が終わると、突然ファンファーレが鳴り響いた。
≪パンパパパ~~~ン♪ パパパパ~~~ア♪≫
「“それではここで、春休み期間中に開催される春の全国大会に出場する選手の皆さんを紹介します! 呼ばれた生徒はステージに上がってください”」
終業式の最後に、春休み期間中に開催される春の全国大会の壮行会が行われた。野球やバレーにバスケなど各部が関東大会で奮戦したけど、全国大会に進むことができたのはバトミントン部とゴルフ部だけだった。
「“ゴルフ部代表お~! キリュウアラシ君!”」
≪オオ~ッ!≫
≪パチ パチ パチ パチ≫
ボクは照れながら壇上へと向かう。こうして応援してくれる仲間がこんなにいるんだ、期待に応えなくてはと決意を新たにする。
「“代表選手たちから一言抱負をお願いします。最初はバトミントン部ダブルスで出場するカミカミペア。神沢さん上岡さんいかがですか・・・”」
この2人は夏の大会にも出場しているので、気負いもなく洒脱に受け答えしていた。そしてボクたちの番が来た。
「“そしてゴルフ部からは2名の選手が春の全国大会に出場を果たしました! 男子のキャプテン佐久間君、2年生の男子部員が二人しかいない中で2名とも出場という快挙ですね?”」
「“え、えっと・・・≪ゴクッ≫・・・まあ、なんて言えばいいのか・・・キリュウが、そうキリュウが2学期から復帰してくれたので何とか間に合いました”」
カッちゃんは相当に緊張している。ゴクッて生唾を呑み込む音までスピーカーから聞こえてしまった。ベスト4も狙えるバトミントンのペアの後のインタビューだもの辛かったのかも。ここはボクが何とかしないと・・・。
「“ではそのキリュウ君に伺ってみましょう。関東大会は35位とギリギリでしたが、テレビで放送されて注目度はNo.1でしたね?”」
「“ボクは男子ジュニア登録選手です。いろいろ言われたりしていますが、全国大会に出場する以上全力で、オ・ト・コ・ら・し・く♪ 戦うつもりです!”」
≪ウオ~~~ッ!≫
≪パチ パチ パチ パチ パチ パチ パチ≫
満場の拍手喝采だった。男らしくのところをなるべく澄んだ可愛らしい声で言ったのがよかったかもしれない。
「ランちゃんったら、女のノウハウすっかり身に付けちゃってるわね」
「そうそう! オ・ト・コ・ら・し・く♪って言ったときの甘~いヴォイス!」
「男子どころか、先生たちまで感に堪えないという顔していたもん」
教室に戻ると、さっそく3人娘から突っ込まれてしまった。
「1年の女子からは悲鳴だってあがっていたわよ!」
「カッちゃんがすっかりテンパっていたから、ああするしかなかったんだよ」
「ま、そのお陰で大いにウケた訳だけどね」
サヤカが話をまとめるようにそう言った。そして話柄を変えた。
「ところでさあ、今度の全国大会って会場は遠いんでしょ?」
「うん。関西だけど」
「大会期間は?」
「4日間」
「泊りがけだね。宿泊はどうするの?」
「近くの民宿を2部屋押えてるんだって」
「じゃあ、ランちゃんは一人部屋?」
「いいや違うよ。でも、さすがに大多監督と3人一緒とか、カッちゃんとボクで2人とかはまずいって言うことで、応援がてら保健の水沢先生が来てくれることになっているんだ」
「そっか。それなら安心だね。男子の大会だし実は心配してたんだ」
「やっぱりボクが男と一緒に寝るのは心配なんだ?」
「そりゃあ。ランちゃんも『身体は女の子なんだ』って言ってたじゃない」
そして大会へ向かう日が来た。東京駅から新幹線に乗って2時間ほど、最寄の駅に着いたのはまだ午前中だ。ボクたちは駅でレンタカーに乗り換えて、監督の大多の運転で競技会場となる鳰海ゴルフ倶楽部へと直行した。
「いやあ~水沢先生を助手席に乗せてドライブできる日が来るなんて思ってもいませんでしたよ!」
「大多先生。こっち見なくていいですから。私は逃げません。よそ見せず安全運転でお願いしますね」
「監督。遊びに来ているんじゃありませんよ」
後部座席からカッちゃんが顔を伸ばして言った。
「佐久間、分かってるって。だがなあ、駅でレンタカー借りるとき見たろ? 美女ふたり連れの俺たちを羨ましげに見ていた奴ら! いやあ気分のいいこと」
今回は公共交通機関を乗り継いでの遠征だ。カッちゃんからも言われていたので、ボクは家から帽子を目深に被りダテ眼鏡をして来た。でも、新幹線の車内は暖房が効いていたし、さすがに長時間になると蒸れて来る。さすがに暑くなり眼鏡も曇ってきたので、レンタカーの手続きを待っている間に待合室で帽子とメガネを脱いでしまった。すると、
≪おお~~っ!≫
帽子からボクの髪がハラリッと落ちてスイングした瞬間、どよめきが起こってしまったのだ。
「セーラー服姿の超絶美少女。連中、キリュウと気がついて慌てて写メ撮りだしたもんな!」
「それを大多先生が喜んでどうするんですか! キリュウ君は今回唯一の女の子なんですよ? 私たち引率者がしっかり守ってあげなくちゃダメでしょ!」
「分かってますって、水沢先生。わが麗慶高校の栄誉の為にも頑張ってもらわねばならんですからな。キリュウが試合に集中できるよう、せえぜえ気を配りますよ」
「公式練習は明日だが、少し練習していくかい?」
ゴルフ場に到着して、さっそくボクとカッちゃんが宅配便で送ったキャディバッグが無事に届いているか保管庫で確認していると、よく日に焼けた50年配のオジさんが入口のところで白い歯を見せながらこちらを覗いていた。
「君はキリュウ君だね?」
「はい」
「やっぱりそうか。セーラー服だったから、そうじゃないかと思ってね。明日から大会に入るので今日の最終組のお客さんが出たら、コースコンディションを確認しに行こうと思っていたとこさ。よかったら一緒に来るといい」
「オジさんは?」
「私かい? ここのグリーンキーパーさ」
「じゃあ、お仕事のじゃまになるんじゃ・・・いっしょに行っても構わないんですか?」
「ああ。君の球の落下地点を見ておきたいんだよ。他の選手たちと飛距離が違うようだから」
「あの、彼もいいですか?」
「一緒の学校なんだろ? 君の帰りをポツンと待っているわけにもいかんだろ。おいで」
「じゃあ直ぐに着替えてきます」
「うん。アウトスタートで待ってるよ」
と言うと、グリーンキーパーのオジさんは軽く片手を挙げながら立ち去った。
「どうだクラブは無事着いていたか?」
着替えにクラブハウスの中に入って行くと大多と水沢がボクたちを待っていた。
「はい。クラブはOKでしたが急に練習できることになっちゃって・・・」
「えっ? これからラウンドするってか?」
「はい。グリーンキーパーさんが一緒においでって誘ってくれたんです」
「ふうん、グリーンキーパーさんがね。そりゃあよかったじゃないか」
「大多先生。それなら私たちは先に宿に行って手配関係を済ませしまいましょうか?」
「そうですね水沢先生。じゃあ、先生たちは一旦宿に行ってから迎えに来よう。あんまり迷惑をかけるんじゃないぞ」
「は~い!」
≪カシーーーーーーン≫
「ふむ。君はなかなかいい球を打つ」
「ありがとうございます。でも、カッちゃんに飛距離で30ヤード離されていますから・・・」
「そりゃあ男の子とは体格が違うんだ。仕方のないことだろう」
ボクはティーショットを打ち終えると、グリーンキーパーのオジさんと肩を並べてコースへと歩き出した。カッちゃんとボクは自分のキャディーバッグを背負っていたけれど、オジさんは、ポケットに手を突っ込んだだけの手ぶらだ。
「オジさんはボールを打たないんですか」
「ああ。芝の具合、樹木の様子、池や小川の水、構造物の状態、コースの中にレイアウトされたもの全てに目を配っているから、ボールだけを追っていく訳にはいかんのだよ。そうそう、このゴルフ場の名前はすぐに読めたかい?」
「鳰海ゴルフ倶楽部・・・読めませんでした。鳰ってなんですか?」
「水鳥のカイツブリのことさ。におのうみっていうのは琵琶湖の別名だ。ここは琵琶湖を望む丘陵に作られたコースだから各ホールから湖が見えるんだ」
「はい。大きな湖面がキラキラ輝いています」
「大きな湖面があって近くに丘があるということは風が起きやすいということだ。風は気温差で起きることは知っているかい?」
「はい。確か、暖められた空気が上昇し冷たい空気がそこに吹き込む、と習いました」
「そうだ。太陽で暖められると湖より先に温度が上昇するのは丘だ。丘の空気が上昇気流となって立ち昇ると、そこに湖から冷たい空気が流れ込む。気温差のない朝方や夕方は風が無いが日中は風が舞う。この辺りの風はその典型例だ。覚えておくといい」
グリーンキーパーのオジさんは、歩きながらボクにいろいろなことを教えてくれた。
「ほう。バックティーからだと、君の球はこのあたりになるんだ」
ボクの第1打の落下地点まで来ると、オジさんが周囲を見回しながら言った。
「やはり男とは違うな」
「ね? 飛んでないでしょう?」
「ふむ。その代りここは芝が痛んでいないし平らだ」
「え?」
指摘されてボクも周囲を見回してみた。
「確かにボールのライはいいですね」
「ゴルフはいかに次に繋げるかだ。どんなに飛んでいても傾斜していたり、ディポットに球が止まっていたのでは次のショットでミスを誘発しかねないだろ? 着実にいいライにボールを打って行くことも大切なコース・マネージメントなんだ」
「はい」
「このコースを設計した人物は、琵琶湖畔の雄大な自然との調和を第1に戦略性の高いコースを目指している。設計者の気持ちになって、よくコースを観察してご覧。クレバーなゴルファーにはご褒美が用意してあることが分かるはずだ」
「必ずしも遠くへ飛ばせばいいというものではない・・・」
「そういうことだ」
ボクは、とてつもなく大きなヒントをもらっているのかもしれない。
「オジさんは、どうしてボクに親切にしてくださるんですか?」
「ははは。男たちの世界で勝負に挑もうとする紅一点だからかな。君には、知的で思慮深い女神アテナのように戦ってほしいということさ」
と言って笑顔でウインクした。
「このコースの芝は3種類あってね。ノシバとコウライとバミューダだ。同じフェアウエイでもライが違ってくる。ノシバとコウライは葉が硬いので球の重量を支えてくれるが、バミューダは柔らかいから球が沈むことになる」
「と言うことは・・・打ち方も変わってきますね」
「そういうことだ。フェアウエイだからといって無造作に打つのではなく、1球1球しっかり芝の状態を確かめて打つことだ」
「はい!」
グリーンキーパーのオジさんは、芝生の息づかいや風の囁く声も聞こえる凄い職人さんだった。その後、日が暮れて球が見えなくなるまで歩きながら、問わず語りにここのコースの色々な特徴を話してくれた。
いまのボクには男の子たちみたいな飛距離は出ないけれど、正確なショットはあるのだ。今日のアドバイスで、明後日からの戦い方が見えてきた。