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【ゲーム化】【悲報】彼女いない歴=年齢の俺、入社式で一目惚れした子と付き合えるが1年後に死なれると60年後の自分に教えられた 〜何度やり直しても救えないので、告白した5分後にプロポーズします〜

掲載日:2026/09/21

「──若き日のご自分に、伝えたいことはありますか」


 2085年4月1日。日曜日の、よく晴れた朝だった。


 佐藤(さとう)大輝(だいき)が82歳まで生きてきて、その問いを面と向かって投げられたのは、これが初めてだった。


          ◇


 ことの始まりは、頭上を滑る影だ。


 朝の散歩コースにしている遊歩道。朝日に押し負けたホログラムの広告が、宙で薄く滲んでいる。すれ違う青年の首筋では接続端子(ポート)が淡く光り、前を歩く婦人の左腕は、肘から先が鈍い銀色をしていた。


 脇の車道を、音のない車が滑っていく。

 そして、その空に、黒い球体が1つ浮いていた。


 全天球型の撮影ドローンだ。

 レンズがぐるりと回り、大輝の顔を舐めるように捉えた。


(迷惑系の配信屋か)

 大輝は顔を伏せ、足を速めた。年寄りをからかって笑いを取る手合いは、60年前から手を替え品を替え湧いて出る。


「すみません、今よろしいですか!?」


 呼び止められて、大輝は一瞬、身構えた。

 追いかけてきたのは、まだ20代半ばと見える若い女だった。息を切らしながら、それでも笑顔を崩さない。


 このところニュースを賑わせている手口が、脳裏をよぎった。

『不同意コミュニケーションで警察に突き出されたくなければ、今すぐ電子マネーで示談金を払え』──そうやって独り歩きの老人を脅す、典型的な美人局(つつもたせ)。


「触っていない。近寄ってもいない」

 大輝は反射的に両手を上げた。

「金もない。年金暮らしのジジイだ。搾り取るなら他を当たれ」


「えっ、あの」

 女が目を白黒させる。

「怪しい者じゃないんです。ほら、これ」


 差し出された手のひらの上に、小さな光の板が展開した。

『ネオ・ジャパン・テレビジョン 報道制作局』──社員証のホログラムには、女の顔写真と、見覚えのない局名が並んでいる。


「テレビ局?」

 大輝は思わず足を止めた。

「すみません、テレビはもう長いこと見てなくて」


 女は嬉しそうに頷いた。

「テレビなんて、今は若い子しか見ませんから。古臭い(レトロな)のが逆に新しいって」


 そういうものか、と大輝は鼻を鳴らした。


「番組は『ネクスト・ジャーニー』といいます。これから旅立つ若い人へ、という意味で」

 女がドローンを指差す。

「若い視聴者へのメッセージも兼ねて、ご年配の方に同じ質問をして回っているんです」

 女が、ふと思い出したように付け足した。

「あの、先にお名前をうかがってもいいですか。字幕に出しますので」

「……佐藤大輝」

「佐藤さんですね。ありがとうございます」


 そして、女は姿勢を正した。


「──若き日のご自分に、伝えたいことはありますか」


 風が、桜の花弁を1枚、2人の間に落とした。


 1人分の朝食を作り、1人分だけ洗い、誰も待っていない部屋を出てきた朝だった。


 大輝は黙って、黒い球体を見上げた。

 レンズはただ丸く、こちらを向いている。その奥に、60年前の自分を思い浮かべた。


「……年寄りの与太話でいいのか」

「もちろんです。カメラを、真っ直ぐ見てくださいね」


 大輝はレンズを見据えた。


「大輝」

 喉の奥から、声を絞り出した。

「彼女いない歴=年齢のお前に、社会人1年目で彼女ができる。お前は入社式で一目惚れした子と、ちゃんと付き合える」


 若い女スタッフが、おや、という顔をした。


「信じられないだろうが、本当だ。向こうから笑いかけてくれる。だから安心しろ」

 大輝はそこで一度、息を吸った。

「そのうえで、1つだけ言う。自分に自信がないからとプロポーズを躊躇(ちゅうちょ)するな。すぐにしろ」


「……なぜなら彼女は」


「付き合って1年後に死ぬ」


 横で、息を呑む音がした。


 声がかすれた。

「それから俺は、彼女を忘れられないまま、82歳の今になってもずっと独身だ」


 握った拳が、震えていた。


「1秒も無駄にするな。彼女との時間を、1秒もだ」


 涙と鼻水が溢れ出していた。


「さ、佐藤さんっ、あの、大丈夫ですか!?」

 女が慌ててドローンを手で払い、遊歩道の脇へ大輝の背を押した。

「すみません、わたし、こんな質問を……。あちらにベンチがありますから、少しお掛けになってください」


 腰を下ろすと、背骨が軋んだ。

 桜を揺らす風。ホログラムの電子音。機械の駆動音。若い娘の、おろおろとした声。

 2085年の朝が、耳の中で混ざり合っている。


 大輝は、ゆっくりと目を閉じた。


          ◇


 軋む音がした。


 背骨ではない。安物のパイプ椅子が、身じろぎひとつで鳴く音だ。


「──新入社員の皆さん、本日はご入社、誠におめでとうございます」


 マイク越しの声。壇上には、まだ髪の黒い人事部長が立っている。

 白い蛍光灯。折り目の硬いスーツ。同期の背中が、前に何列も並んでいる。


 大輝は、自分の手を見た。


 染みひとつない、皮の張った若い手だった。

 膝の上には、紙の会社案内。ページを繰ると、インクの匂いがした。

 隣の男が弄っているのは、折り畳みも巻き取りもしない、ただの薄い板のスマホだ。

 壇上の脇には、白い文字を並べた垂れ幕が下がっている。


(……2025年4月1日 入社式)


 心臓が、胸の内側を殴りつけていた。


 膝が痛くない。腰も。朝起きるたびに悲鳴を上げていた肩も軽い。

 記憶まで鮮明に思い出せる。


 夢か、死に際の走馬灯か。どちらでもよかった。

 大輝は、3列前の席を見た。


 黒い髪。まっすぐな背筋。


 隣の同期が何か囁いたらしい。その横顔がわずかに傾いて、ヒマワリが咲くみたいに笑った。


 鈴木(すずき)陽菜(ひな)。22歳。


(……ああ)

 60年ぶりだ、という言葉が、声にならずに喉で潰れた。


 1度目の人生で、大輝はこの入社式で彼女に一目惚れした。

 そして3ヶ月、まともに話しかけられなかった。目が合えば逸らし、飲み会では離れた席を選び、廊下ですれ違うたびに心臓だけがうるさかった。7月頃から徐々に会話するようになって、ようやく交際が始まったのは、10月。

 その1年後、彼女は死んだ。


──1秒も無駄にするな。


 自分の声が、耳の奥で反響している。


 式が終わり、司会が解散を告げたその瞬間、大輝はもう立ち上がっていた。


「鈴木陽菜さん」

 フルネームで呼びかけると、彼女は目を丸くした。

「え、はい。……すみません、以前にどこかでお会いしましたっけ?」


「いえ、名簿で見て覚えただけです。俺は佐藤大輝です」

 大輝は自分のパンフレットの表紙を、指の背で軽く叩いてみせた。

「このあと懇親会でしょ。よかったら一緒に回りません? 今日のうちに、同期の顔と名前を全部覚えたくって」


「……全部、ですか」

「同期は120人だから、2人なら60人ずつ。いや、59人ずつかな」


 陽菜は一瞬きょとんとして、それから吹き出した。

「変な人ですね、佐藤さん」

「よく言われる」


 何十年ぶりに聞く笑い声だった。

 22歳の心臓が、みっともないほど跳ねた。


          ◇


 懇親会は、大輝の独壇場になった。


 緊張で名刺入れを取り落とした同期の背を叩き、部長の前で固まっている女子の皿に料理を取り分け、輪の外にはみ出した男を引っぱり込む。80歳で定年退職するまでの宴席の記憶は、新卒の懇親会を攻略するには、いささか過剰な装備だった。


 もっとも、大輝が拾いきれなかった1人は、先に拾われていた。

 壁際でグラスを持て余していた男の隣に、陽菜がいつのまにか立って、名前を聞いていた。しばらくすると、男の顔がほどけた。


「佐藤さん、すごいですね」

 紙コップを両手で持ったまま、陽菜が感心したように言った。

「同期っていうより、なんだか……お兄さんみたい」


「そうか?」

「そうです。落ち着きすぎです」


「年の割に老けてるんだ」

「浪人か留年かしてるってこと?」

「いや、同い年の22だよ」


 大輝は笑って誤魔化した。


 そして、狙っていた場面は、思ったより早く転がり込んできた。


「佐藤さん」

 呼ばれて顔を上げると、大輝を含めて3人が同時に振り返っていた。営業の佐藤主任。総務の佐藤さん。そして、新入社員の佐藤大輝。

「あ、すみません、営業の佐藤さんのほうです」

 残りの2人が、揃って会釈して、向き直る。


 隣では、陽菜も同じ目に遭っていた。

「鈴木さん、これ集めといて」

 押しつけられた会費袋を反射的に受け取ろうとして、彼女の手が止まる。宛名は、経理の鈴木課長だった。


「……これ、今後も続きそうだね」

 耳まで赤くして戻ってきた陽菜に、大輝は笑いを噛み殺した。

「佐藤と鈴木だぞ。来年以降の後輩とも絶対被りそう」


「じゃあ、どうすれば……」

「提案がある」

 大輝は紙コップのウーロン茶を置いた。

「仕事で紛らわしいから、お互い下の名前で呼ばない? 社内でもやってる人、けっこういるらしい」


「え」

 陽菜が、目をぱちぱちとさせた。

「し、下の名前、ですか」

「鈴木さんは陽菜さん。俺は佐藤じゃなくて大輝。……あくまで、仕事上の都合ってことで」


 建前としては、完璧なはずだった。

 だが口にした瞬間、自分の頬がわずかに熱を持った。


(……82まで生きて、これか)


 陽菜はしばらく唇を結んでいたが、やがて小さく頷いた。

「分かりました。……大輝さん」

「さんもいらない」

「それは、まだ無理だよ」


 笑いながらもきっぱりと言い切る律儀さが、彼女らしかった。


 1度目の人生で名前を呼び合えるようになったのは、付き合ってからだ。

 それが入社式の当日に届いた。胸の奥が、ひりつくほど嬉しかった。


          ◇


 告白したのは、その1週間後だった。


 2025年4月8日。定時で上がった帰り道、川沿いの桜はもう散りかけていた。花弁が、暗い水面を流れていく。


「陽菜」

 呼びかけると、彼女が振り向いた。

「俺と付き合ってほしい」


 回りくどい前置きも、保険の冗談も、ひとつも挟まなかった。

 82歳の男に、駆け引きの時間はない。


 陽菜は驚いた顔のまま数秒固まって、それから、首筋まで赤くなった。

「……早くない?」

「早い」


「認めるんだ?」

「1秒も無駄にしたくないんだ」


 彼女は息を吸って、吐いて、ヒマワリの顔で笑った。


「はい」


 そして、少しだけ照れたように付け足した。

「……じゃあ、大輝くん、って呼んでもいいですか」

「まだたまに敬語になるね」

「これでも、頑張ってるんです」


          ◇


 そこからの1年半は、恐ろしいほど順調だった。思い出すたびに、息が詰まる。


 仕事は面白いように回った。60年分の失敗を、大輝はすべて知っている。どの資料を先に作れば誰の機嫌が直るか、どの案件が半年後に燃えるか。「新卒とは思えない」と言われるたび、大輝は曖昧に笑った。


 陽菜は毎日、昼休みに屋上へ来た。

 夏には海へ行った。陽菜が日焼け止めを塗り忘れ、茹だったような肩をして大輝に叱られた。

 秋には、2人で少し広い部屋の間取り図を眺め始めた。


 11月、彼女が熱を出した。おかゆを作りに行くと、玄関先で「見ないでください」と真っ赤な顔をされた。それでも粘って上がり込み、卵を落として食べさせた。


「大輝くんって、なんでも先回りするよね」

 熱でぼんやりした声だった。

「気持ち悪いか」

「ううん」

 彼女は布団から手を出して、大輝の袖を掴んだ。

「安心する」


 幸せだった。

 その幸せが、ずっと続いてほしいと願っていた。


          ◇


 2026年10月11日。日曜日。


 1度目の人生で、陽菜は21時過ぎ、駅前の横断歩道で信号を無視したトラックに轢かれた。

 だから大輝は、今日やることを決めていた。


 朝から彼女を連れ出し、車道のない河川敷を歩いた。昼は公園のベンチで食べた。夕方は2駅離れた、歩行者専用の商店街へ回った。

 そして21時、大輝は駅から3キロ先の裏通りで、スマホの時計を見つめていた。


 21時00分。

 21時05分。

 21時10分。


 何も、起きなかった。


「大輝くん、さっきから時計ばっかり見てる」

 陽菜が横から覗き込んでくる。

「お腹すいた?」


「……いや」

 全身から、力が抜けていくのが分かった。

 勝った。歴史を、変えた。

「なんでもない。帰ろうか」


「あ、待って。お茶買ってくる」

 陽菜が自販機へ駆けていく。

 その背中に、大輝は笑って手を振った。


 温かいペットボトルを2本抱えて、彼女が戻ってくる。歩道の、真ん中を。


 甲高いモーター音がした。


 角を曲がってきた電動キックボードが、歩道に乗り上げた。

 陽菜を避けようとした若者がハンドルを切り損ね、車体が横滑りする。


 大輝の身体は、動いていた。

 1度目のときは、その場にいなかった。知らせを受けたのは病院からの電話で、着いたときには、もう白い布が掛かっていた。

 今度は違う。踏み込んで、手を伸ばして、指先が彼女のコートに触れた。


 触れた、だけだった。


 ペットボトルが2本、歩道を転がって、縁石で止まった。

 どちらも、まだ温かかった。


「──陽菜」


 抱き起こした腕の中で、彼女は何が起きたのか分かっていない顔をしていた。口が動く。音は出ない。

 やがてその瞳から、光がゆっくりと引いていった。


 視界が、白く灼けた。


          ◇


「──新入社員の皆さん、本日はご入社、誠におめでとうございます」


 パイプ椅子が軋んだ。また、あの日に戻っていた。


          ◇


 3度目の2026年10月11日、大輝は彼女を連れて逃げた。


 1週間前から有休を取らせ、飛行機で北の牧草地へ渡った。車の少ない土地。高い建物のない町。窓の外に何もない宿。電動キックボードも自転車も居ない。

 その日の午後、宿の裏手を散歩していて、彼女は転んだ。柵もない、20センチの段差だった。打ちどころが悪かった、と医者は言った。


 4度目。

 大輝は彼女をどこへも行かせなかった。都心のホテルの1室を丸1日借り切り、食事はすべて部屋に運ばせ、窓には近寄らせず、朝から手を握って過ごした。

 夕食を食べ終えた頃。談笑の途中で、陽菜は言葉を切った。

 胸を押さえ、不思議そうに大輝を見て、そのまま崩れ落ちた。急性心不全。23歳の、健康な女性の。


 外が駄目なら、内から。

 その程度のことは、平気で起きた。


 5度目は、先に病院へ入れた。精密検査の結果はすべて正常で、それでも大輝は頼み込んで、10月11日を心電図の音の中で迎えさせた。

 彼女はこめかみに手をやり、「ちょっと痛いかも」と笑った。それきりだった。


 6度目。風呂場で転倒。

 7度目。ベッドの中で発作。

 8度目。移動中、空から落ちてきた物。

 9度目。見知らぬ男の、理由もない刃物。

 10度目は、大輝が運転していた。


 いつしか大輝は、回数を数えるのをやめた。


 付き合う日を早めても、遅らせても、付き合わない選択をしても、日付だけは動かなかった。

 2026年10月11日。世界はその1日だけ、陽菜の命を奪うことを異様な執念で守り抜いた。


          ◇


 途中で一度、大輝は洗いざらい打ち明けたことがある。


 告白したその日の川沿いで、繰り返していることも、10月11日のことも、彼女がどんなふうに死ぬのかも、全部。

 信じてもらえるはずがなかった。


 陽菜は、長いこと黙っていた。

 構わなかった。頭のおかしい男だと切り捨てられるなら、そのほうが彼女は長く生きるかもしれないとさえ思った。


「……証明、できますか」

 返ってきたのは、それだけだった。


 大輝はその場で、これから1週間に起きることを手帳に書いた。取引先が飛ぶこと。課長の異動が発表されること。金曜の夕方に雨が降ること。

 金曜の夜、傘を2本持って現れた陽菜は、紙のように白い顔をしていた。


 その日から、2人で戦った。

 彼女は毎朝、行き先を大輝に伝えた。健康診断を人間ドックに変えた。カレンダーの10月11日に、赤い丸をつけた。


 その1年半は、それまでで一番、静かだった。

 ときどき彼女が、何も言わずに自分の手首を押さえるようになったことに、大輝は気づかないふりをしていた。脈を、確かめていたのだ。


 そして10月11日、彼女は死んだ。

 薄れていく意識の中で、陽菜は大輝の手を握った。


「ごめんね。……わたし、間に合わなかったね」


 それが、最後の言葉だった。


 以来、大輝は二度と話さなかった。

 自分の絶望に付き合わせるくらいなら、何も知らないまま笑っていてほしかった。


          ◇


 一度だけ、大輝は彼女に近づかないことを選んだ。


 入社式で目を合わせず、懇親会では反対側の島に回り、名前も呼ばなかった。廊下ですれ違うときは、会釈だけした。

 自分と関わりさえしなければ、あの日は来ないのではないか。その可能性を信じたかった。


 1年半、大輝は他人として彼女を見ていた。

 彼女が別の同期と親しくなるのも、社員旅行で誰かの隣で笑うのも、全部、離れた場所からだった。


 2026年10月11日の夜、スマホが鳴った。

 表示されていたのは、同期の連絡網を回している男の名前だった。


『佐藤、まだ聞いてないよな。……鈴木のことなんだが』


 その先は、聞くまでもなかった。

 視界が、白く灼けた。


          ◇


──彼女は、俺がいてもいなくても死ぬ。


 それなら。

 隣にいて死なせるほうが、まだましだった。


          ◇


 以降、大輝は毎回、彼女に告白した。

 そして毎回、彼女を殺された。


 たちの悪いことに、その1年半は、いつも幸せだった。

 初めて手を繋いだ日の体温も、鼻歌を歌いながら味噌汁をかき混ぜる背中も、喧嘩のあとに差し出される不器用なメモも、何度繰り返しても色褪せない。

 何度でも、何度でも、俺は彼女が好きなままで、彼女も俺を好きになってくれた。

 そのうえで必ず、10月11日が来た。


──安心する。

 何度目かの2026年10月11日、腕の中から温度が引いていく途中で、その言葉が蘇った。

 自分の隣が、彼女を送り出す場所になっていた。


 あるときは、入社式の会場のトイレで吐いた。

 鏡に映った22歳の顔が、知らない男に見えた。

 この顔で、これからまた120人と握手をして、3列前の女に笑いかけるのだ。


 パイプ椅子の軋む音は、いつからか処刑台のそれに聞こえるようになっていた。

 大輝の心はそのたびに砕けた。砕けた欠片を拾い集めて、また同じ椅子の上で目を覚ました。


(陽菜を助けて、ちゃんと幸せにしてやる)

 毎回、そう思っていた。

 指輪も、苗字のことも、全部、彼女を救ってからだと。


          ◇


「──新入社員の皆さん、本日はご入社、誠におめでとうございます」


 パイプ椅子が軋む。

 インクの匂いのする会社案内。板みたいなスマホ。3列前の、黒い髪。


 大輝は、もう何も感じなかった。


 それでも身体は動いた。フルネームで呼びかけ、懇親会を2人で回り、佐藤と鈴木の話をして、名前で呼び合うようになった。


 2025年4月8日。川沿い。散りかけた桜。


「陽菜」

 振り向く顔も、何百回見た。

「俺と付き合ってほしい」


 陽菜は驚いた顔のまま数秒固まって、それから、ヒマワリの顔で笑った。


「はい」


──その瞬間だった。


 82歳の自分の声を、ふと思い出した。


(自分に自信がないからとプロポーズを躊躇するな。すぐにしろ)

(1秒も無駄にするな。彼女との時間を、1秒もだ)


 大輝はずっと、あれを「彼女を救え」という意味だと思っていた。


(……ああ、そうか)


 救えないのなら。

 せめてこの1年半を、恋人のままでは終わらせない。

 この世で一番いい結婚生活を、彼女に。


 大輝は、彼女の手を取った。


「陽菜」

 自分でも驚くほど、声は静かだった。

「俺と、結婚してほしい」


 川の音が、やけに大きく聞こえた。


「……え?」

 陽菜の笑顔が、途中で止まる。

「あの、大輝くん。今、付き合ってって……」

「言った。返事ももらった」

「じゃあ、なんで」


「順番がおかしいのは分かってる。指輪もない。今日の帰りに買えるようなものじゃない」

 大輝は彼女の目を見た。

「それでも今、言わないと駄目なんだ」


「人は、いつ死ぬか分からない。……それを、嫌というほど知ってる」


 陽菜の瞳が揺れた。


「明日かもしれない。1年後かもしれない。そのときになって、言えばよかったと思うのだけは嫌なんだ」

 大輝は、握った手に力を込めた。

「君と過ごせる時間を、1秒も無駄にしたくない。恋人として過ごすより、夫婦として過ごしたい」


「……重いです」

「ああ、重い」


「認めるんだ?」

「認める」


 陽菜の目から、ぽろりと涙がこぼれた。

 彼女はそれを手の甲で乱暴に拭って、キッと顔を上げた。


「……条件があります」

「なんでも」


「ちゃんと、わたしの両親に挨拶に来てください。順番は守ってほしいんです」

「行く。明日にでも」

「明日は仕事でしょ」


 涙目のまま、陽菜が吹き出した。

 繋いだ手に目を落として、ぽつりと続けた。

「……わたし、この1週間、ずっと不思議だったんです」

「何が」

「大輝さん。あ、大輝くんは、わたしが困る前に助けてくれる。言う前に分かってる」


 陽菜が、まっすぐ大輝を見た。


「その理由は、いつか聞かせてね」


「……ああ」

「はい」

 彼女は両手で、大輝の手を包み直した。

「わたしで、よければ」


          ◇


 それからの数ヶ月は、嵐のようだった。


 陽菜の父親には、玄関先で30分立たされた。母親は最初から泣いていた。

 大輝の両親は「早すぎる」「まだ社会を知らない」と渋り、そして並んで頭を下げる2人を見て、それ以上は何も言わなくなった。


 何度この歳をやり直しても、若い母の声にだけは慣れなかった。


 指輪は、学生時代の貯金と少ない給料を元手に、少しだけ未来の知識でズルしてから買った。

 給料3ヶ月分などという相場は、2025年にはもう誰も守っていなかったが、なんとかその相場にはできたと思う。石はごく小さい。

 内側に、2025年4月8日と刻んだ。


 婚姻届を出したのは、プロポーズから約5ヶ月後。秋の初めだ。

 窓口の職員が「おめでとうございます」と言い、陽菜が丁寧に頭を下げた。それだけの、あっけない手続きだった。


 鈴木陽菜が、佐藤陽菜になった。

 紙が1枚受理されただけで、2人の名前が、同じ欄に収まった。


 会社では、佐藤と鈴木の話が、佐藤と佐藤の話に変わった。

「余計ややこしくなったな」

 先輩に笑われて、陽菜はまた耳まで赤くしていた。


 狭い1LDK。表札は「佐藤」だけで、それが妙に可笑しかった。

 朝は2人で同じ電車に乗った。洗濯物の畳み方で揉め、寝る時間の違いで揉め、仲直りのたびに彼女は不器用なメモを残した。『おみそしる、しょっぱかったらいってね♡』。

 彼女の味噌汁は確かに少ししょっぱくて、大輝はそれを一度も言わなかった。メモも1枚残らず取っておいた。


 1年は、瞬く間だった。


          ◇


 2026年10月11日。日曜日。


 その日、大輝は何もしなかった。


 旅行にも連れ出さず、部屋に閉じ込めもせず、病院にも行かなかった。カーテンを開け、味噌汁を作り、洗濯機を回した。ごく普通の、休みの日にした。


 ただ、彼女の手を離さなかった。


 朝食のあいだも。玄関で靴を履くときも。スーパーのレジの前でも。


 夕方、ベランダで洗濯物を取り込む背中を、大輝はずっと見ていた。

 何度も、この日のうちに失った背中だった。


「見てないで手伝ってよ」

「片手が塞がってる」

「今日ずっと引っ付き虫だね」


          ◇


「ねえ、今日の大輝くん、変だよ」

 ソファで、陽菜が繋いだ手を持ち上げてみせた。

「ずっと手、繋いでる」


「……駄目か」

「ううん」

 彼女は笑って、そのまま大輝の肩に頭を預けた。


 窓の外が、ゆっくりと暗くなっていく。


 18時。

 19時。

 20時。


 21時30分。


 1度目の人生で彼女が死んだ時刻を、大輝は越えた。

 22時。

 トラックも、キックボードも来なかった。

 23時。

 陽菜は眠そうに目をこすっていた。


 23時58分。

 繋いだ手が、汗で滑った。

 23時59分。

 大輝は、息を止めた。

 秒針が、天辺を回った。

 0時00分。

──10月12日。


 何も、起きなかった。


「……あれ、大輝くん」

 陽菜が慌てた声を出す。

「どうしたの、ちょっと、なんで泣いてるの」


 止まらなかった。

 喉の奥から、自分でも聞いたことのない声が出た。

 砕けては拾い集めてきた全部が、一度に溢れた。


 彼女は、理由を聞かなかった。

 ただ大輝の頭を抱え込んで、子どもをあやすように背中を叩いた。


「……よく分かんないけど」

 陽菜の声が、頭の上から降ってくる。

「わたし、どこにも行かないよ」


「うん」

「ずっと、隣にいるから」

「……うん」


 間に合ったよ、と大輝は思った。

 何百回分の、たった一言だった。


 やがて、夜が明けた。

 彼女は普通に起きてきて、少ししょっぱい味噌汁を作った。


          ◇


「──若き日のご自分に、伝えたいことはありますか」


 2085年4月1日。日曜日の、よく晴れた朝だった。


 佐藤大輝が82歳まで生きてきて、その問いを面と向かって投げられたのは、これで2度目だった。


          ◇


 ことの始まりは、頭上を滑る影だ。


 朝の散歩コースにしている遊歩道。ホログラムの広告が朝日に滲み、機械の駆動音が行き交う。その空に、黒い球体が1つ浮いていた。


(迷惑系の配信屋か)

 そう思ったことまで、そっくり同じだった。

 大輝が顔を伏せかけると、隣から袖を引かれた。

「大輝くん、あの人、追いかけてくる」


「すみません、今よろしいですか!?」


 呼び止められて、身体のほうが勝手に身構えた。

 息を切らして追いついてきたのは、まだ20代半ばと見える若い女だった。


「触っていない。近寄ってもいない。独り歩きの年寄りを狙うなら、他を当たれ」

 両手を上げようとして、片方が塞がっていた。


 口が、あのときと同じことを喋っていた。


「大輝くん」

 袖が、もう一度引かれた。

「独り歩きじゃないでしょうが」


「……ああ、そうだったな」


「あの、怪しい者じゃないんです。ほら、これ」

 女が差し出した手のひらの上に、小さな光の板が展開する。

『ネオ・ジャパン・テレビジョン 報道制作局』


「あら、テレビ局さん」

 陽菜が目を丸くした。

「もうだいぶ見てないのよ、テレビ」


 女は嬉しそうに頷いた。

「テレビなんて、今は若い子しか見ませんから。古臭い(レトロな)のが逆に新しいって」

 そしてドローンを指差す。

「番組は『ネクスト・ジャーニー』といいます。これから旅立つ若い人へ、という意味で」

 女が、手元の端末に目を落とす。

「あの、先にお名前をうかがってもいいですか。字幕に出しますので」

「佐藤大輝」

「佐藤陽菜です」


 そして、女は姿勢を正した。


「大輝さんと陽菜さん。ご夫婦ですよね。……若き日のご自分に、伝えたいことはありますか」


 風が、桜の花弁を1枚、3人の間に落とした。


 大輝は黙って、黒い球体を見上げた。

 レンズはただ丸く、こちらを向いている。その奥に、60年前の自分を思い浮かべた。


「……年寄りの惚気(のろけ)でいいのか」

「え」

 女スタッフが、言葉に詰まった。

「カメラを真っ直ぐ見ればいいんだな」


 大輝はレンズを見据えた。

 背筋が、自然と伸びた。


「大輝」

 今度は、絞り出す必要もなかった。

「彼女いない歴=年齢のお前に、社会人1年目で彼女ができる。お前は入社式で一目惚れした子と、ちゃんと付き合って結婚できる」


「まあ」

 隣で、陽菜が口元を押さえて笑った。

 皺の増えた顔が、60年前と同じように咲いた。


「信じられないだろうが、本当だ。向こうから笑いかけてくれる。だから安心しろ」

「あら、そうだったかしら」


 大輝はそこで一度、息を吸った。

「そのうえで、1つだけ言う。自分に自信がないからとプロポーズを躊躇するな。すぐにしろ」


「男なら、出会った瞬間に覚悟を決めろ」


 スタッフが、声にならない息を漏らした。


「順番がどうとか、貯金がどうとか、自信がどうとか、悩んでいる時間に価値はない。指輪を渡すのが早ければ早いほど、一緒にいられる時間が長くなる。それだけの話だ」

 大輝は胸を張った。

「おかげで俺は、あいつに会ってから、1日も独りじゃなかった」


「もう。何を言ってるんですか、この人は」

 陽菜が、頬を赤くして肘でつついてくる。

 それでも彼女は、繋いだ手を離さなかった。


「1秒も無駄にするな。彼女との時間を、1秒もだ」

 大輝は、レンズに向かって笑ってみせた。

「──1秒も無駄にしなければ、60年だ。60年、ずっと隣にいられる」


「……っ、すみません、わたしが泣いてどうするんですか」

 女スタッフが目元を拭い、ドローンを手で払って下がらせた。

「あの……お2人の出会いは、どちらで?」


「入社式だ」


「席が、3列離れてました」

 陽菜が、悪戯っぽく指を3本立ててみせる。

「この人ったら、今の話そのままだったんですよ。お付き合いした当日にプロポーズ」


「と、当日……?」

「そう、入社式で出会って1週間後。川沿いで、桜が散っているときに。付き合ってくださいって言った5分後に今度はプロポーズよ」


 陽菜は白髪を、きれいに結い上げている。

 その左手の薬指で、小さな石が陽の光を弾いた。


「内側に、その日の日付が刻んであります」

 陽菜が指輪を少し回した。

「60年経っても、ちゃんと読めるんです。……どうしてあんなに急いでいたのかは、まだ教えてもらってませんけど」


「誰にも、取られたくなかったからな」

 大輝は、小さく呟いた。


「……素敵です。末永く、お幸せに!」

 深く頭を下げるスタッフに、2人は揃って会釈を返した。


          ◇


「疲れたでしょう。ベンチで休んでいきます?」

 陽菜が、遊歩道の脇を指差した。


「いや」

 大輝は首を振った。

「歩こう」


 一度だけ、目を閉じてみた。


 ホログラムの電子音も、機械の駆動音も、桜を揺らす風の音も、何ひとつ消えなかった。

 手のひらの中に、彼女の手の温もりがあった。


「流しに、2人分の食器を浸けたままだ」

「あら、ほんとう」


「帰ろうか、陽菜」

「はい」


 2085年の朝を、82歳の2人は、手を繋いでゆっくりと歩いていった。

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