「自分で稼ぐ」とは何なのか、とある作品に感じた違和感
物語の中で師匠が弟子に「自分の力で金を稼げ」と命じる展開は珍しくない。
これは単に収入を得るという意味ではなく、自分で考え、自分で行動し、その結果として対価を得ることを学ばせる教育でもある。
ところが、とある作品における師匠と主人公の関係は、その目的と実際の描写が大きく食い違っている。
主人公が始めたのは、師匠が開発した商品のコピー販売。正直なところ、「なぜそうなるのか」としか思えなかった。
師匠から「自分で金を稼げ」と言われて始めることが、師匠の商品を真似して売ることなのか?
それでは最初から師匠におんぶされてるのと変わない。土台技術は師匠、設計思想も師匠、完成品も師匠、主人公は少しだけ手を加えただけ。それで「自分で稼いだ」と言われても、納得する読者は少ないだろう。
もちろん現実でも既存の商品を改良して新商品を作ることはある。しかし、その場合は自ら研究し、自ら設計し、自ら新しい価値を付加する。単なるコピーとは意味が違う。この作品では、その過程がほとんどない。
だからこそ「他人の成果物に便乗している」という印象が強い。
さらに理解できなかったのは、それを師匠自身が何の疑問もなく認めていること。弟子を育てるのであれば、本来なら「自分で考えろ」「自分だけの商品を作れ」と指導する場面ではないか、失敗してもいいから、自分の頭で考えさせる。それこそ教育だ。
しかし実際には、師匠の技術を利用を当然のように認めいる。これでは弟子を自立させるどころか、師匠への依存を深めているだけであり口では「自分で稼げ」と言いながら、実際には師匠がいなければ何もできない。この矛盾が最後まで解消されない。
そして最も驚いたのは、主人公がコピー商品に自分のブランド名を付け始めたこと。これは正直、かなり強い違和感を覚える。
ブランドとは単なる名前ではない。積み重ねた技術。積み重ねた品質。積み重ねた信用。それらすべてを象徴するものだ。
だから企業は長い年月をかけてブランドを育てる。一朝一夕に得られるものではない。
しかし主人公の場合、そのブランドの中身が存在しない。発案したわけでもなく。設計したわけでもない。開発したわけでも、製造したわけでもなし。師匠が作ったものを少し変え、それを職人に複製させて販売しているだけ。全て他人任せだ。
それにもかかわらず、自分のブランドとして売り出す姿勢には違和感しかない。
普通なら師匠の名前をブランドにし、少なくとも敬意を示す描写があるはず。ところが作品では、自分の名前をつけることが当然であるかのように扱われている。
しかも師匠も家族も実情を知りながら周囲の人物たちはそれを問題視しない。誰一人として疑問を抱かず、むしろ称賛している。
この世界には知的財産権という概念が存在しないのだろう。しかし、それ以前の問題として他者の功績を尊重する倫理観まで消えてしまう理由にはならない。仮に法的な問題がなくても、師匠への敬意は別問題だ。
もし本当に「自分で金を稼ぐ」というテーマを描きたかったのであれば、別の展開はいくらでも考えられたはず。
師匠は最低限の知識だけ渡し、あとは一切助けない。主人公は失敗を繰り返しながら、自分なりの商品を考える。売れずに落ち込み、改善を重ね、ようやく利益が出る。その過程で商売の難しさと創意工夫を学び、自立していく。そのような物語であれば、「自分で稼ぐ」というテーマにも説得力が生まれただろう。
しかし実際には、師匠に依存し、成果物を複製して利益を得るだけでした。これでは自立ではなく師匠の庇護の延長にすぎない。
結局のところ、物語が掲げる「自分で金を稼ぐ」という目標と、実際に主人公が行っている行動との間には大きな隔たりがあるのだ。
これで周囲から努力家として評価される展開は、どうしても説得力を感じることができない。
成長物語とは、本来、自分の力不足を認め、失敗を重ね、その失敗を糧として前へ進むからこそ読者の共感を呼ぶ。
しかしこの作品では、その苦労の多くを師匠が肩代わりしてしている。その結果、「自分で稼ぐ」という言葉だけが残り、実態は師匠の力で稼いでいるにすぎないという印象を受けた。
師弟関係を描くのであれば、弟子が師匠から少しずつ離れ、自分だけの道を歩き始める姿を見せてほしかったと思う。




