第1話 「死にたがりの少女と、殺せない死神」
月が、赤かった。
焼け落ちる神社の残骸の中で、少女が泣いていた。白い着物の裾は泥と血に汚れ、小さな手は何かを──誰かを──必死に掴もうとしていた。
けれど、その手が掴んだのは、虚空だった。
「──また、間に合わなかった」
黒い羽根が舞い散る中、一人の死神が佇んでいた。金色の目が、泣いている少女を見下ろす。
「お前の魂は、ここにあるべきではない」
少女が顔を上げた。涙で濡れた瞳が、月明かりに透ける。紅い目だった。血の色ではない。夕焼けの、一番きれいな瞬間の色。
少女が、笑った。
「──見つけてくれたんですね」
死神の手が、止まった。
鎌を握る指が、初めて震えた。
千年という時の中で、たった一度だけ。
──彼は、魂を刈ることができなかった。
四月。桜。
日本という国は残酷だと思う。毎年毎年、最も美しい花を最も短い命で散らすのだから。
でも、と氷柱ことりは思う。
桜が永遠に咲いていたら、きっと誰も見上げない。散るから美しいのだ。終わりがあるから、人は花を愛でる。
──終わりが、ない私は。
誰かに、愛でてもらえるのだろうか。
「ことりー! また屋上でぼーっとしてるー!」
階段を駆け上がる足音と共に、親友の声が響く。ことりは慌てて目元を拭い、振り返った。
「ぼーっとしてないよ! 桜を観察してたの!」
「嘘つけー。また哲学的なこと考えてたでしょ」
「失礼な。私が哲学なんてできるわけないじゃん」
「そこは否定するとこじゃなくない?」
笑い合う。春の風が髪を揺らす。ことりは目を細めた。
──ああ、今日も生きている。
今日も、まだ。
氷柱ことりには秘密がある。
彼女は六歳の時、「自分の寿命がゼロである」ことを知った。正確に言えば、死にかけたのだ。原因不明の高熱。三日間の昏睡。医者にも匙を投げられた夜、ことりは不思議な夢を見た。
真っ暗な空間に、巨大な砂時計が浮かんでいた。
上の砂は──空だった。
一粒も、残っていなかった。
「あなたの寿命は、とっくに尽きています」
砂時計の番人を名乗る少女がそう言った。白い髪に、感情のない目。
「なのにあなたは生きている。これは──不具合です」
目が覚めた時、熱は下がっていた。ことりは奇跡の生還を遂げたと周囲に祝福されたが、彼女だけが知っていた。
奇跡ではない。
異常だ。
それから十年。ことりは普通の女子高生として暮らしている。友達がいて、学校があって、帰る家がある。幸せだ。幸せなはずだ。
ただ時々──ほんの時々だけ。
散っていく桜を見て、思う。
あなたたちは、ちゃんと終われていいな、と。
その夜、ことりは一人で夕飯を作っていた。
両親は海外赴任中。一人暮らしの高校生。寂しくないと言えば嘘になるが、もう慣れた。一人でいることは、ことりにとって安全でもあった。
誰にも、心配をかけなくて済む。
「今日はハンバーグにしよう。ちょっと奮発して……」
玉ねぎをみじん切りにしながら、鼻歌を歌う。包丁のリズムに合わせて、適当なメロディー。
──と。
窓ガラスが、割れた。
「っ!?」
反射的に身構える。キッチンの窓から飛び込んできたのは──黒い、人影。
いや、人ではない。
黒い外套。その下から覗く銀色の髪。金色の、感情のない瞳。そして右手に握られた、身の丈ほどもある巨大な鎌。
鎌の刃が、蛍光灯の光を反射して、青白く輝いた。
死神だ。
本物の、死神。
ことりの脳裏に、十年前の夢がフラッシュバックする。砂時計。空の砂。「不具合」。
──ああ、ついに来たんだ。
「氷柱ことり」
低い声が、名前を呼んだ。抑揚のない、冷たい声。
「黄昏庁・終焉課所属、鴉羽暁。貴様の魂を回収しに来た。寿命超過十六年──異例中の異例だ。本来なら下位の死神が担当する案件だが、過去の派遣が全て失敗している。よって、俺が来た」
鎌が持ち上がる。
「抵抗は無意味だ。覚悟しろ」
ことりは──。
ことりは、ぽかんとした顔で死神を見上げた。
それから。
ぱああっ、と花が咲くように笑った。
「わぁ! 死神さまですか!!」
「…………は?」
「本物ですよね!? すごい! すごいすごい! 鎌がちゃんとある! やっぱり鎌なんですね! 映画とか漫画の通りなんだ!」
「……待て」
「しかも窓から来るんですね! ドアじゃないんだ! かっこいい……いや、窓は割れましたけど……まあ、それは……うん、明日ホームセンター行きます」
「待てと言っている」
「あ、お茶飲みます? ちょうどお湯沸かしてたんです。紅茶と緑茶とほうじ茶、どれがいいですか? あ、ハンバーグも作ってるので、よかったら食べていきます? ちょっと多めに作っちゃったんですよ」
「聞け人間」
暁の声が、僅かに上がった。
彼は千年以上、死神をやっている。数えきれないほどの人間の魂を刈ってきた。泣く者。怒る者。命乞いをする者。諦めて目を閉じる者。反応は様々だが、共通しているのは──恐怖だ。
死を前にした人間は、例外なく怖がる。
それが、自然だ。
なのにこの少女は。
ニコニコしながら紅茶を淹れようとしている。
「……お前、状況を理解しているか? 俺はお前を殺しに来たんだぞ」
「はい! 知ってます!」
にこり。
「十年くらい前から、なんとなくわかってました。いつか来るんだろうなって」
「ならばなぜ──」
「だって」
ことりが振り返った。夕焼け色の瞳が、優しく笑う。
「来てくれたんでしょう? 私のために」
沈黙。
暁の金色の目が、僅かに揺れた。
「……殺しに来たと言っている」
「うん。でも、来てくれたんですよね。私のところに。十六年間、誰も来てくれなかったのに」
ことりは紅茶のカップを二つ、テーブルに置いた。
「一人って、ちょっと寂しかったんですよ」
その声はあまりにも穏やかで、あまりにも透明で。
暁は──返す言葉を、失った。
結論から言うと、暁はことりを殺せなかった。
「はあ!?」
紅茶を一口飲んだ後(飲んでしまった自分に一番驚いていた)、暁は鎌を構え直し、ことりの首に刃を振り下ろした。
正確に。迅速に。千年の技術を持って。
──鎌が、弾かれた。
ことりの体の周囲に、淡い光の膜が現れた。半透明の、虹色に輝く結界。触れた瞬間、最高位の死神の鎌が、まるでゴムボールのように跳ね返された。
「え? 何今の?」
ことり自身も驚いている。
「もう一度だ」
暁は冷静に鎌を構え直す。今度は全力で。黄昏庁最強の死神の一撃。都市一つを消滅させられるだけの死の力を込めて──。
ぽいん。
弾かれた。
ぽいんって。
「すごい! 光ってますよ、私!」
「黙れ」
三度目。横薙ぎ。
ぽよん。
四度目。突き。
ぴょん。
五度目。全方位から死の波動を放射。
しゃらん、と鈴のような音がして、結界が光り輝き、死の波動は桜の花びらに変換されてキッチンに舞い散った。
「きれい……」
「きれいじゃない」
暁は鎌を下ろし、額に手を当てた。千年の死神人生で、初めての事態だった。
「……報告する」
ポケットから黒い携帯電話(冥界仕様)を取り出す。
「宵宮。俺だ」
『あれー? 暁ちゃん? もう終わった? 早いねえ。さすが終焉課のエース──』
「殺せなかった」
『…………え?』
「聞こえなかったか。殺せなかった。対象に未知の防御結界が発動する。俺の鎌が通らない」
通話の向こうで、何かが落ちる音がした。恐らくコーヒーカップだろう。
『ちょ、ちょっと待って。君が殺せないって、それ千年で初めてじゃない? いや、マジで? 冗談でしょ?』
「俺が冗談を言ったことがあるか」
『ないね! 一度もないね! だから怖いんだよ!』
暁は通話を切り、ことりを見た。
ことりはテーブルの向かいに座り、にこにこしながら暁の紅茶にクッキーを添えていた。
「……何をしている」
「お茶請けです。手作りなんですよ」
「俺は死神だ」
「死神さまも甘いもの食べるでしょ?」
「食べない」
「じゃあ、しょっぱいの派ですか? おせんべいもありますよ」
「そういう問題では──」
ことりが差し出したクッキーを、暁はじっと見下ろした。
兎の形をしていた。
……不覚にも、可愛いと思ってしまった。
暁は自分の思考に愕然とし、立ち上がった。
「黄昏庁の規定第七条。『対象の魂の回収が完了するまで、担当死神は対象から半径百メートル以内に留まること』──つまり、任務が終わるまで俺はお前の傍を離れられない」
「え! じゃあ一緒に住むってことですか!?」
「一緒に住むとは言っていない。監視だ」
「やったあ!」
「喜ぶな。殺されるんだぞ」
「でも今日は殺せなかったですよね?」
「……明日殺す」
「じゃあ今日は一緒にハンバーグ食べましょう!」
ことりは嬉しそうに立ち上がり、キッチンに向かった。その背中を、暁は金色の目で見つめる。
──おかしい。
全てがおかしい。
この少女は、死を怖がらない。それどころか、死神である自分を歓迎している。まるで、ずっと待っていたかのように。
そして、あの結界。
暁は知っている。あの光の色を。あの鈴の音を。千年前に、一度だけ見たことがある。
赤い月の夜。焼け落ちる神社。泣いていた少女。
──まさか。
「死神さまー! ハンバーグ、デミグラスと和風どっちがいいですかー?」
「……好きにしろ」
「じゃあ両方作りますね!」
暁は窓の外を見た。
夜空に、星が瞬いている。あの夜と同じ――いや、あの夜は月が赤かった。今夜の月は白い。穏やかな、春の月だ。
指先が、微かに震えている。
千年ぶりに。
ハンバーグは、美味かった。
暁はその事実を決して認めない。認めないが、二個目に手を伸ばしてしまった自分を呪った。
「おかわりありますよ?」
「いらない」
「でも今二個目──」
「いらない」
食後、ことりはテキパキと食器を洗い、客間(という名の空き部屋)に布団を敷いた。
「死神さまはここで寝てください。お風呂は先に使っていいですよ」
「死神は寝ない」
「え、寝ないんですか? 大変ですね……」
「大変ではない。不要なだけだ」
「でも、横にはなれますよね? 体は休めてくださいね」
ことりはそう言って、にっこり笑った。
暁は無言で壁にもたれた。この少女のペースに巻き込まれている自覚はある。だが、千年の経験をもってしても、対処法が見つからない。
ことりが自室に戻った後、暁は闇の中で呟いた。
「宵宮」
影の中から、ぬるり、と狐の面をつけた青年が現れた。
「呼んだー?」
「調べろ。あの少女の過去を。そして──千年前の神隠し事件との関連を」
宵宮の笑みが、一瞬だけ消えた。
「……暁ちゃん。それ、触れちゃいけないやつじゃなかった?」
「俺はただ、任務を遂行する」
「本当に?」
暁は答えなかった。
宵宮はため息をつき、狐の面を指で撫でた。
「了解。でもさ、一つだけ聞いていい?」
「何だ」
「あの子のハンバーグ、美味しかった?」
「…………帰れ」
宵宮がくつくつと笑いながら影に沈んでいく。
暁は壁にもたれたまま、目を閉じた。
その時──。
壁の向こうから、微かな音が聞こえた。
ことりの部屋だ。
耳を澄ませる。
音の正体は、すぐにわかった。
──泣いている。
声を殺して。布団に顔を埋めて。誰にも気づかれないように。
あの明るい笑顔の裏側で、この少女は毎晩こうして泣いているのだろうか。
「寂しかったんですよ」
夕方の言葉が、蘇る。
十六年間、寿命がゼロだと知りながら。いつ終わるかわからない命を抱えながら。一人で笑って、一人で泣いて。
来てくれたんですよね、と。あの子は言った。
殺しに来た相手に、「来てくれた」と。
暁は目を開けた。
金色の瞳が、暗闇の中で揺れている。
千年間、感じたことのない痛みが、胸の奥で脈打っていた。
これは何だ。
不具合か。
──俺にも、不具合が起きている。
エピローグ ──明日も殺しに来ます──
翌朝。
ことりが目を覚ますと、キッチンのテーブルにメモが置いてあった。
几帳面な、しかし明らかに字を書き慣れていない筆跡。
黄昏庁規定により、日中は偵察活動を行う。 夕刻に戻る。 鍵は窓が割れているため不要。 ※窓は明日までに修理手配する。(経費は黄昏庁に請求) ※ハンバーグは不味くはなかった。
ことりはメモを読み、くすっと笑った。
それから、メモの最後の一行を指でなぞった。
「不味くは、なかった、か」
目が潤む。
でも今度は、悲しい涙ではなかった。
ことりはメモを大事に折りたたんで、制服のポケットに入れた。
窓の外では、桜が舞っている。
散っていく花びらが、朝日に透ける。
「──散っても、きれいだな」
初めて、そう思えた。
学校に着くと、屋上に黒い影が見えた気がした。
目を凝らすと、黒い外套をはためかせた銀髪の死神が、屋上のフェンスに腰掛けていた。
目が合った。
暁が、すぐに目を逸らした。
ことりは小さく手を振った。
暁は手を振り返さなかった。
──でも、逃げなかった。




