第96話 閑話 宰相ヴァルド ―― 枠
アルトを北方へ送り出した側にも、時間は流れていた。
これは、彼を「正しく」追放した男の話。
改革は、成功していた。
宰相ヴァルドは、月次の報告書を前に、そのことを何度でも確認できた。決裁にかかる日数は半分になった。軍と物流は一本化され、重複した部署は消え、紙の山は低くなった。税収は安定し、街道は速くなり、市場は朝から賑わう。数字は、どれも正しい方向を向いている。
国は、速く、強く、透明になった。
彼が約束したとおりに。
それなのに、ヴァルドは最近、ある癖がついた。
報告書の束を読み終えたあと、もう一度、最初から「載っていないもの」を探す癖だ。
載っているのは、起きたことだ。事故、損失、対応、結果。すべて記録に残る。だが、かつてこの城には、起きなかったことを記録する人間がいた。白い封蝋の報告書。「何も起きませんでした」という、誰も読まない紙の束。
あれを積み上げていた男を、ヴァルドは自分の手で送り出した。
紙の上では栄転に見える、礼儀正しい配置換えで。
「宰相、北街道の件です」
補佐官が、新しい報告書を持ってくる。ヴァルドは目を通した。橋脚の劣化。点検の遅延。崩落。荷馬車三台。死者、二名。
陰謀ではない。
失策でもない。
点検の周期は、改革で定めた基準どおりに守られていた。基準が、わずかに現場の実態とずれていただけだ。担当者が替わり、地盤の癖が引き継がれず、誰も「いつもと違う」と書ける枠を持っていなかった。一本化された制度には、その一行を書き込む余白がなかった。
ヴァルドは、かつて自分が言った言葉を、正確に覚えていた。
――枠が増えれば複雑になる。複雑は腐敗を生む。
正しい。今でも、正しいと思う。
複雑な制度は、腐る。それは事実だ。
だが、と彼は思う。
あの男は、腐敗ではなく、欠損の話をしていた。
複雑さが腐敗を生むのと同じだけ、単純さは欠損を生む。どちらも本当で、彼はそのうちの片方しか見ていなかった。両方を同時に見て、そのあいだの幅で手を打てる人間が、ひとりだけいた。
ヴァルドは、報告書の余白に目を落とす。
そこは、白い。何も書かれていない。
かつてこの余白には、いつも短い注釈があった。派手な言葉のない、次の人が動くためだけの一行が。《雨ではない。整備基準を点検》。あの一行が、どれだけの崩落を、起きる前に消していたのか。起きなかった事故は、数えられない。数えられないものを、彼は「無駄」と呼んで削った。
これは、復讐されているのではない。
誰も彼を呪っていない。アルトは何の罠も仕掛けていない。北方で、黙って自分の現場をやっているだけだ。
ただ、正しさだけが、静かに人を殺している。
彼自身の、正しさが。
ヴァルドは立ち上がり、窓の外を見た。
北へ続く街道が、朝の光の中で細く伸びている。あの道の先に、男はいる。呼び戻せば、来るかもしれない。だが――来たところで、もう間に合わない死が幾つあるかを、誰より正確に数えるのは、その男だ。だから戻らないのだと、ヴァルドはようやく理解した。理解したことを、誰にも言えなかった。
彼は補佐官を呼んだ。
「点検基準に、一項目だけ足す」
「はい」
「『いつもと違う』と感じた者が、理由なく延期を申し出られる枠だ」
「……理由なく、ですか。それでは濫用が」
「濫用は、起きる」
ヴァルドは、自分の声が静かなことに気づいた。かつてアルトが、いつもそうだったように。
「だが、濫用を恐れて枠を消すと、もっと静かに、人が死ぬ」
補佐官は戸惑った顔のまま、書き留めた。
たった一行の枠だ。アルトが残していった制度の、ほんの欠片を、彼は今ごろ自分の手で書き直している。
正しかった。あの追放は、たしかに正しかった。
正しかったからこそ、誰も止められなかった。
ヴァルドは報告書を閉じ、もう一度、北の道を見た。
そして、まだ答えの出ない問いを、ひとつだけ自分に残した。
――この枠を、次は、誰が引き受けるのか。
お読みいただきありがとうございました。
「正しさ」の側にも、遅れてやってくる時間があります。




