第90話 立っていない
セルマは、現場に来ていた。
呼ばれたわけではない。
統計の動きが、気になっただけだ。
停止回数は増えている。
重大事故は出ていない。
だが、小規模な崩れが散発している。
「うまくいっているようで、うまくいっていない」
斜面の下で、カイが指示を出している。
「今日は基準二つ該当だ」
「補強してから進める」
迷いがない。
若手は従う。
作業は整然と進む。
セルマは、その様子を黙って見ていた。
夕方、作業が一区切りついたとき、
セルマはカイに声をかける。
「順調ですね」
カイは、少し驚く。
「ああ、先生」
「理論のおかげです」
セルマは首を振る。
「私の理論じゃない」
「あなたの基準でしょう」
カイは、わずかに誇らしさを隠す。
「基準は、必要です」
「曖昧さは、事故を呼ぶ」
セルマは、斜面を見上げる。
「曖昧さは、火を呼ぶこともある」
カイは、眉をひそめる。
「火?」
「止まることと、立つことは違う」
カイは、即座に返す。
「俺は、止まっています」
「ええ」
セルマは頷く。
「止まっている」
少し、間を置く。
「でも、立ってはいない」
カイの顔が強張る。
「意味が分かりません」
セルマは、土を一握り取る。
「止まるのは判断」
「立つのは、引き受け」
「同じです」
「違う」
セルマは、静かに言う。
「あなたは、基準を見ている」
「基準がなければ、止まれますか」
カイは、答えに詰まる。
「基準は目安です」
「目安がなければ?」
風が強く吹く。
斜面の上で、砂が舞う。
カイは、無意識に基準表を思い出す。
含水率。
振動。
角度。
それがなければ、
何を根拠に止まるのか。
「……止まります」
だが、声はわずかに揺れる。
セルマは、視線を逸らさない。
「あなたは、止まっている」
「でも、引き受けていない」
「引き受けている!」
思わず声が強くなる。
「俺が判断している」
「判断はしている」
セルマは認める。
「でも、責任は基準に預けている」
沈黙が落ちる。
遠くで、若手が小さな石を動かしている。
基準外の動き。
カイは、それを見ていない。
セルマは、静かに続ける。
「基準がなくなったら、どうしますか」
カイは、答えられない。
基準は、自分が作った。
それがなければ、
今の成功はなかった。
「基準は、守るためのものです」
「ええ」
セルマは頷く。
「でも、火は守られない」
風が止む。
斜面は、静かだ。
セルマは、最後に言う。
「あなたは、止まっている」
「でも、まだ立っていない」
その言葉は、
責めではなく、
確認だった。
カイは、何も返せない。
夜、彼は一人で斜面に戻る。
基準を持たずに立ってみる。
土に触れる。
軽い。
水を見る。
静かだ。
——止まる理由は?
基準がないと、
言葉が浮かばない。
その瞬間、
初めて不安が走る。
止まっているつもりで、
何かを預けていたことに。
火は、
まだ起きていない。
だが、
確実に、
遠ざかっている。
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