第89話 見ていない
その日は、風が強かった。
斜面の上で資材が揺れる。
排水路の水が、細く速く流れている。
カイは、全体を見渡していた。
「今日は基準通りでいく」
若手たちは頷く。
含水率。
角度。
振動。
問題なし。
「進める」
作業は始まる。
そのとき、
若手の一人が、別の小さな亀裂に気づく。
基準には該当しない。
数値も正常。
だが、
嫌な感じがする。
彼は、迷う。
止める理由は、ない。
それでも、
こっそりと石を一つ外し、
水の逃げ道を作る。
誰にも言わない。
作業は続く。
夜、予想外の横殴りの雨。
斜面の上部ではなく、
若手が触れた小さな亀裂の周辺で、
水が集中する。
だが、
逃げ道ができている。
崩れない。
翌朝、
報告書には何も書かれない。
基準に該当なし。
事故なし。
成功とも、書かれない。
カイは、全体報告をまとめる。
「問題なし」
若手は、黙っている。
誰も、
小さな石の移動に気づかない。
数日後、
別の現場で、
同じような小さな亀裂が出る。
基準外。
数値正常。
誰も触らない。
夜、
その部分が崩れる。
小規模。
怪我なし。
報告書に記される。
《予測外小規模崩落》
カイは、紙を見つめる。
「基準外か」
若手が、小さく言う。
「前回は、触りました」
カイは、顔を上げる。
「触った?」
「はい」
「基準外でしたけど、
嫌な感じがして」
カイは、少しだけ黙る。
「基準外なら、
報告すべきだ」
若手は、視線を落とす。
「壊れなかったから」
その言葉が、
胸に引っかかる。
壊れなかった。
だが、
誰も知らない。
カイは、初めて気づく。
——見ていない。
基準に当てはまるものだけを、
見ている。
基準外の小さな動きは、
評価されない。
止まることが正解になり、
止まらない成功は、
記録されない。
カイは、斜面の前で立つ。
土に触れる。
基準を確認する。
正常。
だが、
どこかで、
小さな音がする。
聞こえた気がする。
それを、
基準に当てはめようとする。
当てはまらない。
進める。
その決断は、
基準通りだ。
だが、
何かを見落としている。
火は、
まだ起きていない。
だが、
小さな火種は、
誰にも知られず、
別の場所で揺れている。
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