第88話 止まりすぎる
止まることが、日常になった。
斜面の前で、
若手が先に言う。
「基準一つ該当」
「念のため止めます」
念のため。
その言葉が増える。
補強。
確認。
再開。
何も起きない。
安全だ。
だが、工程表の赤線が伸びる。
「今日も遅れるな」
別班の責任者が苦い顔をする。
「慎重すぎるんじゃないか」
若手が言い返す。
「壊れるよりはいいでしょう」
正論だ。
誰も否定できない。
カイは、二人の間に入る。
「止まるのは悪くない」
「だが、全部止めればいいわけじゃない」
若手が聞く。
「基準に当てはまってます」
カイは、紙を見る。
確かに一項目は該当。
だが、
感覚が違う。
「ここは進める」
若手は戸惑う。
「でも……」
「基準は目安だ」
そう言いながら、
カイは自分でも気づく。
——目安?
基準を作ったのは、自分だ。
曖昧さを消すために。
なのに、
今は曖昧に戻している。
作業は進む。
何も起きない。
成功。
だが、
若手の表情は晴れない。
「止まるのが正解じゃないんですか」
カイは、少し強く言う。
「正解は一つじゃない」
その言葉は、正しい。
だが、
基準がある以上、
若手は揺れる。
夜、別の現場で、
基準三項目該当。
若手は止める。
補強に時間がかかり、
排水作業が遅れる。
翌日、
別箇所で小さな浸水。
怪我なし。
報告書には、
こう書かれる。
《停止判断による工程遅延の影響》
カイは、紙を見つめる。
止まることで守った場所。
止まったことで遅れた場所。
どちらが正しいか、
数字では分からない。
若手が言う。
「どうすればいいんですか」
カイは、答えに詰まる。
止まりすぎても、
止まらなさすぎても、
ひずみが出る。
基準は厚くなった。
安心も増えた。
だが、
止まる前に、
基準を見る時間が増えた。
止まることが、
目的になり始めている。
斜面の前で、
カイは立つ。
土に触れる。
軽い。
止まる理由はない。
それでも、
一瞬だけ、
止まる。
——止まらないと、怖い。
その感情は、
基準には書かれていない。
火は、
まだ起きていない。
だが、
止まることが、
重くなっている。
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