第86話 基準
カイは、曖昧さが嫌いになっていた。
「慣れだ」
そう答えるたびに、
若手の目が揺れる。
それが、気にかかる。
——言語化できないのは、弱い。
夜、自室の机に向かう。
これまでの現場記録を並べる。
止めた地点。
止めなかった地点。
成功。
小さな崩れ。
共通項を探す。
土の含水率。
斜面角度。
前回降雨量。
排水路の詰まり具合。
数値は、安心をくれる。
「……これだ」
ノートに書く。
《停止判断基準(暫定)》
・含水率基準値以上
・排水遅延兆候
・微細振動増加
・音の鈍化
曖昧な「嫌な感じ」は削る。
測れるものだけ残す。
翌日、チームに配る。
「迷ったら、これを見る」
「基準に当てはまれば止める」
若手が安堵する。
「分かりやすいです」
その言葉が、心地いい。
斜面の前で、
若手が言う。
「三項目該当」
「止めます」
カイは頷く。
補強。
調整。
雨。
崩れない。
成功。
基準は、機能している。
だが、
別の現場で、
基準に当てはまらない微妙な違和感があった。
若手は迷う。
「基準外です」
カイは、基準を確認する。
数値は正常。
「進める」
作業は進む。
その日は崩れない。
だが、
夜の局地的豪雨で、
小さな崩れが起きる。
怪我なし。
迅速対応。
報告書に、
こう記される。
《基準外事象》
カイは、紙を握る。
基準は、守られた。
間違っていない。
だが、
何かが漏れている。
翌朝、
若手が聞く。
「基準を増やしますか」
カイは、少し考える。
増やせば、精度は上がる。
曖昧さは減る。
「……増やそう」
新たな項目を書き足す。
基準は、厚くなる。
安心も、厚くなる。
だが、
止まる前に、
基準を見る時間が増える。
止まる理由が、
自分から離れ、
紙の上に移る。
カイは、気づかない。
基準を作った瞬間、
止まるのではなく、
確認していることに。
火は、
まだ起きていない。
だが、
火が起きる余白は、
少しずつ削られている。
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