第85話 静かな違和感
止まることは、もう特別ではなかった。
斜面の前で、誰かが言う。
「ここ、止めましょう」
理由は、いくつも挙げられる。
土の色。
水の濁り。
音の重さ。
カイは、それを聞いて頷く。
「いい判断だ」
補強。
調整。
作業再開。
その日は、雨も降らない。
崩れることもない。
だが、
午後になって、
別の班から声が上がる。
「こっちは止めないのか?」
別の斜面。
条件は似ている。
だが、カイは少し考える。
「……止めなくていい」
若手が戸惑う。
「基準に二つ当てはまります」
カイは、チェックリストを見る。
確かに、当てはまる。
だが、
感覚が違う。
「ここは、大丈夫だ」
言い切る。
若手は、黙って従う。
作業は進む。
何も起きない。
成功だ。
だが、
若手の一人が、小さく言う。
「違いが、分からない」
カイは、答える。
「慣れだ」
その言葉は、正しい。
だが、
曖昧だ。
夜、別の現場で、
若手が一人で判断する。
「基準に当てはまる」
「止める」
補強。
遅延。
結果、
本来進めるべき工程が遅れ、
別箇所の排水が間に合わない。
小さな崩れ。
怪我はない。
報告書には、
こう書かれる。
《慎重判断による工程遅延》
カイは、その報告を読む。
「……慎重すぎたか」
だが、間違いではない。
慎重は、悪ではない。
それでも、
どこかに、
わずかなズレが生まれている。
止まることが、
正しさになり始めている。
止まらないことが、
説明を必要とする。
翌日、
カイは斜面の前で立つ。
土に触れる。
軽い。
水の流れを見る。
静かだ。
止まる理由はない。
それでも、
一瞬だけ、
止まる。
——止まらない理由を、探している。
その瞬間、
胸の奥に、
小さな違和感が生まれる。
だが、
言葉にはしない。
作業は進む。
何も起きない。
だから、
疑わない。
静かな違和感は、
まだ、音にならない。
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