第80話 広がらない
セルマは、二度目は迷わなかった。
斜面の前で止まる。
土に触れる。
水の流れを見る。
理論は、思い出さない。
「また来たのか」
農夫が笑う。
「ええ」
セルマは、それ以上説明しない。
承認も、報告もない。
ただ、立つ。
数日後、雨が降る。
斜面は崩れない。
農夫は言う。
「最近、ここは静かだな」
静か。
その言葉が、胸に残る。
セルマは、研究室に戻る。
机の上には、理論の改訂案。
評価会議の案内。
引用数の増加通知。
すべて、順調だ。
だが、彼女は理解している。
火は、広がらない。
教えられない。
配布できない。
制度化できない。
あの瞬間、
彼女が立ったことは、
誰にも渡らない。
農夫も、
作業員も、
学生も、
知らない。
「……それでいい」
セルマは、初めてそう思う。
広がらないから、
形を変えない。
数日後、
別の区域で事故が起きる。
理論は適用されていた。
承認も得ていた。
想定内。
対応迅速。
セルマは、もう叫ばない。
理論は、
理論として働いている。
火は、
別の場所で、
別の人に起きている。
夜、
研究室の灯りを落とす。
廊下の窓から、
遠くの街を見下ろす。
どこかで、
誰かが止まる。
それは、
彼女の功績ではない。
理論の成果でもない。
ただ、
起きる。
広がらない。
だが、
消えない。
セルマは、静かに呟く。
「残らなくていい」
その言葉は、
誰にも記録されない。
それでも、
壊れなかった場所は、
今日も、
ひとつ増えている。
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