第76話 届かない
セルマは、名前を使わなくなった。
講義でも、論文でも、
あの言葉を避ける。
《非定型即応判断法》
その代わりに、
こう言うようになった。
「現場には、理論で説明しきれない瞬間があります」
学生の一人が手を挙げる。
「説明できないものを、
どう扱えばいいんですか」
セルマは、一瞬だけ黙る。
以前なら、
理論で囲った。
今は、違う。
「説明できないと認めることです」
教室が、静まる。
「認めた上で、
壊さない方法を探す」
「それも理論では?」
鋭い質問だった。
セルマは、苦笑する。
「理論にしない努力です」
その言葉は、抽象的すぎる。
講義後、助手が言う。
「……曖昧ですね」
「ええ」
「評価されませんよ」
セルマは、窓の外を見る。
遠くの空に、雨雲が広がる。
「評価されなくても、
壊れないなら、それでいい」
その夜、理論は別の場所で使われていた。
《改訂版 非定型即応判断法》
条件は増え、
承認プロセスも増えた。
現場は、さらに慎重になる。
「確認済みか?」
「承認は?」
問いが増える。
その間に、
水は流れる。
小さな崩れ。
迅速対応。
報告書は整う。
セルマの元にも、結果が届く。
「事故は増えていません」
統計は、安定している。
だが、
事故“未発生”地点は、
減っている。
セルマは、気づく。
——理論は、事故を増やさない。
——だが、事故を減らさない。
火は、
届いていない。
別の場所で、
リエンは、立ち止まる。
誰にも教えられていない子どもが、
彼女の後ろで止まる。
「どうしたの」
リエンは、答えない。
石を押す。
水を逃がす。
子どもは、じっと見ている。
「なんで分かるの」
リエンは、少しだけ考える。
「止まったから」
子どもは、首を傾げる。
「それだけ?」
「それだけ」
子どもは、真似して止まる。
風の音を聞く。
水の揺れを見る。
何も起きない。
それでも、
止まったことだけが、残る。
セルマは、その様子を知らない。
理論は、
届かない。
だが、
火は、
静かに、
別の方向へ広がっている。
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